Stand My Ground (10)
(1)
自室に駆け込んだグレッチェンは羽織っているケープも外履き用のブーツも脱がずに、手足を投げ出した状態でベッドの真下の床に腰を下ろしていた。
背にしたベッドにもたれ掛かり、マットに頭を乗せて天井を仰ぐ。
誰かに見られでもしたら、はしたないと叱られるだろうし、自分でも大変行儀が悪い振る舞いだと重々承知の上のこと。
黄なり色の天井壁をぼんやりと眺めながら、アドリアナはこういう暖かそうな色合いが似合っただろうな、と、何となしに思った。
(…………もう、あの優しい笑顔も、二度と見ることができない…………)
一人になった途端にグレッチェンの小さな胸の中は、深い哀しみと喪失感で瞬く間に埋め尽くされていく。
呼吸一つ行うのですら苦しくて堪らず、ベッドに凭れ掛けさせていた上半身を前へ九の字に折り曲げる。
自然と床に視線を落とせば、今度は淡い薄緑色の絨毯がアドリアナの瞳の色を想起させられ、耐え切れず「……うぅ……」と、苦しげに息を漏らしながら、床に倒れ込む形で崩れ落ちる。
起き上がる気力どころか、指一本動かすことすら億劫だ。
「…………寒い…………」
日が完全に落ち、一段と空気が冷え込む中で薪ストーブも点けていないのだから、寒いのは当然である。
だが、最も冷え込みが厳しい真夜中の寒空の下、寒さと恐怖に晒されながら路上で死んでいったアドリアナを思えば、どうってことなどないではないか。
せいぜい風邪を引く程度で済むだけで、全然痛くもなければ死ぬこともない。
世の中は何て不公平なのだろうか。
己は血の繋がった肉親にすら憎まれ、人を殺める血を持つ悍ましい忌み子にも関わらず、過分なまでに守られているというのに。
人々を優しく包み込み、周囲から必要とされるべき存在だったアドリアナは、娼婦というだけで無残に殺されただけでなく、死後ですら人々から謂れなき蔑視を受け続けているなんて。
グレッチェンの哀しみは次第に行き場のない、かつてない強い怒りへと変貌していくと共に、押し寄せてくる疲労の波に飲まれて徐々に意識が遠のいていった――
グレッチェンが再び意識を取り戻すと、床の上ではなくベッドに寝かされていた。
着ている服が寝間着に変わっていることや頬の叩かれた痕に湿布が張られていることから、夫人かエドナが様子を見に来てくれたのだろう。
また一つ余計な心配と世話を掛けてしまった、こういうところが自分は子供なのだ、と反省しながら、ゆっくりと半身を起こす。
慣れないのに長時間走り続けていたこと、固い床の上で眠っていたせいか、身体のあちらこちらが軋むように痛い。
(……でも、アドリアナさんは……、今の私と比べ物にならない、想像を絶する痛みの中で……)
毛布を固く握りしめ、唇を噛み切りそうな程強く噛みしめる。
唇に血が滲み、口内に鉄臭い味が拡がっていく。
ふと窓辺に視線を移すと、カーテンの隙間からは朧げな月の光が微かに差し込んでいる。
今何時だろうと、ベッド脇のサイドテーブルに置かれた時計で時刻を確認する。
この時間ならば、夫人やエドナは眠ってしまっている。
グレッチェンはそろそろとベッドの中から抜け出し、時計の隣に置かれたカンテラを手に取る。
アドリアナが受けた痛みと恐怖、絶望を代わるなんてできないけれど。
せめて彼女の最期を、死の全貌を知りたいし、受け止めたい。
なるべく音を立てないように部屋の扉を開け、真っ暗な廊下に出る。
カンテラの光を翳し、靴も履かずに裸足のまま、グレッチェンは同じ階のシャロンの私室へと向かったのだった。
(2)
シャロンの部屋の前まで来てみたものの、扉を叩く勇気が今一つ持てない。
手をノックする時の形に作りつつ、扉を見上げたまま立ち竦んでいると、折良く中から扉が開き――、寝間着の上にガウンを羽織ったシャロンが部屋から出て行こうとしていた。
シャロンはグレッチェンの姿を認めると、目を瞠って一瞬だけ動きを止めて固まった。
「……グレッチェン??こんな夜更けに……、一体どうしたんだ??」
「…………」
シャロンと顔を合わせたはいいが、それまでの意気込みはどこへやら、グレッチェンは中々用件を言い出せずにいる。
「……またそんな薄い寝間着一枚だけで……。上着を羽織ってこなかったのかね??風邪を引いてはいけないし、寒いからとりあえず中に入りなさい」
シャロンは部屋に入るよう手招きし、グレッチェンはおずおずと身を竦ませて中へ入っていく。
部屋の奥に置かれたベッドの上に座るよう促され、枕の横に腰掛けたグレッチェンの肩からシャロンは薄い毛布を掛けてやる。
「身体が冷えかけているようだから、温かい飲み物を用意してくるよ」
「……いえ、結構です……。お気遣いなく……」
「遠慮しなくていい。丁度私も身体が冷えてきたので、温めたウイスキーでも飲もうかと思っていたところだし」
シャロンは、グレッチェンが更なる断り文句を告げるよりも早く、さっさと部屋から出て行ってしまった。
一人取り残されたグレッチェンは、ベッドの横に並ぶ書斎机の上に乱雑に山積みされた、医学書や薬学書の書名一つ一つをじっくりと眺めることでシャロンが戻ってくるまでの時間を潰していた。
約一〇分後、シャロンが大きめのカップを両手に持って部屋に戻ってくる。
シャロンは右手に持っていたカップをグレッチェンに受け渡すと、ベッドのすぐ隣に置かれた書斎机の椅子に座った。。
グレッチェンのカップの中身は温めたミルクで、息を数回吹きかけて熱を冷ましてからカップに口を付ける。
やけにとろりとした液面に、まろやかな甘味を持つのは蜂蜜でも入れてあるからだろう。
「……すみません、研究のお邪魔をして……」
「いや……、大丈夫だよ。また一人で眠れないのかね??」
カップに口を付けながら、グレッチェンと向かい合わせになるように椅子の向きを変えるシャロンは、これまで通りちゃんと視線を合わせてくれている。
ほんの些細な事ながら、たったそれだけでグレッチェンの重く沈んだ心が僅かながらに浮上する。
シャロンの視線に答えるべく、グレッチェンも臆せずに彼を真っ直ぐに見つめ返す。
「……あの、それ……」
グレッチェンが自らの湿布を張った頬を上から軽く撫でてみせる。
グレッチェンの仕草の意味を理解したシャロンは苦笑を漏らしつつ、彼女と同じように湿布を貼った頬に掌を押し当てる。
「ハルに殴られた痕が腫れてきてしまったんでね……。あの男の辞書に手加減と言う単語は載っていないらしい」
「変なところでお揃いになってしまいましたね」
下手な冗談で頑張っておどけてみようとしたグレッチェンに、突然シャロンは深々と頭を垂れた。
「……全くだ。……すまない……。君には、本当に申し訳ない事をしたと思っている。叩いたことは勿論、アドリアナの死を隠し、嘘をついていたことも……。ハルが言っていた通り、私は君を子供扱いし過ぎていただけでなく……、私自身が、君と一緒に彼女の死を受け止めることから逃げていたんだ……」
「…………」
「……意気地なしで卑怯な男だと見損なってくれていい……」
「……そんなこと、私は、微塵にも、思っていません……」
シャロンの言葉に否定の意を示すべく、グレッチェンは悲しそうに眉根を寄せ、嫌々をするように二、三度顔を横に振る。
「……後生ですから顔を上げて下さい、シャロンさん……」
グレッチェンは垂れているシャロンの頭を上げさせるため、頬を両手で包み込んでそっと上向かせた。
「……確かに、嘘をつかれていたことに全く傷付いていない、と言えば、大きな嘘になります……。ですが……、私は自分で思っているよりもずっと子供だったと、今日起きた多くの出来事を通して嫌と言うくらい、思い知らされました……。だから、シャロンさんが私を案じる余りに嘘をついてしまったのは仕方がないことだった、と、今は理解しています……」
「…………」
「……でも……」
「でも??」
「一つだけ、どうしてもシャロンさんに聞いて欲しいお願いがあります」
「……何だね??」
シャロンの表情が強張っていくのも構わず、グレッチェンは続けた。
「アドリアナさんの事件が掲載されている新聞記事を全部私に見せて下さい」
シャロンのダークブラウンの瞳に、動揺と迷いが激しくちらついては影を落とす。
ほんの一瞬の逡巡ですら許さないと、温くなったミルクのカップを膝の上に置き、グレッチェンは挑むような怜悧な視線をシャロンの眉間に突きつける。
氷の刃を思わせる、グレッチェンのいまだかつてない、冷たくも鋭い目付きと口調にシャロンはたじろぐばかり。
小さな氷の姫君の視線に絡めとられ、身体中をじわじわと氷で侵食されていくような錯覚を覚えてしまう。
図らずも、一回りも年下の、純粋無垢だとばかり思っていた少女の見知らぬ一面にシャロンは気圧される一方であった。
「…………分かった…………。君の……、望みを聞き入れよう……」
「……ありがとうございます……」
辛うじて発したシャロンの言葉に、グレッチェンが纏っていた冷たい空気は瞬く間に消失していく。
一段と深いため息を吐き出すと、椅子から立ち上がったシャロンは壁際に置かれた背の高い書棚に緩慢な動きで近づいて行く。
五つの段に分厚い医学専門書が分類分けされて並ぶ中から、三段目の一番左端の空いた隙間に押し込んであった一〇日分の新聞を引っ張り出す。
「……本当に後悔しないかね??……」
浮かない顔つきで念を押すシャロンに、グレッチェンは唇を真一文字に固く引き結んで強く頷いてみせる。
それでも心配そうに見つめてくるシャロンに気付かない振りを決め込み、グレッチェンは一〇日前――、アドリアナの事件が発覚した日の新聞の三面に目を通し始めたのだった――




