煩悩コントロール(3)
(1)
瓶に残っているレモネードを一気に飲み干すと、グレッチェンはハルに瓶を手渡しながら礼を述べ、席から立ち上がる。
「もう行くのか??」
「はい。あまり長居してはここの開店準備の邪魔になるでしょうし。それに……、シャロンさんに、いつまで油を売っているのかと思われてはいけませんから」
「あんな馬鹿、放っときゃいい。つまらん女の尻を次々と追っ掛け回すんじゃなくて、すぐ傍で献身的に尽くすお前さんにいい加減目を向けろってな。ったく、いつまでこんないい女を待たせるつもりだか……」
ハルは肩を竦めて軽く笑うと、グレッチェンを外へ送り出す為に玄関の扉を開けてやる。
「あの人が、私なんかを相手にすることは絶対に有り得ませんよ。あの人が好きなのは、こんな、背が低くて貧相な体格をした、陰気で色気の欠片もない小娘ではなく、快活で豊満な体格をした色っぽい女性ですから」
そう、例えば、自身の姉であり、彼の婚約者であったマーガレットとか……。
マーガレットは、当時の首都に置いて『社交界の華』と謳われ、数多の男性を虜にしてきた程の美貌の持ち主だった。
顔を合わせれば、罵倒されるか暴力を振るわれるか、もしくはその両方を同時に受けるかしていたグレッチェンにとって、マーガレットは父レズモンド博士に次いでただただ恐ろしいばかりの存在でしかなかったものの、反面、彼女の美しさには密かに憧れすら抱いていたものだ。
――もしも、自分がマーガレットと同じくらい美しければ、こんなにも家族から憎まれることはなかったかもしれないし、愛してもらえたかもしれない――
正直なところ、マーガレットが羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。
おまけに、マーガレットはグレッチェンが唯一の心の拠り所にしていたシャロンと結婚する予定だったのだ。
涼し気で端正な顔立ちをした優男のシャロンと、目鼻立ちのはっきりした華やかな美貌を持つマーガレットとはまさに美男美女というべく、似合いの連れ合いであった。
――それなのに――
シャロンはグレッチェンを救い出すために、直接的でなかったとはいえ、マーガレットをその手に掛けたのだ。
ずっと後になって知ったことだが、中流階級のシャロンと上流階級のマーガレットの交際は当初、博士から猛反対を受けていたらしい。
結局、彼の優秀さが博士の目に敵ったお蔭で婚約まで漕ぎつけられたのだが、そうまでしてシャロンはマーガレットとの結婚を望んでいたのに。
自分は、彼の医学研究者になりたいという長年の夢を奪っただけでなく、愛する女の命まで奪わせた。
そんな自分に彼を愛する資格も、彼から愛される資格もある筈などない。
グレッチェンの淡いグレーの瞳の奥に、一段と憂いの陰が色濃く浮かび上がる。
「ハルさん。私は……、あの人にとって役に立つ人間でいられるなら、それで充分なんです」
「……そうか……」
ハルはグレッチェンの言わんとする言葉の意味を汲み取ったのか、または彼女の瞳に映る憂いに気付いたのか、それ以上は何も追及してこなかった。
彼のさりげない大人の対応をありがたく思いながら、「では、失礼します」と軽く頭を下げる。
行きの時間と比べたら若干陰りを帯びた太陽の下、グレッチェンは薬屋への帰路を辿っていった。
(2)
見慣れた白い石造りの建物の前で、グレッチェンは一人で立ち尽くしていた。
玄関の扉はすぐ目の前にあるというのに、扉を開けて店の中へ足を踏み入れることに今一歩躊躇してしまっている。
別に、普通に「只今戻りました」と言って中に入ればいいだけの話なのに。
ラカンターから帰って来た自分に、シャロンが一体どんな言葉を掛けてくるのかが気になってしょうがないのだ。
だが、時間が過ぎれば過ぎる程、中へ入り辛くなっていくばかりでもある。
だから、シャロンから言われるであろう言葉を幾つか想定し、覚悟を決めた上で中へ入る――、というよりも、これしか方法はないだろう。
ようやく頭の中での整理が付いたグレッチェンは、思い切って扉を開けた――
「…………」
店の中――、カウンターの奥には当然シャロンが、いた。
そして、もう一人――、グレッチェンと同じ年頃であろう若い女が、カウンターの前に佇んでいる。
「グレッチェン、随分と遅かったじゃないか」
想定中の想定というべき第一声を告げたシャロンだったが、次に発したのはグレッチェンの想定から大幅に外れた言葉であった。
「グレッチェン、君に『仕事』の依頼だよ」
その一言で、グレッチェンの顔付きが瞬時にして切り替わった。
玄関の鍵を閉め、女の方に向き直る。
グレッチェンと視線がぶつかると、女は怯えたようにさっと目を逸らした。
女の態度を気にすることもなく、グレッチェンはゆっくりと静かに、それでいて、はっきりと言葉が聞き取れる声で話し始める。
「『毒』をお求めになる場合、その理由を聞かせていただくことになっています。ただし、理由如何によっては毒を売ることは出来ませんが」
女は緊張によるものか、ひどく硬い表情で大仰に頷いてみせる。
「……分かりました。では、ひとまずは奥の部屋でお話を聞かせてもらえますか??」
グレッチェンはカウンターの奥の部屋を指し示し、女に部屋に入るように促したのだった。




