第十一話
シャロンが少女と交流を始めてから一か月が経とうとしていた。
午後十時過ぎになると、シャロンは自室に鍵を掛けた後(万が一、マーガレットが彼の部屋を訪れた時のことを考え)、屋敷の者に見つからないよう細心の注意を払いながら、少女の部屋へと訪れる。
扉越しに少女の名を呼び掛け、少女が現れると周囲を見渡した後、中に入る。
まるで人目を忍ぶ、秘密の恋人との逢瀬みたいだが、実際は少女に字の読み書きを教えたり、他愛もないお喋りに興じているだけで至って健全なやり取りを交わしているだけであった。
少女は字を教え始めた途端、水を得た魚のようにどんどん吸収していき、シャロンが貸した本も次々と読破していった。
元々賢い質の人間が知識を身に付けるとこんなに成長するものかと、シャロンは内心舌を巻いたものだ。
そして、今夜もシャロンは少女の部屋の前に立ち、「アッシュ、私だよ」と声を掛ける。
だが、返事が返ってこない。
もしかして、今日はすでに寝てしまったのだろうか。
ドッターン!!
突如、部屋の中から人が倒れたような激しい物音が響いてきた。
何事が起きたのか、と部屋の扉を勢いよく開けたシャロンは、部屋の中の光景を目にすると言葉を失った。
ベッドのすぐ真下の床には一人の男が倒れている。
ベッドの上では少女が青ざめた顔で、全身をガクガクと震わせている。
よく見ると、少女の寝間着の胸元がはだけていた。
少女の身に何が起きたか、一瞬にして想像がついてしまったシャロンは、これまで感じたことのない、激しい怒りに駆られた。
胸の内で、烈火の如く燃え盛る激情のままに、床に倒れ込んでいる男の許へ足早に近づていく。
「貴様!!この娘に何をした!!!!」
今にも殴り掛かりそうな勢いで男の胸倉に掴みかかる。
同時に、男が身体に異常をきたしていることに、気付く。
男は白目を剥いたまま、全身をピクピクと痙攣させていたのだ。
意識は辛うじて残っているようだが、声帯も麻痺しているようで喋ることさえままならない。
男の異常な様子がシャロンに冷静さを取り戻させた。
(そうだ……、こいつよりもアッシュの方を……!)
シャロンは男を床に放り出すと、まだ震えが収まらないでいる少女の許へ駆け寄った。
少女はシャロンの顔を見るなり、明らかにホッとした様子で表情を緩めた。
衣服は乱れているもののどうやら未遂で終わっていたようで、シャロンは心の底から深く安堵した。
しかし、少女の口元が唾液でべとべとに汚れていることに気付くと、すぐにその思いは取り消された。
まだ十代前半の少女にしてみれば、唇を強引に奪われ、咥内を蹂躙されることは強姦と同義だろう。
シャロンはシャツの胸ポケットからハンカチを取り出すと、少女の口元を丁寧に拭いてやった。
少女は大人しくされるがままになっていたが、やがて耐え切れなくなったのか、淡い灰色の瞳から大粒の涙をボロボロと零し始めた。
さすがに唾液で汚れたハンカチで拭き取るにはいかない。
シャロンは自らの手の甲で少女の涙を拭ってやった。
「ありがとう……、ございます……」
少女は、小さな声でシャロンに礼を述べる。
「すまない、アッシュ。私がもう少し早くここに来ていれば、君をこんな酷い目に遭わせずに済んだのに……」
声を震わせて謝罪するシャロンに、少女は激しく首を横に振ってみせた。
ふと、シャロンは倒れている男に視線を向ける。
服装からして、この屋敷の使用人ではなさそうだ。
厳重な警備を掻い潜って屋敷に入り込むのは至難の業だし、失礼な話、少女の痩せ細った、不健康極まりない姿に性欲が湧くなど、同じ男としてどうにも腑に落ちない。
おまけに、強力な毒でも盛られたかのように、身体に異常を起こしている。
「アッシュ、この男に一体何が起きたんだ??」
不躾も承知の上で少女に尋ねてみる。
「……私も、分かりません……。ただ……、私の口の中に……、舌を……」
「やっぱり答えなくていい。君にとっては辛い事だろうから」
少女は再び首を横に振る。
「いいえ……、大丈夫、です……。……私の口の中に舌を差し入れてきた際……、急に泡を噴いて苦しみだして……、床に倒れてしまったんです……」
「何だって!?」
少女の言っている言葉の意味が全く理解できない。
要するに、彼女の唾液が体内に入ったことでこのような症状を引き起こした、ということなのだが、ただの唾液に毒物のような効力を持つなんて見たことも聞いたこともない。
もしかしたら、男に襲われたことで頭が混乱しているのでは……、と疑いを持ち始めた矢先、部屋の扉が静かに開いた。
シャロンが恐る恐る振り返るとそこには、金縁眼鏡を掛けた初老の紳士――、レズモンド博士と、彼の従僕である屈強な体格の男が佇んでいたのだった。
「おや、シャロン君じゃないか」
「……は、博士……」
「この様子だと、アッシュと随分懇意にしているようだね。マーガレットが知ったら、さぞや嫉妬して、癇癪を起こすだろうに」
遂に、レズモンド博士に少女との付き合いを知られてしまった。
これで、自分は終ったな……、シャロンは覚悟を決める。
「まぁ……、このことはマーガレットには内密にしておくよ。私も愛娘が傷つく顔を見たくないのでな」
博士の意外な言葉に、シャロンはひどく拍子抜けしたと同時に、一体何を企んでいるのかと、逆に戦々恐々とした気分に陥った。
「そうだ、ついでと言っては何だけれど、君に良いものをお見せしようじゃないか。ブルータス、あれを」
博士に呼び掛けられた従僕は、手にしていた小型トランクを博士に向かって開く。
中には、二本の注射器と空の薬瓶、不気味な青緑色をした薬品が入った小瓶が収められていた。
博士は注射器を一本手に取ると、少女の方へと向き直る。
少女は恐怖に打ち震えながらも、足が竦んで身動き一つ取れずにいる。
怯える少女に構わず、博士は強引に腕を引っ張り、袖を捲り上げる。
少女の腕には無数の注射痕が残されていた。
「アッシュ。『宝』を打つのは後だ。まずは血抜きを行う」
博士は少女の腕に注射針をブスリと挿し込むと、筒を少しずつ押し引きながら血を抜いていく。
深紅の液体が半透明の筒の三分の一までくると、博士は針を引き抜く。
その後、トランクの中から空の薬瓶を取り出し、空の薬瓶に血液を移し替える。
「さてと……」
博士は薬瓶を手にしたまま、まだ倒れている男の傍まで近づくと、彼の口の中へ少女の血液を流し込んだ。
博士の一連の行動を終始気味悪げながらも、黙って見守っていた(それより他に成す術がなかっただけだが)シャロンは、次の瞬間、俄かに信じがたい光景を目にすることとなった。
白目を剥いていたはずの男の瞳がカッと見開いたかと思うと、地上の上に投げ出された魚のごとく、倒れたままでその身を激しく上下に跳ねさせる。
しばらくその動きを繰り返した後、急にガクッと動きが止まり、口の端からツーっとだらしなく涎を垂れ流してピタリと動かなくなってしまった。
「シャロン君、あの者の脈を測ってきてごらん」
博士の言葉に従い、シャロンは男の手首を手に取り、首にも手を押し当てる。
顔を見れば、瞳孔が開ききっている。
「……すでに、彼は事切れています……」
これは立派な殺人ではないか。
医学に携わる者としても、一人の人間としてもレズモンド博士を尊敬していたシャロンは、非人道的な彼の行為に多大なショックを受けた。
同時に、少女の血液を口にして男が死に至った事に対しても、激しく混乱を起こしていた。
「ふむ、やはり予想通りだ」
全く驚きもせず、むしろ事実確認が取れた、というような博士の口ぶりに、「……博士、アッシュの身に何が起きているのですか?!」と、シャロンは彼に問い詰める。
「シャロン君、落ち着きなさい」
「これが落ち着いていられますか?!」
「落ち着け、と言っているんだ。次の実験を見れば答えはおのずと分かる」
心なしかシャロンを見下げた口調で彼を制すと、博士は血抜きに使った注射器を床に投げ捨て、もう一本の注射器に青緑色の薬品を筒の中へ流し込む。
「ブルータス、アッシュを押さえていろ」
博士の言葉に従い、従僕は少女の身体に馬乗りになってベッドに押さえつける。
「博士!おやめください!!アッシュは貴方の実の娘でしょう?!」
「この娘を産んだせいで妻は死んだのだ。私から妻を奪ったその罪滅ぼしとして、私の『宝』達の実験体となってもらっている」
「……宝とは??」
「私が趣味で集めている毒薬だよ。致死に至らない程度に、こうしてアッシュに毒を注入しては反応を試している」
「何てことを……!博士、貴方には人の心というものがないのですか?!」
「そうそう、最近気付いたことだが、幼い頃から様々な毒を与えられてきたからか、アッシュは毒への耐性が非常に強くなったのだ」
シャロンの非難に一切耳を貸さないどころか、レズモンド博士は何処か楽しそうに語り続ける。
「それだけじゃない。アッシュの唾液には軽度の毒性、血液には強力な毒性反応が示されるようになったのだよ。だから、適当な浮浪者に金を握らせて屋敷に引き入れ、アッシュを襲わせた。唾液、もしくは血液を体内に取り込んだ時の反応を確認したかったからね。そしたら、思った以上に良い結果が得られたよ」
「……良い結果??」
「アッシュの血液はごく少量でも、充分殺傷能力を持つということだ。あの僅かな量ならば体内にすぐ吸収されてしまうから、証拠も残らない。彼女はまさに生ける毒物となったのだ」
一通り語り終えたレズモンド博士はアッシュに向き直る。
「さぁ、実験を始めようか」
「博士、やめてください!!」
シャロンは注射器を持つ博士の腕を掴み、必死で少女への毒物注入を阻止しようとした。
しかし、空いている方の肘で鳩尾を力一杯り突かれ、思わずよろめいた弾みで床に尻餅をついてしまう。
その隙に、博士は素早く少女の腕に注射針を挿し、毒物を注入し始めたのだった――




