Stand My Ground (8)
(1)
グレッチェンの髪を掴んだまま、少年が一歩にじり寄る。
痛みを堪えて一歩後退しようとするが、更に強い力を持ってして髪を引っ張り上げてくる。
罠の網に引っ掛かった小動物と罠を仕掛けた狩人――、全てを奪い尽くそうとする捕食者と、奪われて息絶える末路しか残されていない被・捕食者とでもいうべきか。
初冬の陰った太陽と、傘を被ったように上空を覆う黒い霧と灰色の雲の下、冬の到来を知らしめる木枯らしが二人の間を吹き抜けていく。
身動きが取れない間にも、他の少年達もじわりじわりと距離を詰めてくる。
彼らは、白昼堂々路上にて、グレッチェンの身ぐるみを剥いだ上で、連れ去ろうとしている。
道の往来で少年達が騒ぎを起こしているにも関わらず、周辺のあばら家やぼろアパートからは誰一人として外へ出てくる気配は見当たらない。
目の前で子供達が道を踏み外し、犯罪が起きようとしていても、見て見ぬ振りを決め込んでいるのだ。
悲しくもやるせないがこれが現実、迂闊に危険区域に足を踏み入れてしまった、自らの不注意と愚かさが招いた失態。
観念したグレッチェンは、一層身を固くさせた――
「うわぁ、ちょっと待ってくれよ!!」
グレッチェンの髪を掴んでいた少年が、素っ頓狂な、それでいて悲鳴にも似た叫び声を上げる。
何事かと目を見開いたと同時に、少年が、何処からともなく姿を現した一人の男に首根っこを掴まれ、軽々と身体を持ち上げられていた。
少年の手の力が自然に抜け、掌からグレッチェンの髪がするりと抜け出る。
グレッチェンはそろりそろりとさり気なく後退し、少年と男から一定以上の距離を取った。
「……お前らのようなガキどもにはこいつは上等すぎる獲物だ。俺に回せ」
「は?!勘弁してくれよ、サイクス!!いくらあんたでも獲物の横取りは……、って、うわあぁぁー!!!!」
いきなり、男は少年の身体をあばら屋の壁へと叩きつけるように思い切り投げ飛ばした。
鈍いけれど、人が壁に激突した音が周辺に響き渡り、少年はぶつかった衝撃で一部が崩壊した壁にものの見事に全身を強打し、埃臭い粉塵が舞う中でがくりと気絶して地に横たわった。
少年を投げ飛ばした時も壁に激突した時も、一貫して無表情の男にグレッチェンの全身の毛が逆立ち、肌という肌が恐怖で激しく粟立った。
子供相手ですら情け容赦ない男に他の少年達はすっかり恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように、狭い路地の間を縫って四方八方へと素早く退散していく。
残されたのは、見るからに無法者然としたサイクスとかいう男と、グレッチェンのみ。
一歩、また一歩と近づいてくる、静かな狂気を瞳に湛える大男を前に恐怖で膝が笑い、竦んでしまっている足は言う事を聞いてくれそうにない。
(……あの人とどことなく雰囲気が似ている……)
あの人とは、レズモンド博士がグレッチェン、もとい、アッシュへの『実験』の際、常に付き従わせていた従僕のことだ。
元ボクシング選手だったというだけに大柄で屈強な体格を持つ男で、アッシュが実験中に抵抗できないよう、いつも身体の上にのしかかっては両手首をきつく抑えつけていた。
体格のみならず、無口で無表情、瞳にそこはかとない狂気を宿している……等、サイクスと従僕には似通っている点が多い。
絶体絶命の状況下に立たされている中、忌まわしい過去の記憶までが呼び起こされ、今、グレッチェンは絶望の淵へと立たされようとしていた。
(2)
サイクスとグレッチェンとの間の距離があと二、三歩、というところで、突然グレッチェンは背後から腕を強く引かれた。
かと思うと、ふわりと身体が宙に浮き――、荷物のようにして腕を引いてきた人物の小脇に抱えられていた。
二度あることは三度ある。
もう何度目かになるだろう、グレッチェンは更にぎゅっと身を固く構えたが、煙草と麝香の香りが入り混じった匂いが鼻をつくと、言葉では言い尽くせない程の安心感を覚え、全身からすぅーと力が抜けていった。
「よぉ、サイクス。相変わらず、しけた面しやがって。……悪ぃが、この娘はお前に渡す訳にはいかないんで、今すぐ手を引いてもらおうか……、って、おっと!口より先に手が出るのも相変わらずだな!」
言い終わるよりも先にサイクスが殴り掛かってきたので、ハルは空いている方の腕を使って拳を受け止め、間髪入れずにサイクスの腹目掛けて蹴りを一発食らわせる。
倒れるまでにはいかなかったが、サイクスが苦しげに腹を抑えた一瞬の隙を逃さず、ハルは固く握った拳を彼の顔面にめりこませた。
よろめきながらもサイクスはハルとの間合いを空けるため、切った唇から流れる血を手の甲で乱暴に拭うと二、三歩程後方へ下がり、態勢を整えようとしたが――
グレッチェンを小脇に抱えているハルはこれ以上遣り合う気はなく、サイクスが態勢を整えている間にも素早く背を向け、この場から全速力で駆け出していたのだった。
先制攻撃に失敗し見事に返り討ちに遭ったあげく、あっさり獲物を奪われたサイクスはギラギラと激しい憎悪を瞳に滾らせ、当然の如くハルの後を猛然と追い始める。
脚力はハルの方が勝っているが、十三歳の少女を抱えた身では少々分が悪い。
ハルは後方を振り返り、続けてちらりと視線を上に向ける。
「グレッチェン、耳を塞げ。両耳ともだ」
指示に従い、グレッチェンが両手で耳を塞ぐのを視界の端で確認すると、ハルは懐から拳銃を取り出し、再び後方を振り返って立ち止まる。
銃を目にしても怯むどころか、闘牛場の暴れ牛よろしく、二人に突っ込んでこようとするサイクスを見て、ハルはにやり、と不敵な笑みを浮かべて銃を構えた――
合計四発の銃声が辺り一帯に鳴り響く。
頭上から、サイクス目掛けて何枚ものシャツやズボンなどの洗濯物が風に流され、舞い落ちてくる。
ハルが、道を挟んで向かい合う、二軒のぼろアパートの窓と窓の間から繋がれている洗濯紐の両端を銃で撃ち抜き、落下してくる洗濯物でサイクスの動きを封じるよう仕向けたのだ。
「くそっ!」
目論見通り、頭に大きめのシーツが被さってしまったサイクスは、シーツを剥ぎ取ろうと躍起になりもがいている内、足元に落ちていた洗濯物に足を取られて転倒してしまう。
その間にも、ハルは少し離れた建物と建物の狭い隙間に入り込み、グレッチェン共々身を隠すと、すぐに彼女を地に降ろした。
「……あ、あの……」
「……シッ!」
肩を上下させ、荒い息を静かに整えながら、グレッチェンに向けてハルは唇に人差し指を押し当てて黙らせる。
グレッチェンが慌てて口元を両手で抑え込んだと同時に、先程の路地を狂ったように疾走していくサイクスの姿が垣間見えた。
ハルの息遣いが不規則なものから規則的なものに変わり出すまで、グレッチェンはしばらくの間口を噤んでいた。
「……グレッチェン、そろそろ出るぞ。もうサイクスの野郎もこの辺りをうろついていないだろう」
そう言うと、ハルはグレッチェンに広い背を向け、しゃがみ込む。
「さっきは、切羽詰まった状況だったとはいえ、レディに対して荷物みたいな扱いしちまって悪かった。今度はちゃんと背負ってやるから乗れよ」
「……いえ、大丈夫です……。私、まだ歩けますから……」
「嘘をつくな。あの教会からノース地区まで走ったせいで、本当は足がパンパンに浮腫んで痛くて仕方がない癖に。それに、ノース地区から完全に出て行く前にまた危ない奴に襲われる可能性も有り得る。そうした場合、背中に居てくれた方が守りやすいし逃げやすい」
「…………」
ハルの最もたる言い分に反論の余地もなく、グレッチェンは唇を僅かに歪めながらも「すみません、お世話掛けます……」と、言う事に従い、彼の背中に乗りかかった。
「そうそう、こういう時は反抗せずに素直に従ってくれ。……って、さっき抱えた時も思ったが、お前さんは本当に小さくて軽いな……。ちゃんと食って大きくならないと良い女に育たないぜ??折角綺麗な顔してんのに、それじゃあ余りに勿体ねぇ」
「…………」
「とりあえず、教会の正門でシャロンと落ち合う約束をしているから戻るぞ。……あぁ、頼むから、脱走を謀ろうとするのだけはやめてくれよ??」
「……分かっています……」
「ならいい」
ハルは満足げに微かに笑うと、グレッチェンを背負って建物の間の狭い隙間から先程の路地へと抜け出し、西に向かって足早に歩き出す。
アドリアナを最悪というべき形で失ったというのに、普段と変わらぬハルの軽い態度と口調にグレッチェンは酷く戸惑っていた。
もう、あの、うららかな春の日差しのように暖かく、優しい笑顔を永久に見ることが叶わないなんて――、改めてグレッチェンの意識は深い哀しみの海の底へとどこまでも沈み込んでいこうとしていた。
すると、背中越しにグレッチェンが醸し出す欝鬱とした空気を感じ取ったのか、ハルがこちらを振り返った。
金色が入り混じったグリーンの瞳からは、やはり鋭さ以外何の感情も読み取れず、益々グレッチェンを困惑させる。
「……話はシャロンの馬鹿から大体聞かせてもらった。まぁ、俺が言うのも何だが、あいつを含めマクレガー家の人間が、お前さんを傷つけたくないばかりにアダの死を隠し通そうとしただけだ。別に悪意があってやったことではないのだけは分かってやってくれ。色々な意味でやり方は非常にまずい上に、お前さんを子供扱いして意思を完全に無視した点は、いくらでも文句を言い募ってやってもいいとは思う。でもな、お前もお前でシャロンに何も尋ねようとせず、いきなり無謀な行動に出たのは大きな間違いだ。たまたま運良く、寸でのところで俺が見つけたから良かったものの、でなきゃ、お前はサイクスに攫われて、今日明日にでも路上に立たされて身を売る羽目になっていたかもしれん。お前さんの、何をしでかすか分からない不安定さをシャロンは多かれ少なかれ見抜いていたから、言うに言えなかったのかもしれないな、と、俺は多少なりとも納得した」
「……………」
淡々とハルに諭されながら、グレッチェンは自らの短慮による行動の末に騒ぎを引き起こし、周囲の人々に多大な心配と迷惑を掛けてしまったとようやく気付き、己に対して深く恥じ入った。
アダの死と自らの過ちに酷く落ち込み、無言で項垂れるグレッチェンに、ハルはやれやれと苦笑する。
「アダから聞いていたが……、お前さんは早く大人になりたがっていたんだってな。でも、これで思い知っただろう??大人になるのは言う程簡単なことじゃないってな」
まっ、なりたくなくてもいずれ大人にならざるを得ないが、と言うハルに、グレッチェンは目を瞠る。
「……アドリアナさんも、以前に似たようなことを仰っていました……」
「へぇ、そうか。偶にはあいつも的を得た事言ってたんだな。大方、年下の娘に精一杯姉貴振りたかったんだろ」
「……私、アドリアナさんが本当のお姉様だったら良かったのに、と、いつも思っていました……」
「あぁ、やめとけやめとけ。あいつ、かなり抜けた性格だったから、いずれお前さんと立場が逆転していたに違いないぜ」
「……ハルさん、さっきからアドリアナさんのこと、貶してばかりいませんか??」
「いや、俺は事実を述べているだけだ」
「…………」
アドリアナに対するハルの憎まれ口にグレッチェンは、怒るべきか相槌を打つべきか、どうしたものかと複雑な気分に陥っていたが、お蔭でほんの僅かでも哀しみが和らいできた、ような気がしていた。
これはきっと、ハルなりのアドリアナへの偲び方であり、グレッチェンへの励ましでもあるのだろう。
そう思いつつ、ハルに背負われて話に耳を傾けている間にも、無事にノース地区を抜け、イースト地区へと入り――、広場を教会とを繋ぐブナの遊歩道に差し掛かった。
西に傾いていく太陽の光が進行方向と重なり、逆光が目に眩しくて仕方がない。
手を翳し、ハルの肩越しから正面に見える目的地、教会の正門を細めた目を凝らして見据えると――
頑強な黒い鉄柵の前を、うろうろと落ち着きなく無為に歩き回る人物――、シャロンの姿を捉えた。
途端に、グレッチェンはハルの肩に乗せていた顎をさっと外し、さっと背に顔を隠した。
「グレッチェン、背中から降ろすのを見計らって逃げようとするなよ??」
「……し、しませんよ!……」
「絶対にだぞ??」
「……わ、分かってます!!」
よし、と、ハルは短く笑い、シャロンが待つ場所目指して幾分歩みを速めたのだった。
当時(19世紀~20世紀初頭)ロンドンの空を覆う黒い霧の正体は、過剰使用される石炭の煙から舞う煤でした。
なので実際は、石炭の使用量が比較的少ない夏場ならともかく、最も使用料の多い冬場に外で洗濯物干すことはまず有り得ないのですがね……(汗)




