煩悩コントロール(15)
(1)
グレッチェンは、縋るようなクラリッサの視線を避けることなく受け止め続けていたが、やがて音も立てずに静かに立ち上がった。シャロンの止血を行うのにアンダースカートを破いたため正面から見ると、小枝のごとくほっそりとした、背丈の割に長い脚が露わになっている。
見てはいけないものを見てしまった気分に陥ったシャロンは、さりげなくグレッチェンから目を逸らした。本来、成人女性が人前で脚を晒すのは最も恥ずべき姿であるからだ。
当のグレッチェンは自身のあられもない姿を一切気に留めず、ゆっくりとクラリッサの元へと近づいていくーー、かと思われたが、そのまま横を通り過ぎ、落ちていたナイフを拾い上げる。が、すぐに振り返り、クラリッサの傍まで戻っていくと、彼女の目の前に立ち止まったーー。
バチン!!
シャロンは、たった今目の前で起こった光景に唖然となり、口をあんぐりと大きく開けた。対して、クラリッサは目を見開いて呆然としている。
グレッチェンがクラリッサの頬を平手打ちしたからだ。
「甘ったれるのもいい加減にしてください」
冷たい鉄面皮を張り付かせ、抑揚のない無感情な口調ではあるが、明らかにグレッチェンは怒りに駆られている。
「罪を背負う覚悟もなければ、いざとなれば自死を選んで罪から逃げようとする。自分が起こした行動に責任を取らないような、どこまでも自分本位で愚かな人に渡す毒などありません」
すげなくそう告げると、グレッチェンはクラリッサに背を向け、シャロンの元へ戻ろうとした。すかさずクラリッサは、グレッチェンのオーバースカートの裾を掴んで引き留めようとする。
「放してください。毒を売らないのですから、これ以上私に用はありませんよね」
クラリッサの手から裾を引き離そうと、グレッチェンはオーバースカートを強く引っ張り上げる。思いの外クラリッサは簡単に手を離したので、裾はするりと彼女の掌からすり抜けた。
「……美しい貴女には、私の気持ちなんて天地がひっくり返ったとしても、わからないでしょうね……」
「えぇ、そうですね。私が美しいかどうかは知りませんが、貴女の気持ちに理解などできませんし、しようとも思いません。不幸に酔いしれるのは自由ですが、それを盾にして関係のない他者を傷つけても良い理由になんかなりません。それと……」
グレッチェンは淡いグレーの瞳に非情な光を湛えながら、言い放つ。
「貴女が愛されないのは容姿のせいではありません。ひたすら己を哀れんでいるだけ、他者から同情されたがっているだけの人など、誰からも愛される筈など有る訳ないじゃないですか」
辛辣極まるグレッチェンの言葉に、クラリッサは堰を切ったように大声を上げて号泣し始めた。しかし、グレッチェンはクラリッサに一切見向きもせずにシャロンの傍に再び寄り添った。シャロンはさっきまでの不安定な態勢から床に腰を下ろし、膝を抱え込むようにして座っていた。
「随分と厳しい言葉を突きつけたな……」
「本当のことを言ったまでです。シャロンさんだって、九年前の私がただ己の不幸を嘆いているだけの身だったら、関わろうとしなかったのでは??」
シャロンはぎくりとした。
確かに、グレッチェン、いやアッシュを気に掛け出したきっかけは、彼女が辛い環境下に置かれていても、自分を少しでも成長させようとする強い姿勢を見せていたからだ。
当然、これはシャロンの胸の内にずっと仕舞っていた思いで、グレッチェンに話したことなど一度もなかった。
それなのに、ピタリと言い当てられてしまった。
(……いやはや、彼女には本当に敵わないなぁ……)
シャロンが指先で頬をポリポリと掻いたと同時に、「いたぞ!クラリッサお嬢様はあそこだ!!」と、ようやく大勢の人々が三人の元へと駆けつけたのだった。
(2)
その後、クラリッサは抵抗一つせずに大人しく拘束された。
シャロンとグレッチェンは共に休憩室へと運び込まれ、長椅子に座りながら医者が来るのを待っていたーー。
「……もしかしたら、エメリッヒ家は醜聞を広めたくないがため、財力を使ってこの件を揉み消すつもりかもしれない。警察を呼んだかどうかすらも怪しい……」
痛みと疲労が限界に達しそうなのか、それを誤魔化すために先程からシャロンは意味もなく喋り続けている。グレッチェンは話に対して適当に相槌を打ち続けていたが、よく動く唇に反して、一段と顔色が青くなっていくシャロンを見兼ねてこう切り出した。
「シャロンさん、お医者様が来るまでの間だけでも横になっては??」
「いや、いい。服に付着した血で長椅子を汚す訳にはいかないからね……」
「ですが……、怪我の痛みだけじゃなく、失血で貧血を起こし掛けているのではないのですか??」
本人は気付いていない、もしくは耐えているつもりなのだろうが、さっきからシャロンの頭がゆらゆらと縦に横にと忙しなく揺れているのだ。その内、パタリと倒れたりしないか、隣に座るグレッチェンは気が気でない。
「いや、大丈夫だよ。それよりも、君の捻った足こそ大丈夫なのかね??」
「私の足こそ、怪我と言う程大したものでは……」
次の瞬間、シャロンの身体がぐらりと傾き、咄嗟にグレッチェンはシャロンの頭を胸に抱きかかえていた。
「だから言ったじゃないですか……」
幼子を寝かしつけるような仕草で、シャロンの気分の悪さを僅かでも紛らわそうと彼の黒髪を撫でつけ、落とさないようぎゅっと強く抱え込んだ。
(……真剣に身を案じてくれているのは、ありがたいのだが……)
グレッチェンの胸に顔を埋めている状態のシャロンは、これはどうしたものかとしきりに当惑していた。
この程度の事で欲情する程自分は若くないし、冷静さを保つことなどいとも容易いことである。そもそも、この状況下では誰が相手であってもその気を起こすなど到底有り得ない。
それでも男である以上、要らぬ考えをどうしても巡らせてしまうのだ。
予想通り、手の平の方が若干余りそうな控えめさだ、とか……。
「……グレッチェン、この態勢は色々と問題だと思うから、やはり放して欲しいのだが……」
シャロンの言葉を聞き、グレッチェンはようやく彼を解放した。
「どうせなら、こっちの方がまだいい」
「えっ??」
言うやいなや、シャロンはグレッチェンの膝の上に頭を乗せ、左肩を下に横向きで長椅子に横たわった。
「シャロンさん!何を考えているんですか!?」
今度はグレッチェンが狼狽える番だった。
「さっき横になれ、と言ったのは君じゃないか」
「横になってくださいと言いましたが、膝を枕にしていいとは言っていません」
「目の前に極上の枕があったら、使いたくなるのは当然だろう??」
グレッチェンは顔から耳、胸元まで真っ赤に染めて怒っていたが、怪我人を振り落とす訳にもいかず、最終的には「……勝手にしてください……」と、渋々ながらも了承したのだった。




