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お互いの前髪が触れ合いそうなほど近く、見つめあったままアスランは言葉を紡ぐ。
「……ごめん。まだこんな事するつもりじゃなかったんだけど、つい」
「い、いいの。気にしないで」
混乱してそんな事を口走り、アスランが少し笑って首を傾げた。
「本当に?」
「本当に!」
尚も疑うアスランにマーヤは言葉を重ねると──再度口づけされた。
すぐにまた離れた彼は、悪戯っぽく笑う。
マーヤは何が何なのかわからず、ようやく頭に理解が追いつくと、ぼんっと顔が真っ赤に染まる。
「なななぜまたするの!?」
「だって気にしないって言うから。それならもっとしても良いのかと思って」
「馬鹿じゃないの! 馬鹿じゃないの! 馬鹿じゃないのっ!!」
体中が熱せられ、自分の心音が二段階早くなる気がした。
どくどくと脈打つ音が、耳からも直接聞こえて来て落ち着かない。彼の胸板に手を当て、そのまま腕を突っ張って距離を取る。
「あたしは、まだあなたの妻になっていないのよ! な、なるつもりもないわよ!?」
「そんなに俺の妻になりたくないの?」
「……っ」
心底、この男はずるいと思った。
なりたくないなんて、マーヤは思ってはいない。──むしろ、彼の横にいたいと願ってしまう。そう思わせられてしまう。
「その言い方は卑怯よ!」
「ごめん。でも、なるつもりはないって言われると傷つく」
「それはっ……、そう、だけど……。あなたもう奥さんいるじゃない。私は結婚なんてしたくないのよ」
マーヤは三番目の花嫁。マーヤよりも身分の高い女性が、二人も彼の側にいる。自分以外に彼が優しくする所を見たくない。
それに、マーヤは根っからの商人だ。いずれは国を回り、ここぞと決めた場所で店を構えるのが夢。──たとえそれが、貴族の娘として許されないことでも。
「なぜ妻がすでに二人もいるのに、更に君を嫁がせようとしているか、知っているか?」
「え?」
「一の妃とはお互い政略結婚で、そりが合わなくてさ。仲が悪いんだよね。その次に迎えた二の妃は、内政の事情から選んだのだけど、高慢で、うるさくて。……一緒にいると疲れる」
彼はふうと息を吐いて、言葉を続ける。
「二人の妃と仲が悪くて、会うと険悪な雰囲気しか出さないものだから夜も渡りにくくて、即位してからもう五年も経っているのに、いまだに世継ぎはいない。それを良く思わない母は、君を選んだ」
なぜ、アスランの母がマーヤを選んだのかは知らないが、確かに必要な世継ぎがいつまでも作れないなら、更に妃を迎えるしかない。
「……この国にとって、世継ぎがいないのは一大事だわ。あなたはまだ若くても世継ぎがいるのといないのとではやはり違うものね」
話はわかる。決して他人事ではない。マーヤは喜んで嫁ぐべきだ。拒否する事は許されない。──だが、それでも。
「でも私は貴族の箱入り娘では嫌なの。色んな事を経験したいし、色んなものをみたい」
自分の世界をもっと大きく、もっと広げたい。狭い中で行きたくはない。
「裕福な生活も、きらびやかな場所もいらない。質素でも、貧しくても、あたしはあたしでいないと嫌なの。……あなたは、あたしの願いが叶えられる?」
これは貴族の娘だからこそのわがままだ。
貴族としての責務を果たさず、ただ自分が思うままに行動している。王族に入ろうと躍起になる人らに比べると自分はなんて強欲で恥知らずなのか。
しかしアスランは王としてではなく、一人の男としてマーヤと対峙している。何者でもない男と女なら、マーヤは今の言葉に嘘偽りなどかけらもない。
「君は、難しい女性だな」
「面倒くさいでしょ?」
マーヤはにっこり笑ってみせる。
面倒くさいのは百も承知。マーヤは貴族としての身分など捨てられる。
しかし、アスランには無理だろう。王に国を捨てさす訳にはいかない。
「あなたと結婚したくない訳じゃない。むしろ、結婚するならあなたが良い。……だけど、あたしには願いがあるのよ」
諦めれない、諦めたくない願いがある。そんな思いをこめて彼に視線を向ければ、アスランは笑顔を浮かべた。
「いいよ。君の意思を尊重する。どんな決断にしても、俺は味方だ」
でも、と彼は優しい言葉の後に続けた。
「俺は俺で君を説得するよ」
それまで以上ににっこりと不敵な笑みを浮かべて言われ、言葉を理解するまで時間がかかった。
「……な、なにを言ってるの?」
ぐ、と腕を引かれて、彼の顔がすぐそばまで迫った。
「ん?」
離せ、とマーヤが言いたいのを見透かしているのか、アスランは艶っぽく笑った。
「なにって、これからの事を宣言しておこうかと思って」
「こ、これからのこと?」
顔が近い。間近にいる彼を意識してしまって、うまく言葉が紡げない。それをわかった上でやっているのだろうアスランは、緩やかに笑みを浮かべている。
「君の意思は尊重するよ。だから、君が心変わりするように俺も努力する」
「はあっ?」
思わす素っ頓狂な声をあげてしまうと、アスランはマーヤの腕を引いて更に顔を寄せて来た。
赤面するマーヤに対して、アスランは悪戯っぽく笑っているだけで、なんだか腹立たしい。
「ちょっと……、近い!」
彼の胸板をぐいぐい押すが、びくともしない。
俯いて、なんとかこの状況から抜け出そうとひたすら胸板を押して距離を取ろうとする。




