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灰かぶりの毒薬  作者: 青月クロエ
Everybody's Fool
41/110

Everybody′s Fool (5)

今回、ごく一部に差別的な表現をあえて意図的に使用している箇所があります。

それと、食事中及び食事前の方が気分を害する表現も出てきますのでご了承下さい。

(1) 

 その後、グレッチェンとシャロンは何事もなかったかのように、閉店時間の二十時半まで薬屋の仕事に勤しんだ。

 閉店後の立て看板の片付けや施錠、売上金の精算及び帳簿付け等、一連の閉店作業全てを終える頃には、すでに時刻は二十一時二十分を回っていた。


「グレッチェン、アパートまで送って行こう」

 玄関正面から見て、カウンター右側の壁に設置されたコート掛けから、シャロンはフロックコートを手に取る。

「はい。よろしくお願いします」

 すげなく断るかと思いきや、グレッチェンは軽く頭を下げ、シャロンの申し出を素直に受け入れる。

「夜道を女性一人で帰らせるのは余りに危険すぎる」と、仕事を終えたグレッチェンを毎晩アパートまで送って行くのはシャロンの日課であった。これは、グレッチェンが薬屋で働き始めて三年経た今でも変わっていない。


 店を出た二人は、オブライエン通りをひたすら西へと真っ直ぐに進む。

 ちょうどこの時間帯は、歓楽街が最も活気に満ちる時間帯である。

 通りに連なるパブからは、一日の仕事を終えて酒で憂さを晴らす人々の大きな笑い声が漏れ聞こえ、派手な化粧に胸元が開いたドレスを纏う娼婦と思しき女達が、通りすがりの男達に媚びた声と視線で誘い掛けている。

 また、寂れかけた小さな劇場の前では、客引きの男が道行く人々に今夜の演目を滔々と語っている。この劇場は、奇形で生まれた人間や動物を見世物にするフリークスショーが目玉だとか。

 シャロンとグレッチェンは、それらに一切見向きもせず、喧騒に紛れてただひたすら歩き続ける。

 歓楽街の中でも、まだこの一帯の治安は悪い方ではないが、人混みに紛れてスリや暴漢が潜んでいる可能性もなきにしもあらずだからだ。

「グレッチェン、歩みを速めるよ」

 裏通りと表通りが交差する場所かつ、人気が少なくなった辺りで、シャロンは必ずグレッチェンにそう促す。

 そして、今夜も彼女にその台詞を告げようとした矢先だった。


「ちょいと、そこの旦那ぁ。哀れなこの俺にお恵み与えてくれよぉ」


 二人の背後から声と共に鼻をつく悪臭が漂ってきて、反射的に振り返る。

 建物と建物の狭間の陰から、一人のみすぼらしい成りをした中年男が、よたよたと二人に近づいて来たのだ。


 垢じみて汚れきったぼろぼろの服に、鳥の巣のような髪にはところどころ虱の卵が付着している。更には、瞳孔が針の先のように細く、上唇がめくれ上がっている。その隙間からは、真っ黄色に変色した歯が垣間見える。

 明らかに乞食、しかも、アルコールか阿片の中毒を患っていそうな体の中年男の醜悪さに、シャロンは眉を潜めた。

(……この手の輩は、金さえ渡せば何もせず、大人しく立ち去ってくれるからな……)

 渋々ながらも、シャロンは懐から取り出した革財布から金貨を一枚、男の方へと放り投げる。

「……これをやるから、とっとと失せてくれ」

 金貨を受け取った男は、ニタニタと気味の悪い笑顔を浮かべている。

「旦那ぁ、話が分かるお人で助かったよぉ。まぁ、年若い男娼買うだけの財力持っているんだから、俺みたいな乞食にも、ちょっとくらい分け前くれるべきだよなぁ」


 どうやら男は、シャロンとグレッチェンの関係を著しく誤解しているようであった。

 シャロンの眉間の皺は益々深くなり、男娼と間違えられたグレッチェンも表情を強張らせた。


「詰まらない邪推はやめろ。金はやったんだから、一刻も早くこの場から消え失せてくれ」

 さすがのシャロンも、苛立ち混じりに語気を荒げる。

 しかし、男は依然、ニタニタとにやけたまま、二人の前から一向に立ち去ろうとしない。

 それどころか、異様に縮まった瞳孔でシャロンの涼し気で端正な顔を不躾なまでにじぃっと見つめてくる。

 男の醜悪さに加え、言い知れぬ気味の悪さから、シャロンはグレッチェンの手を引いて男の前から去ろうとしたところ、男は耳を疑う、信じられない言葉を口走ったのだ。


「へへへ……、旦那のやたら小奇麗な顏、どっかで見たことあるなーと思ったら……。あの時、『銀の鎖』に連れて来られてたガキじゃないかぁ……」


 男の言葉に、シャロンは思わず足を止める。

 彼の表情には、一層険しさが増していた。


「……何の事だ??……」

「またまたぁ、とぼけちゃって!」

「……??……。……私には、貴様が言っていることの意味がさっぱり分からない……」

「あれぇ、旦那、覚えてないのぉ??まぁ、気絶した状態で、あの金髪男に運び込まれていたから、覚えちゃいないかぁ……。いやぁ、あの時、俺はてっきり、女のガキかと思ったんだよ、そしたら、男だって聞いてたまげたね!あんなフリフリしたドレス着せられてたし、やたら可愛い顔してたし……」

「……貴様、何を訳の分からないことを……」

 シャロンは今すぐ男を銃で威嚇し、追い払おうと思った。

 けれど、全身の血がすぅーと足先に向かって下がり、身体に思う様に力が入らず上手く身動きが取れない。


 きっと、今の自分は夜目でもはっきり分かる程に青ざめた顔色をしているのだろう。

 現に、春先の暖かい時期にも関わらず、全身に震えが走る程に酷い寒気を感じていた。

 そんなシャロンを面白がってか、あるいは、裕福そうな紳士を揶揄うのが楽しくて仕方ないのか、男は尚も言葉を続ける。


「へへへ……、俺ぁ、てっきりウォルターの旦那にカマ掘られたせいで男色趣味になっちまったのかと思ったけど……、旦那は覚えちゃいないのかぁ。まぁ、いいやぁ……。じゃ、旦那と、あの金髪男のせいで、『銀の鎖』が潰れちまったことも覚えてない……」


 ――ひゅん!!


 突如、鋭く空を切る音が聞こえ、男は、うわっ、と小さく悲鳴を上げる。


 いつの間にかシャロンの手を振りほどいたグレッチェンが、地面に落ちている手頃な大きさの石を幾つか拾い上げて、男に投げつけたからだ。


「……今すぐ、私達の前から消えて下さい……」

「はぁ……、何だと……」

「消えて、と言っているのです!」


 ――ひゅん!ひゅん!!


 グレッチェンは、怒りで目尻を吊り上げながら、男に向けて何度も何度も石つぶてを投げ続ける。

「……ちっ、このガキ!!……って、うわっ!!」

 男はグレッチェンに掴み掛かろうとするも、闇雲に投げつけられる石つぶてに遮られ、彼女に近づくことすら叶わない。

 程なくして、男は二人に近づくのを諦める。

 そして、忌々し気に二人を交互に睨みつけながらも、すごすごと大人しくこの場から立ち去って行ったのだった。


 男の姿が見えなくなった途端、シャロンはグレッチェンのか細い肩を、寄り掛かるようにして掴んだ。

「……シャロンさん……」

「…………大丈夫だ。それよりも、早く、君を部屋まで送って行かねば……」

 いつもならば「触らないで下さい」と跳ねつけるところだが、この時のグレッチェンは何も言わなかった。否、言える筈などなかった。

 シャロンの顔色はおよそ生きている者とは思えぬ程に、顔面蒼白だった。その上、グレッチェンの肩を掴む掌がひどく震えていた――



(2)

 ようやく歓楽街を抜けた二人は、主に中流でも下の方の身分の者達が暮らす住宅地へと入り込む。

 この頃、すでにシャロンの足取りは非常に重く、半ばグレッチェンの肩に凭れ掛かるようにして歩いていた。それでもグレッチェンは何も言わない。

 ただ黙ったまま、小さな身体で一回りは背の高いシャロンの身体を支えながら歩いている。

 傍から見れば、酔っ払いを介抱しがてら歩いているようにしか見えないだろう。

 現に、通りがかりにすれ違う人達が好奇の視線を送り付けてくるのも構わず、終始無言で歩き続ける。

 やがて、安アパートが連なる一画が見えて来て――、ごつごつとした荒削りの石を使って建てられた、古い様式のアパートが視界の端に映り込んできた。そこが、グレッチェンが住んでいるアパートであった。


 アパートの前に辿り着くと、シャロンは今にも死にそうな顔をしつつも普段通り、グレッチェンを彼女の部屋の前、二階まで送って行く。

 途中、階段を上がる際、二度程段差に躓きかけたことから、彼が心身共に相当憔悴しきっていることが充分に伺えた。


 部屋の前まで来ると、グレッチェンはシャロンに部屋へ上がるように告げようとした。

 夜更けに男を部屋に上げるなど、ふしだらな女みたいで気が引けないではないが、こんな弱った状態の彼を、一人で帰らせるのは余りに心許ない気がしてならない。


 ところが、グレッチェンがシャロンに声を掛ける必要性は早々になくなってしまった。


 死人のごとく真っ白な顔色をし、立っているのもやっと、という状態のシャロンの額から脂汗がたらたらと流れ出し、全身が激しく痙攣し始めたのだ。


「シャロンさん!!」


 グレッチェンは慌てて鍵を開け、シャロンの身体を抱くようにして強引に彼を部屋の中へ引き込んだ。


「……グレッ、チェン……。……気分が、酷く、悪いんだ……」


 必死で吐き気を堪えているのか、シャロンは口元に手を宛がっている。


「シャロンさん!こちらへ来てください!!」

 シャロンのフロックコートを脱がすこともせず、グレッチェンは急いで彼を便所へと連れて行く。

 便所の扉を開けると同時に、シャロンはなりふり構わずに便器を抱え込む形で、派手に嘔吐し始めたのだった。



 シャロンの嘔吐は中々治らずにいた。

 かれこれ一五分近く経過しても尚、ずっと吐き続けている。

 すでに胃の中に残っていたものは全て吐き切り、胃液ばかりを吐き出している。その胃液すらも、徐々に量が減ってきている。

 それでも吐き気が止まらないのか、シャロンは呻き声を上げては空っぽの胃の中から僅かな量の胃液を絞り出す。


 いつでも余裕そうに振る舞っているシャロンが、ここまで心身共に苦しむ姿を未だかつて見たことがあっただろうか。

 


 出来ることならば、彼が今感じている全ての痛みや苦しみを、自分が変わることが出来たならば――、共に吐瀉物のすえた臭いが漂う便所に籠り、シャロンの背中を撫でさするグレッチェンの胸の奥も心臓ごとキリキリと締め付けられ、何ともやるせない思いに駆られていたのだった。


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