第六話
その中は、水というには温かく、湯というには生温い。けれど、とても居心地の良い場所。
裸のグレッチェンは膝を抱え、全身を丸めた姿で、ぷかり、ぷかりと水の中をひたすら漂っている。
余りの心地良さに、うとうとと微睡ながら。
まるで母親の胎内――、羊水に浸かっているようだ。
できることなら、永久にこのままでいたいし、外の世界になど出て行きたくなんかない。
私は……-―
――!!――
突如、何者かによってグレッチェンは足首を強く掴まれ、そのまま外の世界へ引っ張り出されそうになった。
足を掴む手の爪が肉に食い込んだことで生じる痛み、安寧の世界から引きずり出される恐怖感。
グレッチェンは力の限りに両の手足をバタバタと動かし、謎の手を振りほどこうと無我夢中で必死にもがき続ける。
しかし、抵抗も虚しく、そのまま外の世界へと放り出されてしまった。
ドサッ!!
目を開けると、真っ赤なベルベッドの天蓋が視界に映し出され、グレッチェンはスプリングがやけに利いた、だだ広いベッドの上に深く身を沈ませていた。
徐々に意識がはっきりし出したグレッチェンは幾つかの異変に気付く。
裸だったはずなのに、何故かシルクの寝間着を身に付けている。短いはずの髪が、腰より長く伸びている。身体も少し小さくなったような気がするし、寝間着から伸びている手足が病的に痩せ細っている。
どうやら、少女の頃の彼女に戻ってしまったみたいだ。
信じられない状況に愕然とするグレッチェンだったが、更にはいつの間にか猿ぐつわが嵌められ、流行遅れの黒いフロックコートを着た屈強な体格の男が彼女の身体に跨り、身動きが取れないよう、身体を押さえ込んでいる。フロックコートとネクタイとズボンの組み合わせが妙にちぐはぐな辺り、おそらく執事か、従僕か。
「アッシュ。新しい『宝』が手に入ったから、また試させておくれ」
顔だけはどうにか動かせる。
声が聞こえた方向に視線を移すと、金縁眼鏡を掛けた上品そうな紳士がグレッチェンを見下ろしていた。
深いグリーンの瞳と眼鏡の色とがよく合っているが、グレッチェンを見る目はひどく無感情だ。
まるで、人ではなく、実験動物と接するかのように。
『宝』と言われた瞬間、背中に巨大な氷を当てられているような気分に陥り、恐怖で身を震わせる。
だが、ここでは自分を助けてくれる者などいやしない。
今度は反対側に顔を動かしてみる。
そこには、自分と面差しがよく似た、それでいて高慢そうな顔つきの二十歳前後の女が佇んでいた。
「お前を生んだせいでお母様は死んだの。お前は、お父様と私から大切なお母様を奪った。それに飽き足らず、子供の癖にシャロンを誑かそうとして……。彼は私の婚約者なの!!とにかく……、私はお前を一生許さないわ」
延々と自分を責め立てる女の言葉にいたたまれなくなり、グレッチェンは再び紳士の方へ顔を戻す。紳士は一本の注射器を手にしていた。
「さぁ、実験だよ」
紳士はグレッチェンの左腕の袖を乱暴に捲り上げると、幾つかの注射器の針痕が肌にくっきりと残されている箇所に、新たに注射針を突き刺したーー。
ガタン!!
けたたましい物音を立てて起き上がると、見慣れた部屋の様子が目に飛び込んできた。
(……どうやら、悪い夢を見ていたようね……)
両の掌で顔を覆いながら、グレッチェンは心底ホッとし、大きく息を吐き出す。
気を落ち着かせるため、五分程その状態を保っていたが、気持の切り替えが完了したと同時にサッとベッドの中から抜け出す。
ベッド脇の置時計で時間を確認する。朝の八時ちょっと前だ。
ノッカー・アップに起こしに来るよう頼んでいる時間は八時半。あと三十分は寝られる。
だが、あんな夢を見た後ではとても二度寝する気になんて到底なれない。
グレッチェンは暗い気持ちを完全に払拭するべく洗面台に向かい、冷たい水を叩きつけるように顔を洗い始めたのだった。