第一話
黒檀で作られた細長いカウンターの奥には、年季が入った大きな焦げ茶色の棚が三つ置かれている。どの棚も段は五つ。段ごとに、成分別もしくは効能別に薬瓶が細かく分類され、隙間なく並んでいる。
「カナビスチンキが切れたから、新しいのをおくれよ」
二十代後半と思しき女が、カウンターの中に佇む店員に声を掛ける。
店員は慣れた手つきで、真ん中の棚の三段目からカナビスチンキの薬瓶をサッと取り出す。
「最近、また月経痛が酷くてねぇ……。これがないと辛いんだ」
代金を支払いながら、女はやや疲れた顔をして話す。
「ただ、カナビスチンキは劇薬で、使い過ぎると人体に悪影響を及ぼしますから、乱用は絶対に止めて下さいね」
「あんたは親切だよねぇ。他の薬屋ならそんなこと一言も伝えやしないんだから」
「いえ……」
「ま、これでしばらくは月経痛を緩和できて助かるわ。ありがとう、グレッチェン」
女は薬瓶が入った袋を手にし、空いている方の手を上げて店員――、グレッチェンに礼を述べると店を出て行った。
一人になったグレッチェンは、壁に掛かった時計を振り返って眺める。時刻は三時を回っている。
夕方から夜中にかけて活気づく歓楽街の薬屋、ということで、この店の営業時間は正午から夜遅くまでだ。その営業時間内に顔を出してくれるならば問題はない。
(……でも、放っておいたらずっと寝ている可能性も大なのよね……)
今度は天井を仰ぎ、グレッチェンはフゥ、と息をついた。
アッシュブロンドの髪を肩に掛からない長さ、いや、肩より随分上で無造作に切り揃え、真っ白なワイシャツとサスペンダー付の黒いズボンを纏ったグレッチェンは、性差が余り感じられない細身の身体付きや理知的な顔立ちも相まって、一見すると小柄で華奢な少年に見える。
だが、高めではあるが落ち着きのある声や、シャツの胸元の控えめな膨らみにより、彼女と接した者はすぐに女性だと気付くけれど。
そのグレッチェンが先程からしきりに気にしていることーー、この店の二階に住む店主がちっとも店に下りて来ないことだった。大方、昨夜は酒場で飲み過ぎて二日酔いに苦しんでいるか、街娼としけこんで体力を使い切ってしまったか、もしくはその両方か。
店主が店にいなくても、グレッチェンは一通りの仕事をこなせるので別に何の問題はない。
しかし、病気や身内の不幸、その他事前に何らかの用事とかでもないのに仕事をサボるなど、言語道断である。店主に言わせれば、『君は少々堅物すぎるよ』とのことだが、グレッチェンにしてみれば、『貴方がだらしないだけです』となる訳だ。
グレッチェンは、一旦店の玄関の鍵を閉める。
そして、店の奥へ引っ込むと店主の住む二階へと続く階段を静かに駆け上がり、部屋の扉を叩いた。
「シャロンさん、もうすぐ三時半になります。店はとっくに開いていますし、お客も何人か訪れています。いい加減、起きて下さい」
穏やかで淡々としているのに、妙に威圧感を含んだ声色で、グレッチェンは扉越しに声を掛ける。返事はない。
グレッチェンは、部屋の主に聞かせるかのようにわざと大きく溜め息を零すと、「……失礼します!」と、問答無用とばかりに中に押し入った。
床の至るところに、クシャクシャに丸めた書き損じの紙、医学書や薬学書、脱ぎ散らかした衣類が散乱し、あげくはジンやラム、エールの酒瓶なども大量に転がっている。机の上も床と同様の物達が占拠し、山のように積み上げられている。
確か、つい一週間前、強制的にグレッチェンが部屋の片づけを行ったというのに、どうすれば短期間でこんなに散らかすことが出来るんだろうか。
(……ある意味、才能よね……)
グレッチェンは呆れる余り、額に手を押し当てて無言で嘆くもすぐに頭を切り替え、ベッドにまだ伏している店主に向かって、さっきよりも厳しい口調で言い放った。
「シャロンさん。私が一〇数える間に起きなければ、その引っ被っているシーツを剥ぎ取ります。いーち、にーい、さーん」
それでも、店主は起き上がる様子が微塵もない。その間にも、グレッチェンはどんどん数字を数え上げて行く。
「きゅーう、じゅ……」
「……グレッチェン、私は子供じゃないんだぞ……」
ようやく被っていたシーツを捲り上げ、黒髪で涼しげな顔立ちの優男――、シャロンがよろよろと緩慢な動きで起き上がった。
「シャロンさん、サッサと身支度整えて店に下りてきてください」
腕組みをしながら、グレッチェンは淡いグレーの瞳で、シャロンのダークブラウンの瞳をじっと見据える。
「反論や言い訳は結構です」
「…………」
ぐうの音も出ない、と言った体で、観念したシャロンはベッドから抜け出す。
「私がいては着替えにくいでしょうから、先に店に戻ります。一〇分以内に来てくださいね」
「分かった、分かった……」
クローゼットの中から服を探し出しているシャロンを尻目に、グレッチェンは彼の部屋を後にしたのだった。