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声のした方へ顔を上げるとアスランがいた。
彼は立ち上がり、息を荒くする男に鋭い視線を向けて腰にさしていた剣をするりと引き抜く。
ぞわり、と。全身が冷たくなった心地がした。
正気を失っている男よりも、その男に対して殺気を放っているアスランの方が恐ろしく思えてしまう。
しかし、先程のような恐怖は不思議と感じない。ただ冷たい。痛い。剣を男に向けて裁きながら見事なまでに打ちのめす彼は、勝っているはずなのに、瞳は泣いていた。
──否、悲しくてたまらないと叫んでいた。
「もう大丈夫だ。怪我はないか?」
しゃがみこんだまま呆然と成り行きを見ていたら、気絶した男を地面に放置して、こちらへ手を差し出した。
安心しろと言わんばかりの笑顔。だけど、やっぱり瞳は曇っていた。
「……ありがとう」
差し出された手を、そっと握って自分の額に当てた。自分の心が、伝わるように。
「マーヤ……?」
「ありがとう、守ってくれて。あと、悲しい事をさせてごめんなさい」
直感してわかった。彼は、剣を振るう──人を傷つける事が好きではない。
剣を使っての戦いになると、手加減をするのも難しいはずだ。今回は上手く気絶させることができたが、相手を必ず殺さないという保証はできない。
「大丈夫だ。奴は死んでない」
でも、と続けながら彼はマーヤの手を握り返した。
「ありがとう」
酷く子供じみた表情をしている彼に、マーヤは思わず見とれてしまった。嬉しさを隠したいが為に困った顔になってしまった、というような。
理解されて嬉しかったのだろうか。
暫くそうして見つめ、やがてカタンと小さな物音がして、アスランはため息をついた。
「……おい。いい加減に出てきたらどうだ」
いつもの表情に戻った彼はマーヤを立ち上がらせながら、マーヤ以外への人物に向けて言った。
しかし、しんと静まり返った路地には、アスランとマーヤと気絶した男の姿しかいない。
「……出てこいと言っているのが分からぬのか、カダラ!!」
呆れた表情に僅かな怒りを混ぜて怒声を飛ばすと、すぐにガタガタン!と大きな音がして、黒装束の青年が小走りでアスランの前に姿を現した。
ささっと自分の衣装の崩れを直し、地面に片膝をついて礼をとる。
「お、お気づきでしたか」
「当たり前だ。菓子屋辺りからついて来ていただろう」
見知らぬ怪しい男にそう話しかけているアスランを、マーヤは首を傾げながら見ていた。
「さすがですね、よくおわかりで」
「何の用事だ」
「大臣方が呼んでいます。すぐにお戻り下さい」
「めんどくさい奴らだな」
ふう、とため息をつくアスランを、マーヤはぽかんと口を開けていた。
──今なんて? 大臣?
大臣なんてそう簡単に庶民が会えるものではない。ましてや大臣から呼ばれるだなんて、もってのほかだ。
「ちょ、ちょっとアスラン。大臣って何よ。呼ばれたって?」
「俺、一応王様だから」
──は?
思考がぴたりと停止する。
何を言われたか理解できない。今、一番聞くはずもない言葉を聞いてしまった気がする。
「へ、陛下! そんなに簡単に素性を明かしてはなりません!」
「俺が世話になっている店の店主だ。事情を知っていた方がいいだろう」
目の前で話し合う二人の言葉を、マーヤは何一つまともに理解出来ないでいた。
そんなマーヤの様子に気づいたカダラは一度口を止めて、それからアスランに話しかけた。
「ほら、陛下。彼女真っ白になっちゃってますよ」
「仕方ないな。だから俺がこの国で王様やってるんだってば。まあ、いきなり王様って言ってもこんな俺が、なんて混乱するのは仕方ない」
──そんな理由で混乱しているんじゃない。だって、彼が王様なのだとしたら。
つまり、マーヤの婚約者が彼だと言う事になる。
「え、じゃあアスランが婚約者なの?」
「……ん? なにがだ? 誰が誰の婚約者だって?」
逆に首を傾げられ、マーヤは更に混乱した。もしかして父が、王を自分の婚約者などと嘘を言ったのだろうか。
しかし、そんな嘘をついたままの人物でない事は確かで、王の名前を使って有り得ない事を言う人物でもない。
「あなたが……、あたしの」
婚約者なの?と続けようとしたが、かすれてしまった。王の顔を民は見る事が出来ない。それはたとえ大臣の娘であるマーヤも同じだ。
一気に自信がなくなってきた。
もしかして、これは間違っていたら不敬罪にならないだろうか。
相手が王なのかも信じきれず混乱していると、目をこれでもかと言うほど開いて驚いているカダラに気づいた。
「へ、陛下、知らなかったのですか? ではこの方を誰だと思っていたのですか」
「誰? 街で指折りの有名店の若い女店主、じゃないのか?」
あっているが、聞いているのはそんな事じゃない。
そう言いたげなカダラの表情を見て、マーヤはやはり自分が王の婚約者だという事を確信する。
まごまごするカダラに苛ついてきたのか、アスランは彼を軽く睨み、説明を要求していた。
「マーヤ・サシェカル。サーハルジアの第二大臣サフスの一人娘よ。そして、あなたが本当に王様ならあたしの婚約者だわ」