第十話
宵の口がとっくに過ぎた深夜、屋敷の人々が寝静まったのを見計らい、シャロンは再び少女の部屋の前に佇んでいた。
一冊の本を手にして。
あの後--、憤りながらその場から去っていくマーガレットの後を追っていると、この本が廊下に落ちているのを発見したのだ。
本の題名や装丁からして児童書だと思われる。
きっと少女の物に違いない。
マーガレットに気付かれないようサッと本を拾い上げたシャロンは、人々が寝静まった、夜遅くの時間帯に少女の元へ本を返しに行ってやろう、そう心に決めたのだった。
シャロンは音を立てずにそーっと静かに扉を開ける。
予想通り、部屋の灯りは消えており、少女はすでに眠っていた。
天蓋付きの大きなベッドの上から、微かに規則正しい寝息が聞こえてくる。
強盗か、はたまた夜這いを掛けにきたみたいで気が引けないでもないが、眠っているところを無理矢理起こすのも可哀想だし、万が一騒がれでもしたら、どちらにとっても不都合が生じる。
だから、こっそりと枕元に本を置いたらとっとと退散しよう。
そんなことを考えながら、ベッドのすぐ傍まで近づいたシャロンは眠っている少女の寝顔を目にする。
相変わらず、暗がりの中でも分かる程に顔色は冴えないが、とても穏やかな寝顔をしている。
昼間の怯えきった顏との落差に、シャロンは柄にもなく思わず和み、つい、優しい手つきで少女の頭を撫でてしまった。
すると案の定、少女はぱちりと目を開けてしまったのだ。
少女は慌てて飛び起きると、警戒心を剥き出しにさせて両手で掛布にしがみつく。
目を覚ましたら、枕元に見知らぬ人――、それも若い男が立ち尽くしていたのだから、当然と言えば当然の反応である。
「あ……、いや、その……。すみません、こんな夜遅く勝手に貴女の部屋に侵入しただけでなく、お休みになられているところ起こしてしまい、重ね重ねの非礼、心よりお詫びいたします。私は、ただ、この本を貴女に返しに参っただけですので……」
狼狽えながらシャロンが本を差し出すと、少女は奪い返す勢いで彼の手から本を取り上げる。
そして、それはそれは大事そうに、本を両腕でギュッと胸に抱きかかえた。
きっとこの本は、とても大切なものなのだろう。返しに行ってあげて本当に良かった。
「……あ、あの……。……昼間のことといい、こちらこそ、重ね重ね……、ありがとうございます……」
絞り出すような、か細い声で、少女はシャロンに礼を述べる。
「いえ、礼には及びません。随分と読み込まれているようでしたし、今のご様子からして、貴女にとって余程大切なものだったみたいなので、お返しして正解でしたね」
ニコリと微笑みかけるシャロンにつられて、少女も控えめに笑い返す。
笑っているのか、泣いているのかよく分からない、ぎこちないばかりの下手な笑い方だったが、初めて見せてくれた少女の笑顔にシャロンはちょっとした感動を覚えた。
「……実は、この本は、お姉様が何かの折にご機嫌を損ねてひどくお怒りになっていた時、階段から投げ捨てたものの一部で……。はしたない真似だとは思いましたが……、どうしても本を読んでみたくて……。丁度、この本と共に子供向けの辞書も捨ててありましたから、こっそり拾ったのです……。勉強どころか、字の読み書きすらもまともに教えてもらっていなかったので、まずは辞書で言葉を覚えてから、この本を読み始めました……」
またもやシャロンは衝撃を受けることとなった。
レズモンド家程の良家の子女であれば、識字できて当然であり、それどころか幼少時から家庭教師が付けられ、みっちりと英才教育を受けて育つはず。
それなのに、この少女はこの歳になってもまともな教育を受けていないと言うのだから。
もう一つシャロンが驚いたのは、教育を受けていない少女が独学で字を覚え、児童書とはいえ、本を読むことが出来るようになったこと。
きっとこの少女は大変な努力家で、本当はとても賢い娘なのかもしれない。
シャロンは、少女に対して一気に好感を抱いた。
辛い境遇に置かれている中にあってもただ嘆くばかりなだけでなく、彼女なりに自分を成長させようと必死な姿に強く心を打たれたのだ。
「貴女は、本を読むのがお好きなのですね」
「……はい。でも、まだ、ようやくこの本を一通り読み終えることが出来たばかりですが……」
「リトル・レディ。宜しければ、今後、貴女がより多くの本が読むことができるように、私が字や勉強を教えようと思いますが、如何でしょうか??」
少女は驚き、淡い灰色の瞳を思い切り見開くと、瞬きもせずにシャロンを食い入るように見つめる。
「……貴方は、一体……」
「申し遅れました。貴女の姉上、レディ・マーガレットの婚約者、シャロン・マクレガーと申します」
「……お姉さまの……??初めて聞いたわ……」
やはり、少女は何も教えられていなかったようである。
シャロンの胸の奥がチクリと痛む。
「つまり、私にとって貴女は義理の妹に当たる方ですので、大切にするのは当然のことだと思っての事です。勿論、貴女がお嫌であれば……」
「……いいえ!!」
シャロンの言葉に被せるように、少女は語気を荒げて否定の意を示す。
「嫌だなんて……、むしろ私は嬉しくて堪らないのです……。こんな私に、親切にして下さる方は初めてで……。こちらこそ、ご迷惑でなければ、色々と教えて下さいませ!!」
ベッドにちょこんと座ったまま、少女はシャロンに向かって深々と頭を垂れた。
こうして、シャロンとグレッチェンは屋敷の人々の目を掻い潜り、人知れず交流を始めたのだった。




