煩悩コントロール(13)
(1)
--時、同じ頃ーー
シャロンは、「酒を飲みすぎたせいで気分が悪くなってきたみたい」と言うキャロラインを大広間から連れ出し、休憩室まで付き添っていた。
グレッチェンの元に帰りたいばかりのシャロンは当初、使用人にキャロラインの身を預けようと思っていたのだが、やはりというか何というか、キャロラインは彼から意地でも離れようとしなかった。
今にも転んでしまいそうな、ふらつく足取りのキャロラインを支えながら、『休憩室』と書かれた札がドアノブに掛けられている部屋の前に辿り着く。そこで不可解な点に気付いた。
何故、扉が開きっ放しになっているのだろうか??
部屋の中を覗き込んでみるも、誰もいない。
先にこの部屋を使っていた者が、不用心にも扉を閉め忘れてしまったのか??
「……マクレガーさん……」
キャロラインがシャロンの身体に自身の身を一段と密着させてくる。
薄々感じ取ってはいたが、酔いに任せて休憩室で縺れこもうという魂胆か。
いくら人気が見当たらないとはいえ場所が場所であるし、何よりグレッチェンをずっと待たせているのだ。
さて、どのようにしてこの誘いを躱そうかと逡巡しているシャロンに構わず、キャロラインは彼の胸元を誘うような手つきで撫で回している。
「やっと……、二人きりになれたわね……って、あら??」
シャロンの胸に摺り寄せた頬に固い物が当たり、キャロラインは不快そうに表情を歪める。すぐにそれの正体を探るため、上着の内ポケットをまさぐり出す。そして、それが何なのか理解した途端、キャロラインは短く悲鳴を上げ、内ポケットから反射的に手を引っ込めてしまった。
「あぁ、レディに物騒なものを触れさせてしまいましたね。とんだ失礼を」
そう言う割に、シャロンに悪びれる様子が一切見受けられない。
「なぜ、貴方はこんなものを……」
信じられない、と言わんばかりに首をゆっくりと横に振るキャロラインは、先程とは打って変わりすっかり怯えきっている。
「決して治安が良いとは言えない歓楽街に、店だけでなく居も構えている身としては、万が一に備えて自己防衛できるようにと、なるべく携帯していましてね。つい、いつもの癖で上着のポケットに仕舞い込んでしまったのです。あぁ、勿論、警察にて適正検査を受け、これを所持できるよう許可を得ていますのでご安心を……」
そこでシャロンは、突如として言葉を止める。
開いた扉の影に隠れていたこと、キャロラインにしなだれかかられたことに意識が集中していて、今の今まで見落としていた。
シャロンはキャロラインを身体から引き離すと、床に屈みこんで銀色のクロムウェルシューズを拾い上げた。子供の靴と見紛うくらいに小さなサイズ。間違いない、グレッチェンの靴である。
盛装時の女性の靴は通常、長いスカートの下に隠れてしまっているので服を脱がさない限り、男の目に触れる機会はほとんどないのに、なぜ彼が分かったのかーー。
夜会に出掛ける準備中、母マクレガー夫人に「グレッチェンに履かせてあげて頂戴」と押し付けられるようにして手渡され、自らグレッチェンにこの靴を履かせてあげていたからだった。
あの几帳面で潔癖なグレッチェンが、扉を開け放したまま部屋を出て行ったり、靴を脱ぎ捨ててそのままにしておくなどというだらしない真似は決して行ったりしない。特に、靴に関してはとても気に入っている様子だっただけに、意味なくぞんざいな扱いをするなど到底ありえない。
虫の知らせと言うべき悪い予感が脳裏で一気に駆け巡る。
居ても立っても居られなくなったシャロンは、背後でキャロラインが批難混じりに叫んでくるのも構わず、靴を手にしたまま、元来た道とは反対側に脇目も振らず走り出したのだったーー。
(2)
血に塗れた切っ先が眼前に迫り、グレッチェンはその身を竦ませ、ぎゅっと固く目を瞑った。
刃が肉に切り込んだ音が、確かに耳へと届く。
それなのに、身体に痛みを全く感じない。
痛みよりも恐怖心の方が勝り、感覚が麻痺してしまったのか。
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慣れ親しんだベルガモットの香りと僅かな汗の臭いが、ふわりと鼻先を掠めた。
同時に、息苦しいまでに全身がきつく締め付けられている。
嗅覚を擽られたことがきっかけで徐々に冷静さが戻ってきた。
今自分が置かれている状況を確認するべく、恐る恐る目をそっと開けてみると、涼しげなダークブラウンの瞳とすぐ目の前で視線がかち合った。
「……グレッチェン……。今だけは……、気安く触るな、と怒らないでおくれよ……」
シャロンは、座り込んだままのグレッチェンに合わせ、両膝立ちの姿勢で彼女を強く抱きしめていた。
正確に言うと、クラリッサの凶刃からグレッチェンを守るため、咄嗟に我が身を盾にしたのだ。
この場に来るまでに相当走ってきたのか、シャロンは肩を激しく上下に動かし、ぜぇぜぇと息を切らしている。
体力を使い切った様子のシャロンを見ていたグレッチェンが、あることに気付く。直後、見る見る内に頭のてっぺんから爪先に掛けて、血の気がサーッと引いていくのを感じられた。
シャロンの右肩から血が流れていて、黒い燕尾服に赤黒い染みを作っているだけでなく、染みの範囲がどんどん広がっていく様をーー
「何故邪魔をするの!!!!!!」
顔を真っ赤に紅潮させて怒り狂うクラリッサは、再びナイフを固く握り直して二人に切り掛かろうとーー、したが、それよりも早くシャロンが懐から、キャロラインを脅えさせた物ーー、銃を抜いてクラリッサに突きつける。
「……女性に手荒な真似をしたくないが……、彼女をこれ以上害するつもりならば容赦はしない……。レディ・クラリッサ、ナイフを大人しくこちらへ渡してもらおうか」
普段と変わらない穏やかな口調であるのに、シャロンの声は異様なまでに冷たい響きが籠っている。
切り付けられた箇所の出血具合と、銃を持つ手が微かに震えていることから、右肩の傷が本当は痛くて堪らないのだろう。それでも、苦悶の表情を浮かべながらも、シャロンは銃を下ろす素振りを一切見せようとしない。更に、空いている左手は、庇うようにグレッチェンの肩を抱いている。
銃口を向けられてはさすがに手も足も出せないのか、ナイフをまだ手にしているクラリッサは奥歯をギリギリと噛みしめ、シャロンとグレッチェンを交互に睨んでくる。
このまま終わりのない睨み合いがいつまでも続くのかーー
ピンと張りつめた糸を幾重にも重ね、自分達の周りをぐるりと取り囲んでいる錯覚を覚える程に、一秒たりとも気が抜けない緊張感が三人の間に流れていたのだった。




