第二話
「シャロンさん、私は一〇分以内に来てください、と言いましたよね??一〇分どころか、十五分も経過しています」
店まで下りてきたシャロンに向かって開口一番、グレッチェンは彼を咎めた。
「たかだか五分の遅れくらいで、そんなに騒ぎ立てないでくれないかね」
パリッとした白いシャツに黒いカラータイを襟に掛け、高級感のある素材が使われた薄茶色のベストと揃いのズボンを纏ったシャロンは、グレッチェンの小言を適当に受け流す。
派手さはないものの、すっきりと整った目鼻立ちにやや童顔のシャロンは、爽やかな雰囲気の紳士と言った外見に加え、話し上手で女性の扱いも手馴れているため、女性客からの人気が非常に高かった。
グレッチェンが彼を叩き起こした理由の一つとして、彼を目当てに店を訪れる女性客の相手をしてもらいたかったからだ。この店の顧客は歓楽街で働く女性――、つまりは娼婦として身を売る者が大多数を占めていた。
そもそも、この店自体が一般的な薬屋ではなく、月経痛や婦人病の薬、身体の冷えを改善する漢方、媚薬、精力剤、避妊具、性交時の潤滑剤など性に関わる薬を数多く売っている、少々変わった店だった。
案の定、夕方から夜になるにつれて、店には客引きに出向く前の娼婦達がポツポツと訪れ始める。今日は避妊具(と言うが、その実ただのスポンジで、それを膣の中に押し込むだけの、申し訳程度のものだが)と潤滑剤がよく売れる。
媚びを含んだ笑顔を浮かべ、シャロンと世間話を交わす若い娼婦を視界の端で眺めながら、スポンジと潤滑剤を多めに仕入れておいて正解だった、などとグレッチェンが胸を撫で下ろしていた時だった。
「お兄さん、阿片チンキを一つ頂戴」
柔らかい栗毛を雑に編み込み、やけに濃い化粧を施した女がグレッチェンに声を掛けてきたのだ。出で立ちや雰囲気からして、彼女もおそらく娼婦だろう。
「申し訳ありません。阿片チンキはうちの店では取り扱っていないんです」
グレッチェンは女に向かって、軽く頭を下げる。
「何だい、薬屋の癖に阿片チンキが置いていないなんて、品揃えが悪いにも程があるね」
女はチッと舌打ちを鳴らし、グレッチェンに悪態をつく。
阿片チンキは婦人病の鎮痛剤や、咳止め、むずがる幼児への気付け薬として使用されていて、値段が安価なことから庶民に広く愛用されている。しかし、使い易さの反面、副作用で阿片中毒になったり、最悪死に至る場合があり、阿片チンキの過剰摂取による死亡事故が後を絶たない。
この国有数の名門大学で医学を学んでいたシャロンにとって、阿片チンキの副作用など当然のごとく周知の事実であり、ゆえにこの店には阿片チンキが置かれていないのだ。(本来なら、カナビスチンキも似たようなものなのでシャロンとしては店に置きたくないのだが、売り上げのことを考え、注意を喚起した上で売っている)
「あのねぇ、シャロンさんが言っていたけど、阿片チンキを使い過ぎると死んじゃうんだってさ。だからこの店には置かないのよ。あと、グレッチェンは男みたいな形しているけど、女だから」
シャロンと喋っていた若い娼婦が店を出て行きがてら、訳知り顔で女にそう忠告した。
女は不服そうに表情を歪めているが、店から立ち去る気配が一向にない。それどころか、若い娼婦の姿が見当たらなくなると、再びカウンターに近づき、今度はシャロンに話し掛けた。
「あんたがこの店の店主かい??」
「ええ、そうです」
女は不躾なまでに、じろじろとシャロンに視線を送る。
「ふぅん、こんな坊やのような顔して」
一瞬、シャロンの笑顔がほんの僅かに固まる。童顔の彼は若く見える反面、軽い扱いを受けることもしばしばあり、その度に彼の人一倍高いプライドに障るのだ。
いちいち一言多い女の態度に、グレッチェンは内心ハラハラしていたが、とりあえず黙ってやり取りを見守っていた。
シャロンとグレッチェンの間に流れる緊迫した空気に構わず、女はカウンターに両肘をつき、身を乗り出す。そして、シャロンに顔を近づけて、ひそひそと小声で話を切り出した。
「……噂を小耳に挟んだけど……、この店で『確実に人を殺せて、絶対に証拠が残らない毒』を売っている、って聞いた。それは本当なの??」
瞬時に、シャロンとグレッチェンの顔付きが厳しいものに変わった。
二人のあからさまな表情の変化に女はたじろぎ、口を噤む。
「えぇ、レディ。その噂は本当ですよ」
女を安心させるためか、シャロンはニコリと穏やかに微笑む。
だが、女は警戒した様子で黙り込んでいる。
「ただし、この毒を売るには幾つか条件がありましてね。一つは、この毒は絶大な効果がある分、大変貴重な物です。売るからには、それなりの大金が必要となります」
「た、大金……??幾らかかるんだい??」
シャロンが毒薬の値段を掲示すると、「そんな大金、私みたいな貧乏娼婦に払える訳ないじゃないか!!」と、女は憤り、大声で叫ぶ。
「シッ!レディ、お静かにして頂けますか??この毒薬の取引は、秘密裏に行っていることですので……」
シャロンの注意を受け、女は慌てて両手で口を押え込んだが、すぐに声を落として彼に問い掛ける。
「……どうしても、それだけ払わなきゃ駄目なのか……??」
「我々も危険を承知で行っていることですし、相応の報酬を頂きたいですから」
口調こそ柔らかいが、シャロンの突き放した言葉に女はガックリと肩を落とす。
そんな女の様子に、シャロンはふむ、と小さく頷くとこう続けた。
「……そうですねぇ。貴女が毒を欲しがる理由次第では、破格の値段で売ることも可能です」
「本当かい!?」
途端に、顔を綻ばせる女を、シャロンはどことなく愉快そうに見つめる。
「ただし、理由を話すのも、その理由を聞いてどうするか判断を下すのも私ではなく、彼女――、グレッチェンです」
シャロンは、隣に立つグレッチェンの細い肩を抱くように、両手で掴んで一歩前へ押し出す。
「シャロンさん、どさくさに紛れて気安く触らないで下さい」
すかさず、グレッチェンから厳しい言葉が突きつけられ、「君ねぇ……」とシャロンは返す言葉を失うも、すぐに女に向き直る。
「話の続きですが、彼女が判断を下す――、つまり、毒薬を精製しているのは私ではなく、このグレッチェンですから」
女は訝しむように、カウンターの中で横に並ぶグレッチェンとシャロンを交互に見比べている。
恐らく、こんな若い娘が本当に強力な毒を作っているのか??と半信半疑なのだろう。
「……まぁ、毒が手に入るなら、この際何でもいいさ」
「……では、奥の部屋へ案内します。そこで、毒を使う理由や相手の事を聞きましょう。その前に」
グレッチェンは淡いグレーの瞳で女を一瞥する。
「貴女のお名前を教えて下さい」
女はグレッチェンを睨むように見返しながら、「アタシの名前はシルビアだ」とぶっきらぼうに告げた。
「シルビアさん、ですか。私と共に、奥の部屋へ」
グレッチェンは女にカウンターの奥の部屋を指し示すと、中へと案内したのだった。