煩悩コントロール(2)
(1)
――遡ること、一日前――
「シャロン・マクレガーとはお前の事か??」
流行最先端の三つ揃えのスーツに、スーツと揃いの山高帽を被った青年が店に訪れ、慇懃な口調でシャロンに問うた。
「いかにも、シャロン・マクレガーはこの私ですが」
高圧的な青年の態度をものともせず、シャロンはいつもと変わらない穏やかさで男の質問に答える。
シャロンを品定めするかのように、男は彼を上から見下ろす形でじっと見つめた後、ふん、と軽く鼻を鳴らしてみせた。
青年は身なりから察するに、上流階級、もしくは裕福な中流階級の者なのだろう。
そんな身分の男が、昼日中から娼婦を主な顧客とする特殊な薬屋に一体何の用があるというのか。
グレッチェンはいささか不審に思いつつ、ひとまずは男とシャロンの動向を静観することに決めた。
「シャロン・マクレガー。カサンドラ・ミルフォードという女を知っているだろう??」
青年からの更なる質問に、シャロンは逡巡するもすぐさま、「あぁ……、カサンドラ・ミルフォード嬢ならば、よく存じておりますよ。見事なまでの、豊かな亜麻色の巻毛が大変美しい、とても気さくで話しやすいレディですね」と、答えた。
男は自分で尋ねておきながらシャロンの答えに対し、苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべる。
シャロンのダークブラウンの瞳に、男に対する嘲りの色が見え隠れし始める。
シャロンは、女性であれば誰であっても平等に優しさを示すけれど、男性に対しては時々このような冷たい視線を送り付けることがしばしば見受けられた。
どうやら、彼の中でこの青年は見縊ってもいい相手だという認識が生じたらしい。
シャロンの冷たい視線が意味するところに気付いた青年は、やや吊り上がり気味の目を益々上へと吊り上げ、思わず声を荒げる。
「僕は、そのカサンドラの婚約者だ!婚約者がいる女性に手を出すなど、何たる不届き者めが!!」
激高する青年に、シャロンはさも面倒臭そうに眉を顰めると、嫌味とも取れる程の極めて冷静な口調で話し始める。
「確かに、私はカサンドラ嬢と一カ月程男女の関係を結んでいました。しかしながら、この交際は元々彼女の方から持ち掛けてきた話でした」
「何だと?!嘘をつくんじゃない、カサンドラに限って私を裏切るなど……」
「嘘ではありません。親によって決められた結婚をする前に、一度でいいから恋をしてみたい、と打ち明けられ、その恋のお相手として私が選ばれたのです。まぁ……、いわば期間限定の『恋人ごっこ』に興じていただけの話ですよ」
何が、恋人ごっこに興じていただけ、だ。
どうせ、世間知らずのご令嬢を口八丁手八丁で上手い事言い包めて、飽きるまで散々楽しんだだろうに。
グレッチェンは、シャロンの発言にひどく鼻白み、内心青年の方に同情心を抱いた。
当の青年は言うと、頭から湯気が湧き出るのではないかと思う程に怒り心頭で顔を真っ赤にさせている。
至極当然の反応だ。
「でも約束通り、一か月後には後腐れなく別れたのですから、別に何の問題もないでしょうに」
「あるに決まっているだろう!大ありだ!!」
「おや、そうですか。では、出るところに出て訴えでもしますか??まぁ、婚約者を自分よりも格下の身分の男に寝取られたなんて、世間に知られたら家名に傷がつくでしょうが。貴方の家だけじゃない、カサンドラ嬢の家にもね。結婚前の、一時の軽い火遊びだと思って、黙って見過ごした方が後々恥をかかなくて済むと思いますよ??」
よくもまぁ、いけしゃあしゃあとここまで自分を正当化できるものだ。
ここまで開き直られては、いっそのこと清々しささえ覚えてくる。
グレッチェンは、この、痴情のもつれによる、とてつもなく下らない諍いが一刻も早く終わらないものかと、ひたすら壁時計の秒針を眺めてやり過ごそうとしていた。
しかし、怒り狂う余りに我を失った青年がシャロンの胸倉に掴みかかってきたのを、視界の端で捕えた瞬間、考えるよりも身体の方が動くのがうんと早かった。
むしろ、身体が勝手に動いたと言っても過言ではないだろう。
気が付くと、グレッチェンは顔の左半分を両手で覆いながら、床の上に倒れ込んでいた。
咄嗟に、シャロンと振り下ろされる青年の拳との間に身体を素早く割り込ませ、グレッチェンはシャロンの代わりに顔面を思い切り殴られてしまったのだった――
(2)
グレッチェンが話し終えると、ハルは煙草の煙を吐き出した後、吸殻を灰皿に強く押し付ける。
「グレッチェン、前言撤回していいか??今度、あいつを一発殴らせろ」
「……そう言うと思いました……」
「あいつは正真正銘、底抜けの大馬鹿野郎だ。お前もあんな男、庇う必要なんか一切なかったのに」
「いえ、庇うつもりはなかったのですが……、気が付いたら、勝手に身体が動いていたんです」
何だそりゃ、と、呟くと、ハルは新たに煙草を咥えて火を着ける。
「それに、故意ではなかったとはいえ、無関係な人間であり女である私を殴ってしまったことで、その男性もそれ以上は何もせず、逃げるように店から立ち去ってくれましたし。そう思えば、殴られ損では終わらなかったかもしれません」
グレッチェンはハルに向けて何とか笑い掛けようと試みたが、その際傷が痛み、笑うどころか逆に顰め面を見せてしまった。
「あぁ、傷が痛いんだろ??無理して笑わなくてもいい、見るも痛々しいぞ。しかし、痣だけで済んでまだ良かった。下手したら、鼻の骨や歯の一、二本は折れていたかもしれん。いくら男の格好しているからと言って、お前は女なんだ。顔は大事にしろ」
「……はい……」
「それにしても……、お前、もっと他に良い男はいないのか??いくらお前の恩人とはいえ、あいつは女遊びと自堕落が少々行き過ぎている」
うんざりした表情で、この場にいないのをいいことにシャロンを詰るハルの姿を、グレッチェンは困ったように眉尻を下げて見つめていた。




