煩悩コントロール(9)
(1)
傍から見れば、成金とはいえ仮にも上流の女性に対して非常に不躾な態度を取っていることは、充分自覚している。それでも、グレッチェンはキャロラインからの『依頼』を請け負いたくなかったのだった。
キャロラインはグレッチェンの、包み隠すことのない、はっきりとした依頼拒否の発言にポカンと口を半開きにし、間の抜けた表情を晒していた。だが、徐々に状況を理解し出すと、美しい口元を見る見る内に歪ませ、わなわなと細い肩を震わせ始める。間違いなく、気位が人の三倍は高いであろう彼女の怒りを買ってしまったようだ。
シャロンは、どうするつもりなんだ、と言いたげに横目でちらりと視線を送ってきたが、グレッチェンはそれに応えようとせず、ただキャロラインの出方をじっと待ち続けた。
「ふ……」
ふざけないで!とでもヒステリックに叫ぶだろうか、と、思っていたらば、信じられないことにキャロラインはコロコロと声を立てて大笑いし始めたのだ。
予想外の反応に、今度はグレッチェンとシャロンが呆気に取られる番だった。そんな二人に構わず、キャロラインは笑いながら更に信じ難い言葉を口にする。
「ふふふふ……、嫌ね、冗談に決まっているでしょう??いくら、あれが鈍くさくて目障りな女とはいえ、さすがに殺そうなんて思わないわよ。あれもあれで、あんな気が小さい臆病者が人殺しなんて大それた真似、到底できっこないもの。それに、あくまでただの噂なんでしょ??なのに、ご丁寧に私の冗談に真面目に答えてくれるから、もう可笑しくて可笑しくて……」
どうやら、酔った弾みで口について出た戯言だったらしい。
シャロンはホッと胸を撫で下ろしたものの、グレッチェンは僅かに眉を顰め、唇をきつく引き結び、憮然としている。生真面目で潔癖な彼女にとって、この手の質の悪い冗談が許し難く、強い嫌悪感を覚えるからだ。
「そんなことはともかく……。ねぇ、マクレガーさん、お店の閉店準備なんてこの坊やに任せちゃって、今から私と飲みに行きましょうよ」
キャロラインはグレッチェンを完全に無視し(それどころか、彼女を男と思っているようだ)、美しくも妖しげな笑みでシャロンに誘い掛ける。酔っ払っているとはいえ、どこまでも自分本位な女である。
「レディ・キャロライン。お誘いは実に嬉しい限りなのですが……、夜遅くに彼女を店に一人きりで置いて行くのは心配でして……。何分、うちの看板娘ですから、彼女が完全に一人になったところを狙って不貞な輩が店に押し入ってくるかもしれません。貴女もご存知かと思いますが、歓楽街は華やかな反面、犯罪も多いですから。そういう訳で、申し訳ありませんが、今夜のところはお引き取り願えませんかね??」
口調は丁寧であれど、シャロンはキャロラインの誘いにはっきりと断りを入れた。『貴女よりもグレッチェンの方が大事だから』という旨を暗に強調させて。
「彼女??看板娘??」
ようやくグレッチェンが女性だと気付いたキャロラインは、今度はグレッチェンの方に目を向け、値踏みするようにじろじろと眺めた後、嫌な含み笑いを漏らした。
「男装姿だし、貧弱な身体だからてっきり十代半ばの少年かと思ったけど。ふぅん、なかなかどうして、まぁまぁ綺麗な顏しているのね」
それでも私と比べたら見劣りするけど、と、心中で付け足していそうなキャロラインにグレッチェンは「恐れ入ります」と、いつもの鉄面皮で短く答える。すると、何を思ったのかキャロラインの興味の対象はシャロンからグレッチェンへと移っていった。
「貴女、歳は??」
「二十歳です」
「見るからに真面目一徹そうなお嬢さんね。指輪をはめていない辺りまだ未婚のようだけど、恋人は??」
「いません」
ここでキャロラインは、あからさまに優越感を示す微笑みをグレッチェンに向けた。
「やっぱり。その様子じゃ、まだ……でしょうね」
キャロラインが言わんとしている言葉の意味ーー、グレッチェンへのいきすぎた侮辱だと感じたシャロンは「レディ・キャロライン。うちの看板娘をからかうのも程々に」と、あくまで笑顔を浮かべつつ、それとなくキャロラインを窘める。身分と、人としての品性は必ずしも一致しない、その良い典型だな、と、内心彼女に軽蔑を抱きながら。
「……確かに、私はまだ男性経験が一度もありません。しかしながら、それが恥ずかしい事だとは決して思っていません」
「グ、グレッチェン!君はいきなり何を言い出すんだ!?そんなことはわざわざ人前で話すべきことではない!!」
グレッチェンのとんでもない自己申告に、シャロンは必要以上に慌てふためき、つい声を荒げて叱り飛ばしてしまった。当のグレッチェンは、何故怒られるのか、と、明らかに不服そうにしている。
「面白いお嬢さんね。気に入ったわ」
キャロラインはずっと手にしていた、パールのような光沢を放つ、純白のビーズで作られた長方形の鞄の中から、一通の手紙とペンを取り出す。
「酔いが醒めてきたお蔭で、ここに来た本当の理由をやっと思い出せたわ……。今度、我が家で開かれる夜会にマクレガーさんをお誘いしようと思ってここへ来たことを……。でも、気が変わったわ。マクレガーさんと、お嬢さん……、えぇと、名はグレッチェンさんだったかしら??ファミリーネームは??」
グレッチェンがファミリーネームを伝えると、キャロラインはおもむろに手紙の封を開け、招待状に書かれた『シャロン・V・マクレガー』の下に、グレッチェンのフルネームを書き足す。
「この夜会は、異業種の人々との交流を持ちたいお父様が定期的に開いているもので、上流のみならず中流の人々も参加しているの。だから気後れすることなんかないし、貴方達にぜひ参加していただきたいわ」
キャロラインは戸惑っているシャロンの掌に無理矢理押し付けるように、招待状を手渡す。
「いい??この私がわざわざ出向いてまで招待するのだから、絶対参加して頂戴ね??それじゃあ、ごきげんよう」
(2)
この国の天気のように一貫性がまるでなく、酔っ払っていたとはいえ、終始落ち着かない言動を繰り返すキャロラインがようやく店を去ったことで、シャロンとグレッチェン双方にどっと疲れが押し寄せてくる。その証拠に、シャロンは元よりグレッチェンですら、閉店作業の手を止めてしまっているのだから。
「シャロンさん……、本当にエメリッヒ家の夜会に、私も参加しなければいけないのでしょうか……」
「仮にも身分の高い家の者に誘われた以上、断る訳にはいかないだろう」
それでも、グレッチェンはいまいち腑に落ちないといった様子でいる。
「グレッチェン、ちょっと私の部屋に一緒に来てくれないか」
とっくに成人している男がこんな風に女性を部屋に誘う場合、下心に他ならないが、この二人に限っては当てはまらない。シャロンに手招きされるまま、グレッチェンは二階の彼の私室へと足を踏み入れる。
部屋に入ってすぐに、シャロンはクローゼットの扉を開き、中から見覚えのある焦げ茶色の小型トランクを引きずり出してきた。
「まさか……」
驚きで淡いグレーの瞳を見開くグレッチェンに、シャロンは無言で頷いてみせる。
「そう、君がレディ・クラリッサから受け取った金だよ。ちなみにまだ一切手を付けていない」
「…………」
「君が、納得しきれていない依頼で受け取った金を使うのはどうにも気が引けてね。エメリッヒ姉妹の記事を毎日のように調べている姿から、後悔の念すら抱いているのでは思い始めた。幸いにも、レディ・クラリッサはまだ事を起こしていない。そこへもって、レディ・キャロラインが夜会への招待状を我々に渡してきた。この出来過ぎた偶然を利用して、レディ・クラリッサに毒を返してもらうよう説得するんだよ。勿論、依頼金は全額返すことを条件にね。と、まぁ……、今さっき思いついた計画だから、杜撰なものではあるが……、夜会に参加する意義は充分にあるだろう??」
ここ最近、グレッチェンがクラリッサに毒を売ってしまったことを密かに気に病んでいたのを、シャロンに見抜かれていた。何たる不覚だろう、と己を恥じ入ると同時に、グレッチェンがどうしたいかということまで汲み取り、機会が巡って来たら逃さず、すぐに動いてくれようとする。九年前、自分を救ってくれた時と何ら変わっていないことに、ひどく安心感を覚え、やはり、この人以上に信頼できる人は他には誰もいないと再確認をする
しかし、それとは別に、グレッチェンには気に掛かっていることがあった。
「シャロンさんの心遣いは嬉しいのですが……。ただ、私は髪もこんなですし、夜会用のドレスも持っていません。生憎、流行のドレスに関して私はまったくの無知ですし、きっとシャロンさんに恥をかかせてしまいます……」
グレッチェンは本当に困っているのか、珍しく弱々し気に眉尻を下げてみせる。
「心配には及ばないさ。君には強い味方がいるじゃないか」
「え??」
「隙あらば、君を着飾らせたくていつもうずうずとしている、あの人だよ。きっと悦び勇んで、いくらでも世話を焼いてくれるだろう」
ニッと唇の端を持ち上げて笑うシャロンに、グレッチェンは何かを思い出したのか途端に、あぁ……と、納得の声を上げたのだった。




