Everybody′s Fool プロローグ
安アパートの一室にて、寝間着の上に安物の古いカーディガンを羽織った若い女が、真夜中にも関わらず机に向かっていた。
時折、肩から落ちてくる黒髪を耳に掛けては、分厚い医学書を捲ってノートにペン先を走らせる。何やら論文のようなものを書いているようだ。
ふと、女はノートの上を走らせていたペンの動きを止める。
(……レイチェル、今日はいつもより帰りが遅いわね……)
どうやら女は、共に暮らしている姉が未だ帰って来ないことを気にしている。
夜の歓楽街で働いている以上、多かれ少なかれ危険に晒されるのは承知しているものの、「ただいま、あぁ、お腹が空いたわ」と呑気に言いながら、部屋の扉を開けて帰ってきて欲しいと願うのは、家族として当然の気持ちである。
不安に駆られた女は、ふと机の前に設置された窓のカーテンを、そっと開けて外を覗いてみる。
夜中に女一人部屋で過ごしている時に、無暗にカーテンを開けるべきではないのだが、姉の身を案じる余りの行動だ。
二階に位置するこの部屋からは、夜の暗闇の支配から抗う様に、古いガス灯が見える。ガス灯は朧げな光で、石畳の道を遠慮がちに照らし出している。
そのガス灯の横を、一台の辻馬車がゆっくりと通り掛かる。
こんな遅い時間に珍しい、と、思っていると、馬車はガス灯の傍に止まった。
扉が開き、馬車から降りて来た人物達を目撃した女は、思わず目を凝らして二度見してしまった。
一人は、遠目で見ても見目も身なりも整った若い男で、もう一人は彼女と同じ髪色と雰囲気の若い女――、女の姉であった。
女が驚いている間にも、二人はアパートの方へと歩き始め、すぐに階段からはコツコツと複数の足音が響いてくる。程なくして、部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。
女が扉を開けると、女と全く同じ顔を持つ――、つまり彼女とは双子という意味だが――、姉が先程の男と共に佇んでいた。
「夜分遅くに大変申し訳ありません。貴女のお姉様を無事送り届けるために、こうしてお部屋の前まで訪れた次第です」
開口一番、男は、真夜中に女性の部屋を訪れた非礼を女に詫びた。
ダークブロンドの短髪に淡いブルーの瞳で、線の細い美青年然とした容姿、気品溢れる物腰から言って、少なくともアッパーミドル以上の身分だろう。
「あら、ルパートったら。そんなこと気にしなくてもいいのに」
「でも……」
「シェリルはそんなこと気にする子じゃないわ。それよりも、馬車を用意してくれただけでなく、わざわざ部屋の前まで送って頂いて……、本当にありがとう」
姉はまだ二十歳に満たない若さとは思えぬ、妖艶な微笑みを浮かべて男に礼を述べる。
引っ込み事案な質のシェリルには到底真似できない笑い方だ。
男と姉の、やけに親し気な様子からして、恋人かそれに近しい間柄かもしれない。
(レイチェルってば……、いつの間に……)
いきなり目の前に現れた、姉レイチェルの恋人もどきの美しい男に戸惑うシェリルの様子に気付くと、「あぁ、紹介が遅れたわ。シェリル、こちらはルパート・マクレガーさん」と、ようやく彼を紹介したのだった。
ルパートは姉妹の部屋に上がることなく、レイチェルとシェリルが中に入るのを確認すると、すぐに帰って行った。
中に入った途端、レイチェルはいつも通り「お腹が空いたわぁー」とぼやきながら小さなテーブルにつき、シェリルが残しておいたスープの皿を抱え込んで空腹を満たしていた。
「ねぇ、レイチェル。ルパートさんとはどこで知り合ったの??」
レイチェル曰く、ルパートとは働いている酒場の客として知り合い、たまたま、とある有名な文豪の作品の話題で盛り上がったことをきっかけに親しくなったという。
レイチェルはただ若く美しいだけの女給でなく、教養を兼ね備えた聡明な女性だと、ルパートは彼女に夢中らしい。
「そりゃあ、途中で退学したとはいえ、女学校に通っていたのだものね。その文豪を知らない筈はないわ」
悪戯めいた笑顔で話すレイチェルを、シェリルは複雑そうな顔で眺める。
この双子の姉妹、元々はこの街で高名な医者の娘で裕福な家庭で生まれ育ったのだが、ちょうど二年前、彼女達が十七歳の時に両親が流行病で亡くなり、他に身寄りのない姉妹は邸宅と家財道具で売り払って得た金と両親が残した遺産だけを手に、女性用アパートでの清貧暮らしを始めたのだ。
その大金も、成績優秀だったシェリルの女学校及び大学の学費に当てているので、二人の生活費は女学校を中退したレイチェルが昼は食堂、夜は酒場の女給として働くことで凌いでいる。
「ルパート・マクレガー……、って、名前だけど、もしかして……」
「そう、そのもしかしてよ」
あっけらかんと答えるレイチェルに、シェリルは言葉を失う。
シェリルが絶句したのは、ルパートがこの街のみならず、国中でも名の知れた大手製薬会社の御曹司だったからだ。
「レイチェル、悪いことは言わない。ルパートさんとの付き合いは程々にした方が良いと思う。騙されているだけかもしれないもの」
「シェリルならそう言うと思ったわ。大丈夫、私は別に彼の妻の座なんか狙っていないわ。お父様が健在な時ならともかく、今の私じゃ身分が釣り合わないもの。でも……、せめて愛人くらいに収まることが出来ればこの清貧暮らしから抜け出せるし、女の身で医者を目指す貴女にとって有力な後ろ盾とも成り得るわ。だから、何としてでも彼を籠絡したいのよ」
「レイチェル……」
「勿論、彼の事は愛しているし、お金だけが目当てではないから」
いつになくレイチェルは、必死な様子でシェリルに熱弁を振るっている。
自分に代わり、身を粉にして働くレイチェルにはシェリルは反論することなどできず、ただ黙って彼女の話に耳を傾けるしかなかった。
それで彼女が本当に幸せだと思えるのならば――、と。
けれど、シェリルの中ではどうしても不安を拭い切れない。
シェリルが不安を抱く理由は、ルパートとレイチェルの身分差だけではない――、以前、彼女が、外国の医学書を格安で手に入れたくて、少々危険を承知で歓楽街の裏通りに程近い古本屋へ出向いた時のこと。
老朽化に伴い、本来赤い筈の煉瓦が赤黒く変色し、やけに鄙びた建物が立ち並ぶその一画には、阿片窟と噂される家が存在していた。
似たような古い建物が集まっているので、正確な家の場所までは分からない。ただ、一か所だけ、何となくだが、昏く不穏な雰囲気が漂っているのでおそらくあの辺りだろう、という大体の目星はついている。
その日、シェリルが阿片窟だと睨んでいる建物へと、ルパートとよく似た風貌の男が二、三人の取り巻きを連れて入っていく姿を目撃したのを思い出したからだ。
もしかしたら、他人の空似で全くの人違いかもしれない――ので、この時シェリルはあえてレイチェルには報せようとはしなかった――
数か月後――、子を身籠ったことをきっかけに、レイチェルは遂に念願叶ってルパートとの結婚が決まった。
しかし、身分違いの女を孕ませた上、一族の反対を押し切った上での結婚、その代償として、ルパートは一族から勘当されてしまう。
幸い、ルパートは銀行に自分名義の口座を作っており、有り余る程の多額の預金を持ち合わせていたので、二人が生活に困窮することはなかったが。
二人はすぐに家を買って使用人も雇い、シェリルも含めた三人で暮らし始め、余った金を元手に歓楽街にて、少々変わった薬屋を開いたのだった。
全く緊迫感及び危機感の欠片もない駆け落ち騒動の顛末に、シェリルは安堵すると同時に拍子抜けたものである。
やがて、ルパートとレイチェルの間には男の子が生まれた。
赤ん坊はシャロンと名付けられ――、愛する妻とよく似た面差しの息子を、ルパートは大層可愛がったのであった。




