第三話
奥の部屋に入ると、ツンと鼻をつくような異臭が微かに漂っていた。
部屋の中央にはテーブルが二台合わせて置かれ、その上には試験管装置、丸や四角、三角と様々な形をしたフラスコ、木箱の中に入った無数のルーペや薬品の小瓶、小箱に保管された古い注射器などが無造作に置かれている。
更には、白い壁を隠すかのように部屋の四方にそれぞれ棚が設置され、カウンターの後ろ同様、数多くの薬品が並び、段によっては医学や薬学の本が並んでいた。
普段目にすることのない物で埋め尽くされた空間に、シルビアがいささか戸惑っていると、「ごちゃごちゃとして狭い部屋ですが……。あそこの丸テーブルの席に座って下さい」と、グレッチェンが隅の流し台付近――、簡素な丸テーブルと二脚のローバックチェアのある場所まで行くよう促した。
グレッチェンは音を立てないよう静かに椅子を引き、背筋をピッと伸ばした状態で座った。
対してシルビアは、ドカッと座面に尻を降ろすと、ふぅーと息を吐きながらゆったりと背もたれに寄り掛かる。
「早速ですが、シルビアさん。貴女はどういった理由で毒を求めているのですか??」
グレッチェンの事務的な質問に、シルビアは答える。
「……うちの売春宿の店主、ドハーティを殺したい。あいつを殺して、自由になりたいんだ」
以下がシルビアの話である。
元々、シルビアは郵便配達人の夫と幼い一人息子と共に、平凡な主婦として暮らしていた。
しかし、夫が馬車に牽かれて大怪我を負い、しばらく働けなくなったことから、縫製工場で針子として働くようになったが、自分一人で生きて行くだけならともかく、家族三人分の生活費に加え、夫の怪我の治療費となると、縫製工場の給金ではとても補えなかった。
悩んだ末に、シルビアは家族が寝静まったのを見計らい、夜な夜な歓楽街で身を売るようになり、そこでドハーティと出会ったのだ――
「最初の内、あいつは他の客よりうんと優しかったし、気前も随分良かった。心身が弱っているせいでアタシに辛く当たる亭主や、中々言う事を聞いてくれない息子の世話に疲れていたアタシは、自然とあいつに惚れちまったんだよ。……今思えば、馬鹿な事をしたと思ってる」
その後、「金が必要なら、うちの売春宿で働くといい。客の付き次第じゃ、針子と街娼の掛け持ちをするよりもずっと稼げるぜ??」というドハーティの言葉を真に受けたシルビアは家を飛び出し、彼が経営する売春宿で働き始めたのだった。
ところが、その売春宿は格が低いせいか、一晩中休む間もなく次から次へと客を取らされ、酷い時には二人同時に相手をさせられることもあった。
客を断ろうものなら、即座にドハーティに殴られ、稼ぎが下がればまた殴られーー、そうして得た賃金の半分以上は店の取り分だと言って、奪われる。
「このままじゃ、アタシは売春地獄やドハーティの暴力から一生抜け出せない……。だから、あいつを殺して、家族、いや息子の許へ帰りたいんだよ……」
シルビアは縋るような、弱々しい目をしてグレッチェンに必死で懇願した。
そんなシルビアにグレッチェンは冷たい眼差しを向けて、はっきりと告げる。
「……話は大体分かりました。ですが、貴女に毒を売ることは出来ません」
「何でだよ?!」
グレッチェンは、ほんの僅かながら眉間に皺を寄せ、答えた。
「貴女の境遇には同情するべきところは多々あります。けれど、貴女が家族を捨ててまで、ドハーティ氏の許へ走ったことも紛れもない事実です。つまり、貴女が今辛い状況に置かれているのは、貴女自身が招いたことでもある訳です。確かに、ドハーティ氏の所業に関しては、人として決して許されるものではありません。でも、貴女も貴女で一度捨てておいて、今更息子さんと暮らしたいなんて、身勝手極まりない。そんな人には私の毒を売ることなど……、到底無理ですね」
寡黙なグレッチェンにしては珍しく長く喋ったせいか、言葉を言い切ったと同時に、呼吸を整えるべく、肩で息をついた。
シルビアは、反論の余地もない程の正論中の正論を叩きつけられ、ただただ呆気に取られるしかなく、しばらくの間、言葉を失っていた。
気まずい沈黙が二人の間を流れる。
「……あんた、年は幾つだい??結婚は??」
グレッチェンから視線を外しながら、シルビアが尋ねた。
「……今年で二十一になります。結婚はしていません」
「じゃ、当然、子供もまだ産んだことないだろ」
「そうですね」
「アタシは……、家族を捨てたけど、息子のことだけは一日足りとも忘れたことはなかった……。身勝手だ何だと言われる事も百も承知さ」
「…………」
「こっぴどい環境の中でどうにか生きていられるのも、息子の存在あってなんだ……」
――バン!!
シルビアがビクッと身体を震わせる。
グレッチェンが両の拳で、テーブルを思い切り叩いたからだ。
「……三文芝居のような御託は結構ですから、もうお引き取り下さい。いい加減、私も本来の仕事に戻りたいですし」
シルビアはグレッチェンの静かな怒りに臆したのか、脅えた様子ですぐに席を立ち、逃げるようにそそくさと奥の部屋を後にする。
「あれ、もうお帰りですか??」
足早に歩くシルビアの後ろ姿に、呑気な口調でシャロンが尋ねると、「あんたんとこの小娘はとんだ冷血女だよ!他で頼むことにするから!!」と、シルビアは捨て台詞を吐いて扉を乱暴に開けて出て行った。
「……他じゃ無理だと思うんだけどなぁ……」
シャロンが困ったように、呆れたように呟くと、いつの間にか彼の隣にはグレッチェンが立っていた。
「一体、君は彼女に何を言ったのかね??」
「…………」
グレッチェンの唇の両端がキュッと引き結ばれている。これは、彼女が怒りに駆られている証拠だ。
「シャロンさん。どうして母親とは、子供に関して異常に執着するものなんでしょうか……」
「……それは、自らの命を賭して、死に物狂いで子を生み落すからじゃないか??」
「……私には、理解できません。ただ産むだけでなく、子供がしっかり自らの足で生きていけるようになるまで育て上げることが出来てこそ、初めて母親の資格が得られると思うのですが」
「落ち着け、グレッチェン。未熟な母親と接すると、つい感情的になってしまうのは君の悪い癖だ」
シャロンに窘められると、グレッチェンはハッと我に返り、「……すみません」と深々と頭を下げて謝罪したのだった。