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灰かぶりの毒薬  作者: 青月クロエ
煩悩コントロール
32/110

煩悩コントロール(16)

(1) 

 シャロンの右肩の傷は本人の言葉通り、失血の割に傷の範囲は狭く骨や血管にも異常や損傷も見られなかったが、脂肪が見える深さには達していたため、傷口の縫合手術を受けることになった。

 エメリッヒ邸に呼び寄せられた医者による、麻酔なしでの縫合の一部始終を、痛みで呻き続けるシャロンの手をずっと固く握りしめながら、グレッチェン自身も胸を裂かれる思いで見守り続けていた。

 しかし、さすがは上流階級専属の、腕利きの医者である。

 術後、細菌感染することもなく、傷は順調に回復しつつあったのだったーー。





 ーー事件からしばらく後のことーー




 薬屋の閉店後、立て看板の片付けや売り上げの帳簿付けを終えたグレッチェンは、水を張った洗面器とターキッシュタオルを手に二階ーー、シャロンの私室へと足を運ぶ。

 扉を叩き、一声掛けてから中へ入る。

 例によって例のごとく、床には幾つも本の山脈地帯が広がり、シャロンは辞書を片手に外国の医学書を翻訳している最中だった。

「シャロンさん。研究を頑張って下さるのは結構ですが、程々のところでキリをつけて下さい。」

 医者から静養するように言い渡されたことをこれ幸いに、シャロンは部屋で日がな一日中研究に没頭している。怪我に障らないよう、今の所無理はしていないみたいだが、油断は禁物だ。

「ほら、あちらの長椅子に腰掛けて、シャツを脱いでください」

「……グレッチェン……」

 本に栞を挟みながら、シャロンは溜め息をつく。

「何回も言っているが、薬を塗ってくれるのは大変有り難いけれど……。身体を拭くのは自分でやるよ……」

「駄目です。肩の傷はご自分の目では見え辛い位置ですし、まだ傷口が完全に塞がっていないところへ、万が一濡れたタオルを当ててしまったりしてはいけませんから」

 抵抗するだけ無駄だと言う事は百も承知していたが、やはり今回も失敗に終わった。仕方なくシャロンは長椅子に移動し、のろのろとボタンを外し、シャツを脱いでいく。

 グレッチェンは、シャロンの右肩に巻かれた包帯と傷に当てられた油紙を取り外す。一瞬女性のものと見紛う滑らかな肌に、赤紫色に引き攣れ、巨大なミミズが張り付いたかのような傷痕が見るも痛々しい。

 傷に触れないよう、グレッチェンは濡らしたタオルでシャロンの首筋、背中、左肩、両腕を丁寧に拭いていく。冬ならいざ知らず、夏場は汗を掻くので清潔さを保つため、引いては、汗による刺激で肌が被れないようにするためであった。


 夜更けに、密室で、憎からず想っている女に、上半身だけとはいえ、素肌に触れられている。これは蛇の生殺し以外、何ものでもない。


 シャロンは、グレッチェンに傷の手当てを全面的に任せてきた母を心底恨めしく思った。

 シャロンの悶々とした思いなど露ほどにも気付いていないグレッチェンは、手際良く化膿止めの薬を塗り、新しい油紙を当てて清潔な包帯を巻き直している。

「グレッチェン、ありがとう」

 シャツに袖を通しながら礼を述べると、「いえ……」と言いつつ、グレッチェンは複雑そうな表情を浮かべる。これもほぼ毎回のことだ。

「グレッチェン、何度も言わせないでおくれ。この傷は君の身を守ったことに対する名誉の負傷だと思っているから、気に病むのはいい加減やめなさい」

「……はい……」

 シャロンは、口ではあえて窘めつつ、彼女がつい表情を曇らせてしまう理由を充分に理解していた。

 なぜなら、グレッチェンはシャロンの怪我に心を痛めているだけでなく、彼の肩の傷跡を目にする度に、クラリッサの処遇について思い出しては苦い思いに駆られていたからだった。



(2)  

 

 事件後、休憩室でシャロンが口にしていた予想は見事に的中。



 娘が犯した罪が元で会社の信用を失墜させたくないエメリッヒ氏は、秘密裏に行った示談により二人のメイドの死を隠蔽、クラリッサは精神病院の隔離病棟へと強制入院させ、シャロンとグレッチェンには医療費を含めた慰謝料及び、真実を決して他言しないようにと多額の口止め料が支払われた。

 当初グレッチェンは頑として拒否の意を示していたが、「下手にごねて上流の人間を怒らせると厄介だし、この件が元で君の素性が知られてしまう可能性も無きにしも非ずだ。それだけは何としても避けなければいけない」とシャロンに諭され、最終的には不本意ながらも金を受け取ったのだった。

 

 胸の内では、決して納得などできていない。

 否、出来る筈があるものか。


 結局、グレッチェンがクラリッサに伝えたかった思いが何一つとして伝わらなかっただけでなく、罪を償う機会すら彼女には与えられなかったーー。



「グレッチェン。君は何も悪くないから」

「……えっ……」

 シャロンが唐突に口に出した言葉に、グレッチェンは思わずきょとんと彼の瞳を見返す。

「最初に毒を求めてきた時にはっきりと断るべきだった、冷たく突き放すだけじゃなく、もっと心から反省するように説得すれば良かった……、考え出したらキリがない」

「…………」

「過ぎてしまったことはいくら悔やんでも仕方ないんだ。それよりも、今後の自分はどうあるべきかをしっかり考えた方がいいと、私は思うがね」

(……できれば、もう毒を売る裏稼業からは手を引いて欲しいのだが……)

 

 この言葉を口に出したら最後、彼女は言う事に従うと同時に、自分の目の前から姿を消し去ってしまうだろう。それだけはどうしても、何が何でも阻止したいシャロンは、喉まで出掛った言葉を静かに飲み込んだ。

 

 二人の間に沈黙が流れる。


「シャロンさん」

 グレッチェンがゆっくりと口を開く。 

「それでも……、毒薬を渡す基準の甘さがこのような結果を招いた気がしてならないんです。シャロンさんの反対を押し切ってまでして行っている裏稼業なのだから、もっと気を引き締めて事に当たるべきでした。ですから……、これからは一時の感情に流されない心の強さと、冷静で的確な判断力を付けねば……、と思いました」 



 やはり、グレッチェンは辞めるつもりが一切ないようだ。


 

 軽い眩暈を覚えながらも、唇をどうにか押し開くように辛うじて「……そうか……」とだけ、シャロンは短く答えたのだった。






 ーー君の全てをコントロールできるなら、私はどれだけ楽になれるだろうかーー


 

「煩悩コントロール」(完)

そして、シャロンの肩の傷が完治した頃に、「灰かぶりの毒薬」本編に続き、更に「灰かぶりの不純物」へと続いていくのでした。


最後の一行は、一体どちらの独白でしょう??

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