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マーヤは棚に皿を戻して胸を撫で下ろす。
「どうして知りもしない男に顔を見せ、名前まで名乗るんですか!」
「別にいいじゃない。何となくよ、何となく。それにミアが言ってたのよ」
ミアはマーヤの店で働く十五歳の少女だ。仕事はしっかりやるが、少々夢見がちな所がたまに傷である。
「悪い男から助けられて恋に落ちるのが王道だと言っていたわ」
ジーナはマーヤの言葉を聞いて呆れた顔をしてため息を吐いた。こめかみを指で押さえ、マーヤにしっかり聞かせるように語調を強めながら言う。
「だからってそれはお嬢様が恋に落ちる条件であるだけで、相手はもう忘れているかもしれませんよ?」
「でもいいじゃない。名前も顔も教えたんだもの。また会えたら面白いなと思っただけよ」
初恋もまだしていないマーヤはとりあえずミアが言う様な恋をしてみたいのだ。初恋くらい、自由でもいいではないか。駆け落ちもいいかも、とついマーヤが言葉をもらすと──
「それだけは駄目です!」
ジーナの大声に、マーヤは危うく持っていた鏡を落としそうになる。
「ミアが駆け落ちは誰しもが一度は憧れる恋の逃避行だって言ってたもの」
「絶対許しませんからね。逃避行するなら私もお連れ下さい!」
そこにこだわっていたのか、とマーヤは嘆息する。マーヤは持っていた鏡を戻し、苦笑を零した。
「でも駆け落ちもあたしには無理ね。お店をたたみたくはないもの」
「お嬢様……」
自分だけの力で店を始め、大きくしてきた。マーヤにとって店は命の次に大事なものだ。それを、簡単に無くしたりはしたくない。
ジーナもそれを良く理解してくれていている。だからこそ、今回の結婚に、ジーナも賛同しないのだ。
「それに、第三王妃って皆言うけど、結局はハレム入りよ」
ハレムとは王の愛人達を囲う場所だ。
「でも今の王様はハレムを作っていないそうですよ? だから第三王妃ときっちり立場をつけているそうです」
「そうかしら? もし本当だとしても、そのうち作るわ」
「何を?」
すぐ後ろから声がかかり、びっくりしてマーヤとジーナは振り返った。
ターバンを巻いた、黒に近い濃い茶色に鳶色の瞳。まさかついさっき助けてくれた男?……と思ったが、鳶色の瞳はわりと良くある色で、しかも瞳の色以外の特徴がないから判断のしようがなかった。
と、いうか──
「誰?」
「アスラン、お客様にはまず挨拶じゃ」
この店を取り締まる老商人サムが店の奥からやってきた。
アスランと呼ばれた男は軽く笑ってマーヤに頭を下げた。
「これは失礼しました、お客様。俺は最近ここで雇われたアスランです」
「サムさんが雇ったの?」
マーヤがサムとアスランの顔を交互に見比べた。
「商人になりたいと言っていましてな」
「商人に?」
マーヤがアスランを見て問いかけると、アスランは少し照れ臭そうに笑った。
「一回やって見たかったんだよな、商売ってのを。どうやって金が動いて、どうやったら利益になるか」
アスランが言うと、サムが困った様に続けた。
「だけど困った事に、わしの店はそんなに儲からないんで、教えてやれる事が少ないんですよ。本当に商売を知りたいのならお嬢様の様な大きな店じゃないと……」
「それは、つまり……」
何となくサムが言いたい事がマーヤにもジーナにもわかってきた。
「お嬢様の所でこいつを雇ってほしいんじゃ」
やっぱりそういう話へと行くのか。
マーヤの店は意外と、というか結構繁盛していた。国で指折りの店なのだ。
だから自分の息子や甥をマーヤの店へ働かせたいと言ってくる人は少なくない。
しかし、サムの様に最近知り合ったばかりの男を紹介してくる事は珍しいのだが。その短期間でサムの信頼を勝ち取ったという事になる。もし本当なら、別に雇ってもいいとマーヤは考えた。
「どうします? お嬢様」
「そうね……まあ、いいわ。雇いましょう」
商売はできなくても、見目は良い男だし、客寄せくらいにはなる。
「でもいいの? 働き手がいなくなるわよ?」
「なに、こんな小さな店くらいわし一人で十分だ」
陽気に笑うサムにつられてマーヤも笑った。
「わかったわ。えーと、アスラン? ここから少し行った所にあるお店だから準備ができたら来てちょうだい。お店がわからなかったら詳しい場所はサムさんに聞いて」
それだけ言うと、マーヤはジーナを連れて店を出た。通りすぎる店達を横目で見ながら、自分の店へと向かう。
「あ、お嬢様!」
店の前までやってくると、ぺこぺこと頭を下げながら青年がマーヤに近づいてきた。年は若いが、長年この店に勤めている。
「おかえりなさい。実はコムルの旦那がいらして、ガラスを見てほしいそうです」