Stand My Ground エピローグ
――切り裂きハイド事件より、約二年後――
「お前も物好きな奴だな。何も成人してからも馬鹿シャロンのお守り役努めなくたっていいのに」
グレッチェンが薬屋で働き始めてから数日後の夜、ハルが経営する大衆酒場ラカンターへシャロンと出向いたところ、ハルが開口一番にそう言ってのけたのだ。
「……どういう意味だ、ハル……」
「あ??ちなみに他意は一切含まれてない」
「…………」
ハルの相変わらずな憎まれ口にシャロン同様グレッチェンは閉口しつつ、さり気なく店内全体を見回してみる。
元々は二階建ての建物の二階部分を取り壊し、新たに屋根を設置して一階建ての建物に、一階部分も各部屋を仕切っていた壁を壊して大幅に改装した店は、通常の大衆酒場と比べてフロアがかなり広い。
扉から見て真正面の奥には、やはり広めのカウンター席が設置され、更に奥の酒棚には様々な種類の酒瓶が整然と並べられ、カウンターの頭上にはシャンパンやワインのグラスが逆さま向きに掛けられている。
天井の中央に吊るされた、小振りのシャンデリアの控えめな光がグラスや酒瓶に反射し、カウンター席付近だけが異様に光り輝いてみえた。
そのカウンター席を囲むように、フロアには二人掛けの丸テーブル席、もしくは四人掛けの四角いテーブル席がいくつか設けられている。
テーブルも椅子も装飾の一切が施されていないが、マホガニー製の上等な素材で作られており、飾り気のなさが却って品の良さを引き立てている。
木目調の落ち着いた空間の中、カウンター席の右隣には申し訳程度の低い舞台、舞台の上にはスタンドに立て掛けられたギターが置かれていた。
「あのギターは、ハルさんのですか??」
シャロンと共に、ハルが目の前に立つカウンター席に座るなり、グレッチェンは尋ねる。
「あぁ、そうだ。何なら、俺がギター弾くから舞台の上で歌ってみるか??」
「……それは遠慮しておきます……」
「そう言うとは思ったが。あぁ、注文はどうする??成人したからには何か軽い酒でも飲んでみるか??」
グレッチェンは少し考えた後、「……お酒じゃありませんが、レモネードは置いてありますか??」と答えた。
「あぁ、置いてある。酒じゃなくていいのか??」
はい、と頷くグレッチェンに頷き返すと、ハルは酒棚の隣の扉を開けて厨房へ入っていく。
程なくして、レモネードの瓶を手にカウンターの中に戻ってくると、グレッチェンに手渡す。
「直接瓶に口を付けて飲むのに抵抗があるなら、グラスに入れ替えるが??」
「あ、このままで大丈夫です」
シャロンの注文分の、スコッチの氷割りを作るハルの手の動きを興味深げにじっと見つめるグレッチェンに、ハルが「しかし、お前もまた変わった奴だな。働くと決めた途端、何も髪を切って男の格好なんかしなくてもいいのに」と、呆れてみせる。
返事の代わりにグレッチェンは、少し困ったように薄く微笑むと、レモネードの瓶に口を付ける。
二年以上前の暑い夏の日、アドリアナと一緒にレモネードで喉を潤したことを思い出し、一瞬だけ感傷に耽りそうになるのを、シャロンとハルに悟られないよう押しとどめた。
気を抜くと沈みそうになる気持ちを切り替える為、少し一人になろうと決める。
「ハルさん、ちょっとお手洗いをお借りしてもいいですか??」
「カウンターから見て右側の壁に扉があるだろう??あそこだ」
「ありがとうございます」
グレッチェンが席を立つやいなや、ハルは煙草に火を付けてシャロンにわざと煙を吐きかける。
徐に不快を露わにさせてグラスに口を付けるシャロンに、ハルはニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべて、言った。
「あいつが無事に成人を迎えられて良かったな。これで、合法的に何の問題もなく手を出せるぞ」
……ブッフォッッ!!!!
「うわっ!シャロン、てめ、汚ねぇぞ!!何しやがる!!!!」
シャロンが噴き出した酒が諸にハルの顔面に直撃。
当のシャロンは、噴き出した際に酒が気管支に入り込み、白い顔を真っ赤に染め上げて盛大に咳き込んでいる。
「……お、お前が、ゲホ、ゲホ、うっ……。ゲホゲホゲホッ!!お前がっ、妙なことっ、ゲッホ!!……言うからっ、だっ!!!!」
涙目で激しく咳き込みながら、シャロンはハルに精一杯の抗議をしてみせる。
「だからと言って俺に向けて酒を吐き出すな!!」
「知るか!条件反射だ!!」
「お前のことだから計算してやったんじゃねぇのか?!」
「そんな器用な真似できるか!!」
「……二人共、何をしているのですか……」
いつの間に戻って来たのか、グレッチェンが物凄く醒めた目付きでシャロンとハルの動向を眺めていた。
「ハルさん、シャロンさんが粗相をしてすみませんでした。これを使ってください」
グレッチェンはハルに自分のハンカチを渡すと、「何故、私ではなく、ハルなんだ……」とシャロンは不満げに呟く。
「シャロンさんはご自分のハンカチ持っているからです。小さな子供みたいなこと言ってないで早く汚れを拭いたらどうですか。シャツやスーツに染みの跡がつきますよ」
グレッチェンに冷たくあしらわれたシャロンは、仕方なく席を立つと手洗いに向かった。
その後ろ姿はどことなく、飼い主に叱られて尻尾を丸めている犬のようである。
「グレッチェン、ハンカチありがとうな。ちゃんと洗濯屋に出してから返す」
「そんな、お気遣いなく……」
「レディの持ち物に男の臭いがついちゃ申し訳ない」
「臭いって……。それにこんな成りでレディだなんて……」
思わず噴き出したグレッチェンに、ハルもフッと軽く笑い返す。
「シャロンの馬鹿にどこまでも一途な想いを寄せるお前さんは立派なレディだ」
「……何のことでしょう」
即座に表情を強張らせたグレッチェンに構わず、ハルは続ける。
「大方、その男装だって、研究のために独身貫いているあいつに追従しようとしてのことだろう??あいつが家庭を持つまでは自分も色恋に関わらないでいよう、と」
「……関わらないも何も、私の身体では、そういった事はどの道無理ですし……」
グレッチェンの薄灰色の瞳の陰りが一層色濃くなっていく。
「……生きてりゃその内、可能になるかもしれん。とにかく、お前は前を見て生きていくことだけを考えろ」
今度はハルの瞳が憂いに満ちていくのを、グレッチェンは見逃さなかった。
「……そうですね。シャロンさんに生かされた命ですから、粗末にだけはしないようにしていきたいです……」
「分かっていればそれでいい……、って、呼ぶより謗れとは言ったもんだ。渦中の人物がお戻りだ」
シャロンが手洗いから出て席に戻ってくる気配を察知したハルは、瞬時にして普段通りの軽い態度に切り替える。
「どうせ、私が席を外している間、二人で私の悪口に花を咲かせていたのだろう」
席に座るなり、わざと大きく嘆息するシャロンにハルは「さぁ、どうだか」と肩を竦め、グレッチェンは何とも言えない曖昧な笑みを口元に浮かべ、無言を貫いたのだった。
「Stand My ground」(終)




