煩悩コントロール(6)
(1)
『お互いに名前も素性も名乗らない』ことを条件に、シャロンは女と待合宿にて抱き合っていた。
女は、シャロンの身体の下で情事に夢中になっているように見せ掛けつつ、自らも彼に快楽を与えることを忘れない余裕を持っている。嬌声すらも何処か演技掛かっているようにすら思える。
女がわざとらしく喘ぐ度に、シャロンは冷めた目で眺めながら煽り続けた。
髪や瞳の色こそグレッチェンと似ていたが、やはり別人だということを嫌と言う程痛感させられ、身体の熱が上がっていくにつれ頭はどんどん冷静さを取り戻していく。
滑稽だな、と、女に気付かれないよう自嘲気味に嘲笑う。
行きずりの適当な女を抱くのはいとも容易くできるというのに、愛しいばかりの女には指一本たりとも触れることができないのだから。それどころか、壊してしまうかもしれない恐れから、触れるべきではないとすら思う臆病で屈折した想いの捌け口がこの有り様なのだからーー。
終わりを迎えてしまえば、実に呆気ないものである。
シャロンは早々に女の身体から離れると、その隣に身を横たえる。
「随分と淡泊なのね」
女は頬杖をついて横たわりながら話し掛けてきた。
「ねぇ、ミスター。貴方、他に好きな女性がいるのでしょう??」
「まさか。今の私が好きなのは貴女だけですよ」
「うふふふ、本当に口が上手な人ね。でも、案外嘘は下手だわ」
シャロンは返事を返す代わりに、肯定と否定とも取り難い、曖昧な薄ら笑いを浮かべて誤魔化した。が、女も含み笑いを浮かべて、からかうように尋ねた。
「好きな女性を抱けない代わりに私を抱いたのでしょう??」
勘の鋭い女はこれだから嫌なのだ。
質問に答えようとしないシャロンに、女は尚も楽しそうに問い掛けてくる。
「別に良いのよ。私も恋人と別れたばかりで寂しさを紛らわせたかっただけだから。お互い様よ」
「寂しいと言う割には未練がなさそうですね」
言われっぱなしなのも癪なので、少々意地悪く切り返してやると「えぇ、そうかもしれないわね。だってあの人、見た目こそ良かったけれど、堅物で全然面白味のない人だったんですもの。凡庸な姉の婚約者だったから良く見えただけね。姉に返してあげようかとも思ったけど、さすがに同じ家の娘との婚約を二度も破棄するような人は両親が嫌がるだろうから、そのまま捨て置いたわ」と、必要以上にぺらぺらと身の上を語り出したのだ。
(……よく喋る女だ……)
見た目こそ美しいが、こんな軽薄で浮ついた馬鹿女と、少々生真面目が過ぎるものの、賢く慎み深いグレッチェンが似ていると思ってしまった己の愚かさを恥じ入りたくなったと同時に、どこかで聞いた話だとも気付く。
ひょっとすると、この女は昨日店に訪れたクラリッサの妹なのではないだろうか??
「おやおや、実の姉上に対して随分な言いようですねぇ。そのような言葉、貴方のような美しい女性が口にするには似つかわしくないですよ??そんなにお嫌いなのですか??」
「あら、嫌だわ、私ったらつい……。でも、本当に残念な女なのよ。赤毛と雀斑が目立つのが嫌なのか、いつも下ばかり向いて自信なさそうにして……。見ていていつも苛々してしまうんです」
一か八かで掛けたカマ(と呼ぶには少々弱いが)に女が気持ちいいくらいに引っ掛かってくれたことで、やはり彼女がクラリッサの妹だとシャロンは確信したのだった。
それにしても、近頃はことごとく厄介な女に当たってばかりいる。
女難の相でも出ているのだろうか、などと、普段は考えもしない非科学的なことを思い浮かべてしまう程に、シャロンはこの状況に愕然とするしかなかったのだった。
(2)
ーー時は進み、明け方の五時近くーー
「家の者の目を盗んで屋敷から抜け出してきたから、夜が明ける前には帰りたいの」という女の言葉に従い、待合宿を出て行く。
まだ五時前だというのに、真夏の早朝の空はとっくに白み始めていた。
もう少し早く出れば良かったかもしれない、などと思いながら、辻馬車の停留所となっている大通りまで女を送り届ける。
女は相当に焦っていたのか、停留所に向かう道中も馬車に乗り込む時も終始無言で、別れ際の挨拶すらろくに交わしもせずに、そそくさとシャロンの目の前から去って行った。
思わず拍子抜けするくらいに、あっけない別れだった。
だが、もう二度と会う事もないであろう行きずりの関係には、これぐらいが丁度いい。
シャロンも女が馬車に乗り込んだところですぐに背を向け、馬車が動き出すのすら待たず、元来た道を再び歩き出したのだった。
停留所から薬屋は、西の方角へひたすら真っ直ぐ歩けば三十分と掛からずに辿り着く。
しかし、酒がまだ身体に残っている上に、ろくに寝ていない状態だと一定時間歩き続けることが体力的に辛いものを感じる。幾ら若く見えるとはいえ、彼も三十三歳で決して若くはない。自然と家路を辿る足取りも重たくなってくる。
それでも足を引きずるようにして店に向かっていると、反対側の通りからある人物がこちらに向かって歩いてくるのが目に留まった。その人物もシャロンに気付くと、遠目からでもはっきり分かる程に表情を歪めた。
あぁ、よりによって今一番会いたくない相手と鉢合わせてしまったーー
無視するのもどうかと思い、すれ違いざまに一声掛けようとしたところ、「朝帰りかよ。ったく、昨日の今日でよくやるよな、本当懲りない奴」と早速痛烈な嫌味を貰い受けてしまった。
「お前こそ、いつもは店に泊まり込んで昼近くまで眠りこけている癖に、珍しく早起きじゃないか。女の部屋にでも泊まっていたのか??」
「あ??違え、店に置いてある着替えがなくなってきたからアパートに取りに行くだけだ。お前と一緒にしてくれるな」
シャロンが『お前』呼ばわりをする唯一の人物ーー、ハルは鬱陶しげに鼻を鳴らしながら、シャロンの嫌味を適当にあしらう。シャロン同様、彼もまともに睡眠を摂っていないのか、金色掛かったグリーンの瞳が妙にとろんとしていた。元が垂れ目がちな甘い顔立ちのせいか、目付きの鋭さが消えると意外に可愛らしく見えるものだ。
「なぁ、シャロン。お前はいつまであいつを待たせるつもりなんだ??お前だって、あいつのことを憎からず想っているんだろ??だったら、いい加減応えてやれれよ」
「……私は、彼女の気持ちに応えたくても応える訳にいかないんだ」
「何故だ??あいつの身体が原因か??だが、抱く分には問題はない筈だろう??」
「……そんなんじゃない……。私には、彼女を愛する資格なんかないからだ!」
シャロンは語気を荒げ、自分よりも一〇㎝以上背の高いハルを下からきつく睨み上げた。ハルはシャロンを憐れむように見下ろし、小さく溜め息をつく。
「まぁ、人の恋路はなんとやらと言うし、俺が口出したところで決めるのはお前達だしな。朝っぱらから余計なこと言って悪かった」
ハルはシャロンの肩をポンと軽く叩いた後、最後にこう言った。
「俺はお前が心底羨ましいんだよ。望みさえすれば、互いに愛し合える女がすぐ傍にいる。……こっちはどんなに望んだところで、二度と会う事すら叶わないからな……」
「…………」
ハルの言葉に何かを思い出したシャロンは、去っていく彼を思わず引き留めようとした。が、出来なかった。その広い背中から、彼の決して癒えることのない深い哀しみが滲み出ていたからだった。
「お前は……、まだアドリアナのことが忘れられないんだな……」
ハルが時折、時間を確認する振りをして、懐中時計の蓋の裏側に貼りつけられた写真ーー、八年前に死んだ恋人を眺めていることをシャロンは知っている。彼が自分とグレッチェンとの仲を気に掛けるのは、どこかで自身と死んだ恋人とを重ね合わせているからだろう。
しかし、ハルには悪いが、シャロンはグレッチェンへの想いは一生成就させるつもりはなかった。誰にも理解されないことだと重々承知している。
一気に気が重くなったことで更に足取りも重くなり、一歩進むだけでもとてつもない体力を労しているように感じながら、シャロンは引き続き家路を辿ったのだった。




