第七話
朝の身支度を済ませたグレッチェンは、すぐに部屋から出て行った。
赤煉瓦造りや白い石造りの建物が大半を占めるこの街では珍しく、グレッチェンの住む安アパートはごつごつとした荒削りの石を使って建てられた、古い様式のものだった。その分建物は老朽化しているが、どうせ帰って寝るだけのために借りている部屋なので別段気になどしていない。
この時点で、時刻は八時半を回っていた。
店には開店の一時間前、十一時までに入れればいいので、朝の散歩がてら広場にでも寄り道してみよう。
グレッチェンは、あてもなく街中を歩き回ることが好きである。
身体を動かすのは元より、季節ごとに変わる空気や自然の様子、街の人々の喧騒など五感を通じて直に感じ、自分は地に足を付けてしっかりと生きている、そう強く噛みしめるのだ。
悪夢のせいでいつもより早起きしてしまったが、そのおかげでゆっくりと好きなことに時間を費やせる。災い転じて福となす、とは上手くいったものである。
下層の人々が住むアパートやコテージが集まった一画を抜け、北へ十五分近くかけて進むと教会が見えてくる。更に東へ向かって歩くと、広場へと続くブナの木の遊歩道に差し掛かる。
その時、グレッチェンの無駄な脂肪が一切ついていない腹から、くうっ、と音が鳴った。そういえば、昨夜レモネードを一本飲んだだけでまともに食事を摂っていない。
だが、食に対する執着心が薄いので、このまま何も口にしなくても平気でいられるだろう。しかし、人と接する仕事柄、接客中に盛大に腹の音が鳴ったりするのは余りにみっともなさすぎる。
グレッチェンはしばし逡巡した後、広場の中に足を踏み入れ、多数の屋台が立ち並ぶ場所まで向かった。
程なくして、焼き立てのマフィンとレモネードを手に、グレッチェンは広場の中央にある噴水から離れた場所のベンチに腰掛け、マフィンを一口大に千切っては口の中へ放り込んでいく。
柔らかな舌触りと共に砂糖と卵が合わさった、何とも甘ったるい味が口の中に拡がり、すかさずほのかな酸味を持つレモネードで流し込む。
噴水の近くではコンカ―ゲームに興じる少年達がいて、紐にぶら下げたコンカ―をぶつけ合っては大はしゃぎしている。
そして、彼らに背を向けた状態で、凧を上げる少年が一人。全員、年の頃は七、八歳といったところか。
凧上げしていた少年が突然アッ!と大きな声を出したと同時に、彼の手の中から凧糸が擦り抜ける。
凧はふわりと舞い上がり、螺旋を描くようにクルクルと宙を旋回した後そのまま風に流され、グレッチェンの足元に落下した。
グレッチェンは凧を拾い上げるとすぐに立ち上がり、自分の方へ走り寄ってくる少年に近づいた。
「ありがとう、お兄さん!!」
少年はグレッチェンを完全に男だと勘違いしているが、それに構わずグレッチェンは「どういたしまして」と、少しだけ頬を緩めて笑い掛けようとした。けれど、少年の顔をはっきり目にした途端、表情を強張らせてしまう。
腰のない栗毛の髪に、目尻が垂れ下がったつぶらな青い瞳といい、尖った鉤鼻とやや受け口なところといい、少年は昨日店に訪れた娼婦シルビアとよく似ていたのだ。
「ねぇ、君。あそこで、君と同じくらいの年の子達がコンカ―ゲームやっているけど、一緒に遊ばないの??」
平静を装いつつ、先程から気になっていたことを少年に尋ねると、少年は口角を思い切り下げて首を横に振る。
「……だって、あいつら、オレの母ちゃんの悪口言うから大嫌いだ。お前と、お前の父ちゃんを捨てたアバズレ、って……」
「…………」
間違いない、少年はシルビアの息子だ。
少年にどう言葉を掛けていいのか分からず、グレッチェンが困惑していると少年は悲しげに微笑む。
「でもね、父ちゃんが言ってたんだ。『母ちゃんは、父ちゃんがろくでなしだったせいで出て行っちまったから、父ちゃんは心を入れ替えて真面目になる!そうすれば、いつかきっと、母ちゃんは帰ってきてくれる』って。だから、オレも父ちゃんの言う事聞いて、良い子にしてるんだ!母ちゃんに帰ってきて欲しいもん!!」
何てことだろうか。
身勝手な理由で家を出て行ったにも関わらず、シルビアの家族は彼女が再び帰ってくることを信じ、ずっと待ち続けているなんて。
もしもシルビアが知ったら、迷うことなく一目散で家に帰るに違いない。
「……そっか。お母さん、早く戻ってきてくれるといいわね」
「うん!!」
少年は力一杯頷くと、凧を大事そうに両腕に抱えながら、元いた場所へと戻っていったのだった。
一人残されたグレッチェンは再びベンチに腰掛け、マフィンの残りの欠片を一気に頬張った。
『家族、息子の許へ帰りたい』と訴えるシルビアの悲壮な顔と、彼女の息子の笑顔が、交互に頭の中をちらちらと忙しなく駆け巡る。
昨夜、ハルから得たドハーティの情報の結果、シャロンは彼を始末するべき人間だという判断を下した。
あとはグレッチェン自身が毒を作るか作らないか、もう一度考え直さなければならないだけである。
どちらにせよ、もう一度だけシルビアと会って、それからグレッチェンは決断しようと決めていた。
そのためには、今日店に訪れる娼婦達にシルビアのことを知っているか聞き出し、知っていたら最もらしい口実を作り、店に連れて来てもらおうか。
グレッチェンは瓶にまだ残っているレモネードを飲み干すと、プハッと小さく息を吐き出したのだった。