BacK To Black (2)
夜の内にモップがけされた板張りの床、カウンター内の酒棚に整然と並べられた酒瓶が、カーテンを閉ざした薄暗い店内で光沢を放っている。よく磨かれたマホガニー製のカウンター、フロアの各テーブルの天板も同様に。
カウンター奥の休憩室、というより物置部屋は、片付いた店内とは対照的に雑多でごちゃごちゃとしている。酒瓶や食料の他に、店主の私物までいっしょくたに放り込んであるからだ。
物置部屋の長椅子に寝そべり、肘掛けに脚を乗せてハルは浅くまどろんでいた。
長椅子といっても布張りではなく座面が固い木製だし、長身の彼が脚を伸ばすと膝から下がはみ出てしまう。店員のランスロットや常連客からはよくこんなところでほぼ毎日寝られるものだと呆れられている。お世辞にも寝心地がよろしいと言える代物ではないのは確か。だが、寝るためだけにわざわざ歓楽街から少し離れた自宅アパートに帰るのも億劫なので、着替えを取りに行くとき、遊んだ女の部屋に泊まったとき以外は常にラカンターで寝起きしていた。
使い込んだ古いブランケットに包まり、よれたシャツのポケットから手探りで懐中時計を引っ張り出す。大きな欠伸をひとつすると、懐中時計を頭上に掲げて蓋を開く。あぁ、もうすぐ十二時か、とぼんやりしながら時間を確認した後、蓋の裏側の写真を数秒眺めてすぐに閉じる。
あと一時間だけ二度寝すると決めて、懐中時計を再びシャツのポケットに戻した時だった。部屋の隅で電話が鳴った。
この電話は店用ではなくハル個人のもの。更に言えば、サリンジャー一家関連の情報交換等の連絡のために置いてあるもの。よって、ラカンターに訪れる一般客のほとんどはこの電話の存在を知らない。
一家の者には『店の営業時間内には絶対連絡してくるな』(そもそも情報屋に片足突っ込んでいる程度の、あくまでカタギの自分が緊急を要する危険な事態に巻き込まれない程度の協力しかしていない)と、ランスロットにも電話について『使うな、誰にも話すな』ときつく言い含めている。当然、電話番号を女に教えるなど論外。ちなみに、寝ているときは電話を無視する時もある。
だから、最初は無視していたものをいつまでも鳴り止まない呼び鈴に業を煮やし、まだ重すぎる身体を電話台まで引きずっていく。普段の彼からは想像もつかない、老人並みに緩慢な動きにも拘らず、呼び鈴は鳴り止むことを知らない。否、ここまできて電話を取る前に切れようものなら、ハルの方がブチ切れるだろう。
「…………ハロー??」
『…………』
地獄の底から這いずり出てきたような、不機嫌極まる第一声。受話器の向こう側で息を飲むのが感じられた。
「……悪いが、俺はたった今起きたばかりで頭がよく回らん。だから、さっさと用件を、手短に、言ってくれ。話が長引きそうなら、あと一時間後に」
『だったら、単刀直入に話そう』
「……あん??誰かと思えば……、シャロンかよ?!」
そういや、なぜかこいつにだけは電話番号教えてたな。
あぁ、毒販売とかふざけた裏稼業なんかしていやがるし、あぶなっかしいからか……、あぁ、こいつじゃなくてグレッチェンが心配で教えただけだが。
「なんだよ、また何か妙なことに首突っ込むか巻き込まれるかしたのか??主にグレッチェンが」
『グレッチェンじゃない』
「てことはお前か。何やらかしたんだか知らんが、グレッチェンじゃなくてお前のことはお前自身でなんとかしやがれ。もしくはグレッチェンに協力してもらえよ」
『……それができればお前なんかに電話などしない』
「ほお、言ったな??どうせ痴情のもつれが原因で起きた問題なんだろ??」
『違う、いや、半分は違わない、かもしれないが』
「はぁ??はっきり言えよ、はっきりと。言えないなら切るぞ、俺はもう少し寝ていた」
寝ていたいんだ、と皆まで言わぬうちに、受話器越しにギャー!という泣き声が漏れ聞こえてきた。
寝起きであっても大体の察しがついてしまった。
「おめでとうシャロン、まさかお前が父親になるとはな!」
『ち・が・う!!!!!断じて違う!!!!』
「うるっせぇ!!耳元で怒鳴るな!!」
『お前がろくに話も聞かずにつまらないこと言うからじゃないか!!!!』
「はあぁぁああ?!よく言うぜ!!大方、俺に子守させる気で連絡したんだろうが、そうはいくかってんだ!!生憎、俺もガキは嫌いなんだよ!!お前のガキなら尚更な!!グレッチェンだって他の女に産ませたガキの面倒なんぞみたかないだろうよ!!」
『だから!私の子じゃない!!』
「そう言いきれるだけの証拠はあるのかよ??とにかく、俺は知らん。ガキの子守ならお前の母親に頼めよ!」
『ハ、ハルさん!待ってください!!』
これ以上付き合いきれるかよ、と耳から受話器を遠ざけた時、必死で呼び止めるグレッチェンの声が耳に飛び込んできた。シャロンなら問答無用で受話器を下ろすけれど、グレッチェンならば少しくらいは話を聞いてやってもいいだろう。
「無理しなくてもいいぜ、グレッチェン。あの、無駄に顔だけは良いダメ紳士の擁護なんかしなくても」
『いえ、擁護するつもりは一切ありません』
シャロンを容赦なく斬り捨てる物言いに、つい噴きだしそうになるのを堪える。
『ですが、その……、シャロンさんが心許ないのは勿論ですけど……』
「なかなか手厳しいな」
口調こそ遠慮がちだが、発言自体は至って辛辣。真剣なグレッチェンに悪いと思いつつ、込み上げてくる笑いを噛み殺す。いいぞ、もっとやれ、と心中で煽りながら。
『私も、赤ちゃんが、苦手で……、どう扱っていいものかわからないですし……。お義母様にお願いしたらきっと大事になってしまいます……』
俺だってガキの扱いなんざ知らん、と喉元まで出かかるも黙っておいた。もしや、本題はこれからのような気がしてきたからだ。
『それに、本当にシャロンさんの子じゃなくて、何か事件、例えば誘拐とかに巻き込まれ子かもしれなくて……』
「……なぜそう思うんだ??」
ほらきた。
声を低め、やや改まった口調でグレッチェンに尋ねれば、迷いの気配と共に沈黙が降りてくる。
急かすことはせず、グレッチェンが話を再開するのをしばし待つ。
「赤ちゃんが身に着けている衣類、靴、靴下に至るまで高級品質ですし、赤ちゃん自体も丸々と太って血色が大変良いんです。上流家庭の生まれで、大事に育てられてきた子ではないかと思うのです」
「なるほどな」
「それから、シャロンさんを厳しく問い詰めたのですが……。赤ちゃんの推定月齢から記憶を遡ってみても、その時期に高級衣類を揃えられるような家柄の女性と深く関わった覚えは一切ない、だそうです」
「本当か??いまいち信用できんのだが」
「…………『例え一夜限りであっても、関わった女性のことは一人も忘れていない』そうです…………」
グレッチェンの声音が一段と低く、憮然としているのがびしびし伝わってきたが、ハルは決して笑わなかった。思案を巡らせていて気に留めもしなかった。
僅かにでも事件の可能性があるなら、警察に届ければいいのだろう。だが、彼らの裏稼業を勘付かれる訳にもいかない。
黒光りする電話機本体、金に輝くダイヤル部分を無為にコツコツと指先で軽く叩く。ハルが沈黙する間、グレッチェンは息を詰めて答えを待っていた。
「何度も言うが、俺は今さっき起きたばかりだからすぐにはそっちの店に行けない。俺の代わりに、ディヴィッドを向かわせる。この時間帯ならあいつは暇だろうし。あ、何であいつ、とか思ってるだろ??正確に言うと、あいつじゃなくてあいつが行くならくっついてくる奴が約一名いてな。そいつがガキの面倒見るの得意だからだ。あぁ、心配すんな。ちょっと変わってるが、根は悪い奴じゃない。俺もあとで行くし、デイヴィッドに連絡取らなきゃならんから一旦電話切るぞ」
受話器越しにまだ話を続けたそうな空気を感じたが、あえて遮り受話器を置く。
うんざりと大きく頭を振り、電話台に両手をついてもたれかかる。
「ったく、めんどくせえ!ま、しょうがねぇか……」
観念したハルは受話器をもう一度取ると、ゆっくりとダイヤルを回した。




