煩悩コントロール(12)
途中、残酷な描写有り。注意。
(1)
「汗でお化粧が崩れたから直しに行きたい」と、非常に苦しい言い訳を残し、グレッチェンは口説き続ける青年からようやく離れた。
(……疲れた……。ちょっと一人になりたいわね……)
どうせ、シャロンは夜会がお開きになるまでは戻って来れない。少しの間だけなら、会場である大広間から抜け出しても大丈夫だろう。
グレッチェンは扉を開き、休憩が取れる場所を探しに外へ出て行った。
染み一つない真っ白な壁と、よく磨かれた黒い大理石の廊下。
白と黒のコントラストの間を彩るような深緑の絨毯を、覚束ない足取りで踏みしめながら、休憩室を探す。
大広間から続く廊下をひたすら真っ直ぐ進むと、やがて大きな窓に突き当たり、道が左右に分かれる。そこで右へ曲がって三メートル程進むと、部屋の扉を見つけた。『休憩室』と書かれた札がドアノブに掛けられている。
念のため、扉を叩いてみるが中から返事は返ってこない。思い切ってそっと扉を開けると、案の定部屋の中には誰の姿も見当たらなかった。
グレッチェンは中へ入ると、すぐに部屋の内鍵を掛ける。
緑色の布地に黄色い縦縞の刺繍が入った長椅子が二脚、椅子と椅子の間には台の四隅に金箔の細工が施された、焦げ茶色のローテーブル。その奥の壁には部屋全体を映し出す巨大な鏡が設置され、天井を見上げれば煌々と灯りを燈すシャンデリアが吊り下げられている。
高級な代物だとすぐに見て取れる家具類にやや気が引けながらも、グレッチェンは長椅子の隅の方に腰を下ろした。履き慣れない靴のせいで、足が痛かったからだ。
不作法だと思いつつ、誰も見ていないからーー、と、足を伸ばして靴を脱ぐ。前屈みの姿勢で膝の上に肘をつき、ふぅぅーーと、長い長い息を吐き出した。
ふと、足元に置いた靴に目を留め、手に取ってみる。
十二㎝の踵の高さには慣れないものの、ドレスの刺繍の色に合わせた銀色のクロムウェルシューズは、正面のバックルに飾り付けられたイミテーションパールも相まって硝子の靴を彷彿させる。小柄なグレッチェンは足の大きさも他の成人女性と比べてかなり小さいので、「まるで灰かぶり姫の靴みたい」と柄にもなく夢見がちな発想を思い描いていた。
コンコンーー
扉が叩く音が聴こえ、靴に意識を集中させていたグレッチェンは一気に現実へと引き戻された。
慌てて靴を履こうとするも、焦っているせいで上手く足が入らない。扉の向こう側の人を待たせてはいけないので、仕方なく靴を手に取り、裸足(厳密に言うとストッキングは履いているが)のまま扉に近づき、開け放す。
扉を開けた先に立っていた人物の正体ーー、それはクラリッサだった。
(2)
グレッチェンは、クラリッサの姿を見た途端に息を飲み込む。
複雑に編み込まれた赤毛の長い髪はあちこちがほつれ、すっかり乱れ切っているし、グレッチェンや妹と同じ淡いグレーの瞳は心ここに非ずと言わんばかりに茫洋としている。おまけに、血痕を思わせる赤い染みがドレスの胸元やスカート部分にべっとりと付着していた。
「……ク、クラリッサさん、一体、どうされたので……」
ここでグレッチェンは、目をこれでもかと大きく見開き、言葉を失う。
クラリッサが、グレッチェンに向けてナイフを振りかざしてきたのだ。
咄嗟に、体当たりする勢いでクラリッサを力一杯突き飛ばす。
ものの見事にクラリッサは派手に転倒し、その隙にグレッチェンは部屋から飛び出した。
「……待ちなさい!キャロライン!!」
グレッチェン以上に幅が細いスカートのせいで起き上がるのに悪戦苦闘しながら、クラリッサはドスの利いた金切り声で叫び散らす。一体何があったのかは知らないが、精神が錯乱していることは火を見るより明らかだ。
こんな危険な状態の人間が大広間に向かったとしたら……、間違いなくおぞましい惨劇が繰り広げられるだろう。ならば、いっそのこと自分の後を追わせて大広間からクラリッサをなるべく遠ざけよう。クラリッサのあの装いでは走ることはおろか、速足で歩くことさえ難しいに違いない。
勿論、グレッチェンも幅の細いスカートに加え引き裾という点では走ることは厳しいが、裸足に近くなったことで歩くのが楽になった分、クラリッサよりはましだ。その間にすれ違った者に警察を呼ぶよう頼んでみる。
たった数秒の間でここまでに思い至ったグレッチェンは、クラリッサが立ち上がるよりも早く、大広間と反対方向へ歩みを進める。
「……あ、靴……」
クラリッサを突き飛ばした時に、手にしていた靴も落としてしまった。
(……せっかく、お義母様に買っていただいたのものなのに……)
ごめんなさい、と心の中で謝りながら、廊下の角に差し掛かる。すると、食器を運ぶカトラリーらしきものが見えた。おそらく使用人が何人か近くにいる筈だ。
助かった、これで何とかクラリッサを抑えられるかも……、と安堵したのも束の間、カトラリーに近づくとグレッチェンの心臓が跳ね上がったと同時に凍り付く。
空いたグラスや皿が大量に乗ったカトラリーと壁の隙間には、心臓を一突きされて絶命している若いメイド、更には廊下の真ん中には背中を数か所刺されて事切れている中年のメイド。
彼女が手にしていたナイフは、きっとこのカトラリーから奪ったものだろう。
一体、何があの大人しげな女性を恐ろしい狂女へと変貌させてしまったのだ??
「……見つけたわよ!キャロライン!!よくも……、よくも、私のドレスを汚してくれたわね!!お前は何度私に恥をかかせれば気が済むの!!もうこれ以上は許さないわ!!」
背後を振り返ると、クラリッサが赤ん坊のようなヨチヨチ歩きながらも、目を血走らせてグレッチェンに徐々に近づいてくる。すぐにグレッチェンは逃げ出そうとしたが、スカートの裾を思い切り踏んづけてしまった。転倒こそ避けられたものの、身体を庇った際に右足首を捻ってしまう。
「……痛っ!……」
小さく悲鳴を上げる。だが、動かなければクラリッサに刺殺される。
一歩動かす度にピキッと神経が引き攣る痛みに襲われながら、グレッチェンは右足を引きずるようにして必死に逃げた。
けれど、一定に保たれていたクラリッサとの距離はどんどん詰められていく。元からの夏の気温の高さによるものだけでなく、恐怖からくる冷たい汗が顏のみならず身体中から噴き出てくる。
痛い、怖い。痛い、怖い。痛い、怖い。
痛い、怖い!痛い、怖い!!痛い、怖い!!
この時のグレッチェンは、すでに恐慌状態に陥り、普段の冷静さを完全に失っていた。そして、恐怖と焦りに支配された人間には往々にして不運が巡ってくる。
「……あっ!」
焦る余り、再度スカートの裾を踏んづけたグレッチェンはつんのめり、今度こそ転倒してしまった。
すぐに起き上がらなければ、と立ち上がろうとするが、右足首に力を入れた途端に激痛が走り、その場に蹲る。
「……たすけて……」
誰に言うでもなく、いや、この場にいない人へ向けて無意識に助けを求める。が、その直後、不穏な気配を察知し振り返ったグレッチェンが見たものーー
クラリッサがグレッチェン目掛けて、ナイフを振り下ろそうとしていたところだった。




