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灰かぶりの毒薬  作者: 青月クロエ
Everybody's Fool
40/110

Everybody′s Fool (4)

(1) 

 雲一つない、目が眩むばかりに晴れ渡る青空の下、瑞々しく青光る緑が生い茂る小高い丘の頂を、「私」は一人目指していた。


 頂きに近づくにつれ、緑の中に混じって、薄青や紫色のアネモネが咲き誇っている。

 アネモネは白、赤、桃色、橙など他にも多くの色味があると言うのに、この丘に咲くものは薄青と紫の二種類のみで、華美なものを好む「私」の目には少々物足りなく、寂しい景観に映った。


 寒色に支配された地面を踏みしめ、更に上を目指して歩き続ける。


 年々、急激に衰えていく一方の筋力の割に、長時間の歩行に疲れを感じていない自分に驚きを隠せない。特にここ二年程は、ベッドから起き上がることすら億劫に思う程であったから。

 最も、本来私くらいの年齢で健康な成人男性ならば、この程度の運動量などは疲れを見せたりはしないだろうが……。


 胸の奥に去来する暗い影を払拭するべく、更に歩みを速めていく内、私はやっとのことで丘の頂上に辿り着く。


 道中と同じく、薄青と紫色のアネモネに囲われた頂きの中央付近には、白い石で造られた簡素な飾り棚、その上には、背が高く細長い蝋燭を立てた金色の燭台が左右対称に三本ずつ並び、棚の両端は地面と同じ色のアネモネの花飾りがあしらわれている。


 あぁ、これはもしかすると飾り棚ではなく、祭壇の類なのだろうか。


 気付いた途端、私の背筋に薄ら寒いものがすぅっと走り抜ける。


 このような人里離れた場所に祭壇など、魔女が悪魔を召喚する儀式に使われるものなのでは、と恐れ戦いたのだ。


 一刻も早くここから立ち去らねば――、踵を返そうとした私は思わず、ひっ、と声を漏らしそうになる。


 いつの間に姿を現したのか、祭壇の前に一人のうら若き乙女が佇んでいたからである。

 乙女は私の気配に気付くと、長い金髪を揺らして振り返る。


 今度こそ、私はあぁっ!と叫び声を上げた。


 乙女の美しい顔立ちは、若かりし頃の私と瓜二つ――、まるで私の双子の姉か妹のようだった。

 けれど、私に双子の姉妹などいないし、年の離れた妹がいるものの、私とは似ても似つかない容貌である


 乙女は無言のまま、ゆっくりと私に近づいて来る。

 私は益々恐怖心を掻き立てられ、後ずさろうとした――、が、身体はびくとも動こうとしない。


 止まれ!こちらへ来るな!!


 そう叫んだ筈だと言うのに、私の唇からは荒い息だけが虚しく吐き出される。

 その間にも、美しき乙女は一歩、また一歩と私との間の距離を詰めていく。


 とうとう、乙女は私の眼前にまで迫り寄ってきた。


 その時、あと一歩だと言うところで、乙女は突然天高く空へと舞い上がり――、快晴の空の中、優雅な動きで空中遊泳を始めたのだ。


 余りの信じられない出来事に、私は身動きできない成りに目を大きく見張り、水の中の魚のごとく、しなやかに手足をくねらせて泳ぎ回る乙女の姿を呆然と眺めていた。


 限りなく透明に近い青と、光り輝く金色の長い髪の対比。

 何と、目が眩むような美しい光景だろうか。

 次第に、私は恐れよりも感動の方が大きくなっていく。


 この情景を永遠に眺め続けていられたら――


 恍惚とした思いに駆られ、目を閉じる。

 暗闇の中で何度も何度も反芻してみせ、充分に満足したところで目を開ける――




「…………」


 視界に映し出されたのは、茶色い木目調の天井で、しかも、所々に汚らしい染みが点々とついている。


「…………」


 視線をそこかしこに移動させる。

 私はベッドの上に寝転がっていて、枕元には手元から転がり落ちた異国の煙管。

 もう何日もまともに食事を摂っていないせいで、空腹を通り越して最早胃には激痛しか感じない。

 だらしなく開きっ放しの口元からは涎が垂れ流されている。



 そうか、あれは全て、阿片が見せた幻覚だったのか。



 朦朧とする頭と、力が上手く入らない身体に鞭を打ち、涎をシャツの袖口で拭いながら、よろよろとベッドから起き上がる。

 まだ、状況を正しく理解してはいないのだが、とりあえず激しい尿意をもよおしたため、用を足しに行きたかったのだ。

 ベッドのサイドボードを支えに、死に損ないの年寄りじみた心許ない動きで、どうにか立ち上がる。

 うむ、誰かの支えや杖がなくとも、便所までなら辛うじて歩いて行ける。

 幸運なことに、便所は私の部屋から目と鼻の先程の近い場所にある。

 私は重たい身体を引きずるように、部屋から出て行った。



 便所の場所は、私の部屋から見て廊下を挟んだ左側、二部屋程先にある。

 そこまで進むのすらも億劫であったが、どうにかして便所の扉を開ける。


 便所で用を足していると、ドンドンと扉を叩く音が聞こえてきた。

 妻にしてはいささか乱暴な叩き方だし、音が聞こえた位置が随分と低い。


 ……あぁ、きっと息子に違いないだろう。


 息子は私を嫌っている節があり、視線すら合わせようとしてくれない

 自業自得とはいえ、昔は可愛がっていただけに実に哀しいものだ、などと考えながら、扉を開けた先――、廊下にて、フリルがふんだんにあしらわれたドレス姿で、憮然とした様子の幼い息子が立ち尽くしていた。


 ご丁寧に長髪の鬘まで被せられた息子は、私を見るなり鼻先に皺を寄せ、一目散でその場から逃げ出した。

 息子の不躾な態度にさすがの私も腹を立て、すぐ後を追い掛ける。

 着慣れない服装と重たい鬘のせいで息子の足取りは遅く、阿片の幻覚作用から正気に戻ったばかりの私ですら、易々と追いつくことが出来た。


 息子の細く小さな腕を強く掴み上げると、彼は痛みで顔を歪めた後、およそ七歳の少年とは思えぬ――、まるで汚物にでも触れたかのような――、蔑みを存分に込めて、涼しげなダークブラウンの瞳で私を冷たく睨みつける。


「……そんな目でっ、わ、私を……、私を見るなぁ!!」


 頭にカッと血が上った私は、息子の鳩尾を拳で思い切り殴りつけた。

 息子は、苦しげな呻き声を上げて床の上に崩れ落ちる。


 私が再び正気を取り戻した時には、すでに息子は可愛らしい顔に苦悶の表情を浮かべたまま気絶していたのだった――


「……シャ、シャロン……。……あぁ、あぁ……。ああぁぁ……!!私は何てことをしてしまったのだ!!」

 今し方、自らが犯した間違いに、私は激しい後悔と狼狽と共に、床に転がっている息子を抱き起こしては目を覚まさせようと頬を叩く。


 あぁ、愛しい息子に理不尽な仕打ちをされたとあれば、必ずやレイチェルに厳しく咎められてしまうだろう。

 あぁ、嫌だ嫌だ、嫌だ。

 もうこれ以上、誰かに責められるのはまっぴらご免なのに。

 やはり、あの夢から目覚めなければ良かった。

 あのまま永久に、美しい青空と美しい少女の金の髪が織り成す、美しい夢の世界に浸っていたかった――


 しかし、手持ちの阿片は底をついたし、私が『銀の鎖』に足を運ばないよう、レイチェルが私に一銭足りとも金を渡そうとしてくれない。


 あぁ、何て現実はままならぬものか。


 未だ目を覚まさない息子の顔を、焦点の合っていない瞳で茫洋と見つめ、途方に暮れる。


 それにしても、顔立ちのみならず、色の白さも線の細さも、涼しげな瞳を縁取る長く濃い睫毛も、形の良い、酷薄そうな薄い唇も、何から何までレイチェルとよく似ている……。


 その時、私の脳裏にあの男――、上流階級出身の、くすんだ赤毛の中年男が口にしていた言葉を、唐突に思い出した。


 あの男は聞くだに悍ましい、歪んだ性癖の持ち主だ。

 でも、もしも、その欲望を満たしてやることが出来たなら――



 この腕に抱き上げた、少女と見紛う容貌の息子を彼に売れば――


 また、あの美しい夢の続きが―― 



「……シャロン、君は良い子だよ……。だから……、偶には私の……、お父様の言う事を聞いてくれたまえよ……」


 すでに私は、どうやって使用人達に見つからないよう息子を家から連れ出し、『銀の鎖』まで赴こうかと、思案に耽り始めていた――






(2)

「……グレッチェン。君は……、今言った言葉の意味をちゃんと分かっているのかね??」

「はい」

 依然、挑むように怜悧な視線を向けてくるグレッチェンに、シャロンは再び眩暈を覚えた。

「君の……、私を案じてくれるその気持ちだけは、ありがたく受け取っておこう……。だから……、軽率で早まった行動を取ろうとするのは、どうか、辞めて欲しい」

 眩暈を堪えながらも、シャロンはグレッチェンの説得を始めた。

 グレッチェンが反論を述べようと口を開きかけたのを遮り、シャロンは更に言葉を続ける。

「確かに、私は父を廃人に追いやった阿片や、確定ではないが、彼に阿片を売っていたであろう、ウォルター・ケインを心底憎んでいる。しかしだな、今更奴をどうこうしたところで、父が元に戻る訳ではない。だから、復讐などこれっぽっちも望んで等いないのだよ」

 シャロンの口調はどこまでも穏やかだったが、『いっそ、放っておいて欲しい』という旨が言外からひしひしと伝わってきた。

「何より、君が危険な目に遭い兼ねないことをわざわざさせたくない」

 彼女の血液を毒として売ることだって、充分危険ではないか――、と、頭の中でもう一人の自分が責め立ててくるのを、シャロンはあえて無視を決め込む。


「……分かりました。シャロンさんが、そう仰るのでしたら……」

 存外、意固地な質のグレッチェンなので反抗してくるかと思いきや、予想外にあっさりと引き下がってくれたことに、シャロンは胸を撫で下ろす。

「聞き分けが良くて非常に助かるよ」

 シャロンは、グレッチェンの肩をポン、と軽く叩く。

「シャロンさん、気安く触らないでください」

「君ねぇ……」

 たちまち厳しい言葉を突きつけられたシャロンは、思わず閉口してしまったのだった。

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