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灰かぶりの毒薬  作者: 青月クロエ
Everybody's Fool
42/110

Everybody′s Fool(6)

(1) 


  少年が目を覚ますと、今にも泣き出しそうにして顔を覗き込む、愛する母の姿が視界に映し出された。


 いつも朗らかな笑顔を浮かべている母が、こんな悲しそうな顔を見せるなんて……、まだ薄ぼんやりした意識ながら、少年の胸がちくりと痛む。


 お母さん、泣かないでと、慰めようとするも、声が掠れて上手く言葉が発せられない。

 そんな彼の心情を知ってか知らずか、母はベッドに横たわったままの小さな身体を掛布ごとぎゅっと強く抱きすくめた。


『……大丈夫よ、シャロン。もう大丈夫。大丈夫だから……。皆にとっての愚か者は、もういなくなったから……。大丈夫……』


 何故母の声が震えているのか、何故身体のあちこちが軋むように痛むのか、少年には全く理解出来ずに戸惑うばかり。


『……お母さん……』

『大丈夫、貴方は悪い夢に魘されていただけだから……』


 大丈夫だ、と、しきりに繰り返す母が何だか可哀想に思えてきた少年は、それ以上は何も言えなくなってしまった――






 シャロンが我に返った時、彼は小さなシングルベッドの上に寝かされていた。


 ベッドマットのやや硬い質感や、ヘッドボードやフットボード、脚、サイドレールの粗雑な作りから、明らかに彼が自室で使用しているベッドではないことが伺えた。

 シャロンは勢い良く半身を起こして、部屋全体を見回してみる。


 ベッドから見て左側の壁のコート掛けには彼のフロックコートが、その隣には背広とベスト、カラータイが同じくハンガーに並んで掛けられていた。

 彼の衣服の下には、中にぎっしりと本が並ぶ背の低い本棚があり、その右横には壁に沿って小さなクローゼットが置かれている。

 クローゼットの更に隣――、仕切りのような壁を間に隔て、少し奥まった場所に小さな流し台らしきものが設置されていた。

 続けて、正面に視線を移動させれば玄関の扉が目に映り、その右側には便所と風呂の入り口らしき扉――、シャロンはようやく、ここが何処なのか思い出した。


 慌ててベッドから抜け出そうとしたシャロンだったが、ベッドのすぐ右側のサイドテーブルにて、椅子に座ったまま突っ伏して眠るこの部屋の主――グレッチェンの姿を目に留めた。


 一日の仕事を終えた後というだけでなく、シャロンの介抱で疲れてしまったのだろう。

 カンテラの光が顔に当たって眩しいだろうに、グレッチェンはすっかり深い眠りに陥っている。

 あどけなさがほんの少し残る寝顔を一瞥すると、シャロンはすぐにベッドから降りる。そして、グレッチェンを起こさないよう、なるべく音を立てずに身支度を整え始めた。


 ベストもカラータイも身に着け、フロックコートのボタンを全て嵌め終わったシャロンは、グレッチェンの肩にベッドの掛布をそっと掛けてやる。グレッチェンは、むにゃむにゃと言葉にならない寝言をつぶやくも、目覚める様子は全く見受けられない。

 シャロンは、もう一度だけグレッチェンの寝顔を見下ろすと、静かに扉を開けて部屋から出て行ったのだった――



(2)

 依然、ひどく痛み続ける頭と胃袋、込み上げてくる吐き気を気力で堪えながら、シャロンは元来た真っ暗な夜道を一人辿っていく。

 グレッチェンが休ませてくれたお蔭か、体調とは裏腹に思考だけはやけに冴え始めていた。


 あの乞食から聞かされた話が真実ならば……、いや、あの日の記憶の大半が欠けていたのはきっと、彼の本能が身の毛もよだつ悍ましい出来事を忘れさせようとしたからに違いない。


 そう、あの日――、シャロンは学校が休みで家に居たところ、母に女児用の服装と長髪の鬘を半ば強引に身につけさせられていた。

 母が仕事で薬屋に出掛けている間に脱ごうとしたが、女児用のドレスの着脱方法など男の自分が分かる筈もなく、女中に脱がすよう頼んでも「奥様の許可を得ないと何とも……」と、二の足を踏まれてしまい、幼心に苛立ちを募らせていた。

 そんな時に、大嫌いな父親と便所で鉢合わせてしまったのだ。

 八つ当たりも兼ねて父を思い切り無視すると。彼は激怒して後を追ってきた――、そして――


 鳩尾を殴りつけられて気絶したシャロンは、父によって『銀の鎖』という阿片窟へ連れて行かれた。

 自分を、ウォルター・ケインという男の慰み者として差し出し、代わりに金か阿片を手に入れる為に――


 だから、父はあの日を境に施設に強制入所させられたし、母もあれから一切シャロンに女装させなくなったのだろう。


 ウォルター・ケインに犯されている最中の記憶は、今のところ思い出してはいなかった。

 否、思い出すも何も、四方の真っ赤な壁に大きな銀の鎖が飾り付けられた空間には、客の男達が煙管から吐き出す阿片の煙がもうもうと立ち込めていたし、むせ返る程にきつい白壇の香り(この香にも阿片が混じっていたかもしれない)のせいで意識が朦朧としていたのだ。


(……もういい、もうこれ以上思い出そうとするのは却って、更に自分を苦しめるだけだろう……!!)


 だが、それでもシャロンはあの乞食の話の一部分で気になって仕方ないことがあった。


『旦那とあの男のせいで銀の鎖が潰された』とは、一体どういうことなのか??


 銀の鎖とは、おそらくあの阿片窟の呼び名だ。

  その阿片窟の所有者であり、考えたくはないが――、幼い自分を犯した、くすんだ赤毛の中年男がウォルター・ケインなのだろう。


 危険物であるにも関わらず、この国で阿片は合法化されており、大きな事件でも起こさない限りは阿片窟に警察が押し入ることなど滅多にない――、筈だというのにーー、店が取り潰しになる程の出来事――、あの日あの場所で、父は一体何を引き起こしてしまったのか。


 今までずっと忌み嫌っていた父が、完全なる廃人と化した理由は『あの日』と密接な関係があるに違いない。


 ここまで考えて、シャロンはふと口元を歪め、皮肉気に笑ってみせる。

 こんなに父について考えたことなど今まで一度たりともなかったからだ。

 もしかすると、自分がウォルター・ケインに犯された事実から目を逸らしたいがため、父の方ばかりを気に掛けだしたのかもしれない。

 それでもシャロンは、どうしても『あの日』の真実が確かめたかった。

 例えそれが、自らを破滅へと追い込む可能性が高くなろうとも――



(3)

 歓楽街に辿り着いたシャロンは、薬屋の前を通り過ぎ、更に東へ一〇分程掛けて歩き続けた。


 やがて、赤茶色の塗炭屋根と漆喰塗りの白壁の建物――、旧知の友人ハルが経営する大衆酒場ラカンターの前までやってきたシャロンは、入り口の扉を力一杯叩いてみせる。

 けれど、すでに閉店を迎えている時間だからか扉は開きそうにない。

 それでもシャロンは、しつこく何度も何度も扉を叩き続けた。


 そのかいあってか、しばらく後にバンッ!とわざと乱暴に扉が開け放され、中から、男にしては長めのブルネットの髪に薄っすらと顎鬚を生やした店主――、ハルが不機嫌も露わに顔を覗かせた。


「お客さん、悪ぃが店はとっくに閉まっている。だから今夜のところは……、って、何だよ、シャロンか」

「悪い……、閉店時間は過ぎているだろうとは思ったが、どうしてもお前に話したいことが……」

「あ??何だ、まさかと思うが、愛の告白とかじゃないだろうな??」

「やめろ、気色悪いことを言うな」

「冗談だ。……その異様なまでの顔色の悪さからして、何かあったんだろう??とりあえず入れよ、丁度ランスも帰ったところだし」

 ハルはシャロンに、店の中へ入るよう促したのだった。




 シャロンはカウンター席に座るなり両肘を付き、重ねた掌の上に額を乗せて俯く。

 ハルはすぐに厨房へ向かい、レモネードの瓶をシャロンに手渡した。

「……ハル、これはグレッチェンの……」

「不治の病に侵された病人みたいな顔してる奴に、酒なんか飲ませられるかよ。特別に奢りにしておいてやる」

「…………」

 反論の余地のないシャロンは、黙っておずおずと瓶を口に含む。

 当然ながら、レモンの酸味が荒れてしまった胃袋を刺激し、チクチクと刺す様な鋭い痛みが生じ出したため、ほんの一口飲んだだけですぐに瓶を横に置いた。

「……で、俺に話したいことって何なんだ??」

「…………」

 自分から言い出した癖に、シャロンは中々口を開こうとしない。

 ハルはシャロンの心情を察してか、煙草に火を付け、彼の言葉が紡がれるのを黙って待っている。


 ハルが二本目の煙草を灰皿に押し付けたと同時に、シャロンは独り言のような、か細い声で尋ねる。

「……ウォルター・ケインという男を知っているか??」

「あ??あぁ、話だけだが一応知っている。確か大陸東方部の植民地でこの国の商人が現地の愛人に生ませた人物で、三十年ほど前にこの国に渡り、『銀の鎖』という阿片窟を開いた。だが数年後、『銀の鎖』は取り潰されて奴は警察に逮捕、裁判で終身刑を言い渡された……筈だったが、二年程前に突然釈放され、今や実業家として上流階級やアッパー・ミドルの人間と繋がりを持ち、怪しげな謎の俱楽部まで発足している、ってとこだ。ちなみに、実業家として振る舞う時は、偽名を使っているらしい。で、この男が一体何だって言うんだ……」

「……それは……」


 ここで突然、シャロンの言葉を遮るように、激しく扉を叩く音が飛び込んで来た。


「……ったく、何だってんだよ!」

 ハルが鬱陶し気に扉を睨みつけて舌打ちした直後、「……夜分遅くに、しかも閉店後なのにすみません……。こちらに、シャロンさんは来ていないでしょうか……」と、少し怯えたような、やや高め少女の声――、グレッチェンの声が扉越しに聞こえてきたのだ。


 グレッチェンの声だと気付いた途端、ハルがカウンターの中から出るよりも早くシャロンは席を立ち、つかつかと音を立てて扉に近づくと勢い良く開け放った。


「…………」

「……あ……」


 お互いに目が合った瞬間、二人は一気に感情を爆発させた。


「グレッチェン!!今何時だと思っているんだ!!女性が一人歩きしていい時間じゃないのは分かっているだろう?!たまたま無事にここまで来れたから良かったものの……!もっと女性としての危機管理の意識をしっかり持ちたまえ!!」

「シャロンさんこそあんな酷い状態で帰ったりして……!万が一、強盗や暴漢に襲われでもしたらどうするんですか!!それでなくても、帰宅道中に倒れたりしたかもしれませんし……。途中で店にも寄りましたが、帰宅した気配がなくて……。余り心配掛けるようなことしないで下さい!!」

「それはこっちの台詞だ!!」

「いいえ、私の台詞です!」


 ゴン!!

 ……コツン。


「……お前ら、真夜中にうるせぇよ……。あと、人の店で盛大な痴話喧嘩を繰り広げるんじゃねぇ……」


 二人の様子を見兼ねたハルが、シャロンの頭を拳で殴りつけ、グレッチェンの額を軽く小突いて仲裁に入った。


「あぁ、それとシャロン。今からお前が俺に話そうとしていることは、そこの灰かぶり姫にも話した方がいい。こいつにだけは絶対に隠し事はするもんじゃない、と、俺は思うぞ??」

「…………」

 途端に、口を噤んでしまったシャロンを尻目に、「グレッチェン、カウンターまで来いよ。ぶすくれているお前の雇い主に代わって、いつものを奢ってやる」と、ハルがグレッチェンをカウンター席まで誘導していたのだった。

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