煩悩コントロール (1)
時系列は本編より少し前で、両片思いだけど色んなしがらみを気にしすぎて、一線を越えられない二人の話。
微糖。
(1)
「いらっしゃいませ。あら、珍しいですね、ハルさんがわざわざ店に出向くなんて」
扉が開く音が聞こえ、男にしては髪を長く伸ばした長身の男ーー、ハルが珍しく薬屋に訪れ、グレッチェンは他の客と比べて幾分親しげな様子でハルに話し掛ける。
「あぁ、お前んとこの馬鹿店主が中々アレを店に持ってきてくれないからな。そろそろなくなりそうだし……」
ここでハルは言葉を失う羽目になった。
それだけでなく、呆然とした様子で金色が入り混じったグリーンの瞳を見開いている。
「……グレッチェン。お前、その顔は一体、どうしたって言うんだ?!」
ハルが言葉を失った理由ーー、グレッチェンの左側の頬全体に青紫色の痣が拡がり、左目も少し瞼が赤く浮腫んでいたのだ。
皮膚の上には湿布が貼られているにも関わらず、それでも隠し切れない程の惨憺たるもので、彼女特有の理知的な美しさが完全に損なわれてしまっている。
あぁ……、これですか、と、グレッチェンはやや気まずそうに嘆息を漏らした後、ハルからの視線を避けるようにさりげなく顔を背けた。
「……転んだんです」
「グレッチェン、お前、嘘つくのが下手だな」
「…………」
「誰だ??誰に殴られたんだ??その痣は、どう見繕っても、男の力で思い切り殴られたものとしか思えんが??」
ハルの目付きは徐々に険しいものに変わっていき、グレッチェンの頭は益々下へと下がっていく。
ハルはしばらく無言で睨むように見つめていたが、「まさかとは思うが……」と、今度はグレッチェンの隣で黙って二人の様子を見ていたシャロンを、横目でギロリときつく睨んだ。
「ハル。私がか弱い女性に暴力を振るう非道な男だと思うのか??」
努めて穏やかな口調ながら、シャロンはいつになくピリピリしている。
そう言えば、中に入った時から店の雰囲気がいささか緊張味を帯びている気がしたのは、シャロンが苛立っているからに他ならない。
その証拠に、いつもは爽やかな笑みを浮かべているシャロンが、今日に限っては終始仏頂面を下げている。
「グレッチェン。悪いが、私は奥で仕事をしてくるから、ハルの方をよろしく頼むよ」
「……分かりました」
グレッチェンの返事を聞くやいなや、シャロンはすぐに奥の部屋へと姿を消してしまった。
「あいつは何を不貞腐れているんだ……」
すっかり呆れ返っているハルに、「すみません、ハルさん。どうも私の怪我の事で責任感じていて……、相当気が滅入っているみたいなんです」と、申し訳なさそうにグレッチェンは頭を軽く下げてみせる。
「どうせ、あいつの女絡みの件でお前がとばっちり受けたんだろ??」
どうしようもねぇなぁ、と、ハルは先程のグレッチェンよりも更に大きく溜め息をついた。
グレッチェンは返事を返す代わりに、「そう言えば、ハルさん、男性用の避妊具は幾つ入りますか??」と、無理矢理に話を切り替える。
「……あ?あぁ……、とりあえず、五つくれ」
グレッチェンは言われた通り、カウンターの真後ろに並んだ三つの棚の内、ハルから見て右側の棚の引き出しから男性用避妊具を探し出し、中身が外から見えないよう、しっかりと茶色い紙袋の中に収めてハルに手渡した。
ハルから受け取った代金からお釣りを払おうとした時、「あぁ、いい。金は代金ちょうどで支払ったことにして、釣りはこっそりお前がもらっておけ」と、やんわり断られてしまった。
「そんな……、いけません。だって、お釣りの方が代金の倍近くありますよ??」
「あ??いいって言ってんだろ??ほんの僅かだが、怪我の治療費の足しにしておけ。なんなら、あの馬鹿からも給金とは別に医者代たっぷり請求したっていいと、俺は思うぜ??」
「…………」
「とにかく、折角の綺麗な顔が台無しにならないよう、しっかりと傷を治せよ??いいな??」
最後のとどめとばかりにハルは、カウンターの上で、お釣りの小銭を緩く握ったままでいるグレッチェンの右手を、自身の両手でぎゅっと押さえつけ、指を固く閉じさせる。
ハルの押しの強さに負けたグレッチェンは、渋々ながらようやく小銭を受け取る素振りを見せ、力無く肩を竦めてみせた。
その様子を満足そうに一瞥すると、「じゃあな、お大事に」と、ハルは不敵な笑顔をグレッチェンに向け、店を後にしたのだった――
ハルの勢いに押され、思いがけず釣り代金を余分に貰ってしまったものの、グレッチェンはこれを一体どうしたものかと、一人思い悩んでいた。
ハルの言う通り、別に商品の代金ちょうどの金額を受け取ったことにして、黙ってさえいればいいだけの話ではあるし、彼なりの厚意だというのも充分理解している。
だが、元来生真面目が過ぎるグレッチェンである。時間が経つにつれ、まるで店のお金を勝手にくすねたような気分に陥ってきてしまい、ハルには申し訳ないがやはりお金を返しに行こう、という結論に達したのであった。
グレッチェンはカウンターの奥の扉を少し開き、中で仕事をしているシャロンに声を掛ける。
「シャロンさん、ハルさんから頂いたお代のお釣りを間違えて渡してしまいまして……、申し訳ありません……。それで、今からラカンターまでお金を返しにい行こうと思いますので、私の代わりに店番をお願いしたいのですが宜しいでしょうか??」
咄嗟に思いついた嘘にしては、我ながら説得力があると思う。
現に、シャロンは「君にしては珍しい間違いだな。誰が相手だろうと、金に関する間違いは店の信用問題に関わってくるから、すぐに返しに行ってもらえれば非常に助かる」と、あっさり嘘を信じ込んだ。
「分かりました。では、今すぐにお金を届けに行ってきます」
そう告げると、グレッチェンはすぐにハルが経営する酒場ラカンターへと向かった。
(2)
店の中から炎天下の屋外へ出て行くと、燦々と輝く太陽の眩しすぎる光線に目が眩み、グレッチェンは思わずしかめっ面を浮かべた。
薬屋からラカンターまでは、歩いて一〇分足らずといったところであるが、真夏の太陽が最も高く昇る時間帯に一定時間外を歩いていれば、汗を掻きにくい体質のグレッチェンですら額に汗がじわりと滲んでくる。
やがて、赤茶色の塗炭屋根と漆喰塗りの白壁、横長の造りをした一階建ての建物に辿り着くと、グレッチェンは玄関の扉をコンコンと叩いた。
しかし、一回目のノックの後で扉が開く様子が見受けられない。
留守なのか、それとも音に気付いていないのか。
もう一度、グレッチェンは扉を叩いてみた。今度は先程よりも少し強めに。すると、中からガチャガチャと錠を外す音が聞こえ、扉が開くと共にハルが顔を覗かせた。
「誰かと思いきや、グレッチェンか。どうしたんだよ??」
「すみません、開店準備中の忙しい時に……。あの、さっき頂いたお金ですが……、どうしても私の気が咎めてしまうので……、すみません、やはりお返しします」
ハルに向かって深々と頭を下げながら、グレッチェンはお金を彼に渡そうとした。
「お前なぁ……」
「本当にすみません……。ご厚意の程には感謝していますから……」
ハルは困ったような呆れたような、何とも言えない微妙な顔つきをして、しきりに顎鬚を撫でていたが、「……分かった。その代わり、何か飲み物奢ってやるから、それ飲んで休憩してから帰れ。こんな暑い中、わざわざ来てくれたことへの駄賃だ」と、店の中へと手招きする。
グレッチェンは迷ったものの、断ってばかりなのもハルに申し訳ない気がするので今度は素直に言う事に従った。
「どこでもいいから好きなところに座って待ってろ」と言われ、グレッチェンがカウンター席に腰を下ろすと、すぐにハルはレモネードを持ってきてくれた。
それを受け取ると、グレッチェンは「ありがとうございます」と礼を述べ、おずおずと瓶に口をつける。ほのかに香る酸味が、からからに渇き切った喉を爽やかに潤してくれる。
「生き返っただろ??お前さんは昔と比べて丈夫になったとはいえ、暑さにやられて、帰りに倒れられちゃ困るしな」
「そんな大袈裟な。うちの店とラカンターの距離くらいなら大丈夫ですよ」
柄の悪さに似合わず、少々世話焼きなハルが可笑しくて、グレッチェンはつい薄っすらと笑みを零す。
「ま、今頃シャロンの馬鹿の方が心配しているかもな。俺よりあいつの方が、お前に対して過保護だし」
「…………」
シャロンの名を耳にした途端、グレッチェンの顔から笑みが見る見る内に消え失せていく。
「なぁ、グレッチェン。何でお前が殴られたんだ??さっきも言ったが、あいつ絡みの事なんだろ??別に話を聞いたところであいつを責めたり、ましてや殴ったりはしない。」
「…………」
しばらくの間、グレッチェンは口を堅く噤んでいたが、やがてぽつぽつと真相を語り始めたのだった。
6/3 21:45
文章を手直し及び、追加しました。
(すでに読んでいただいていた皆様、誠に申し訳ありませんでした)




