第三章 姉と弟 【1】
作戦会議から明くる日の夜。僕は単独でこっそりとローレシーク邸を歩く。口には小さく折りたたまれた紙切れ。
「セイルくんの了承を得てから」
主が降霊術を引き受けた際の条件だった。それを、エルザたちはあっさりと呑んだ。
「どのみちセイル様と話さなきゃ進まないからな」
降霊術に必要な術具は、ほぼ揃っていた。だが、決定的に足りないものが一つだけあった。それは、故ローレシーク卿の持ち物。
「セイルの首飾り、知ってるだろう」
月と星を模した銀細工の首飾り。
「あれは領主殿がセイルの母君に送ったものらしい。それがこの屋敷で彼にまつわる唯一の持ち物さ」
ジンガの言葉を、主と僕は信じられなかった。いくらなんでも、それは大げさだろう。
「間違いなく、ジンガの言うとおりだ」
エルザもあっさろと肯定した。
「母上の命令でな、父にまつわるものは全て燃やされたんだ」
服も書物も。何もかも全て。彼専用の食器までもと言う徹底振りだったそうだ。女の怨念て恐ろしい。つくづく僕はそう思った。
「元々夫婦仲は冷め切っていたが、私への例の発言で母上の父への愛情は完全に冷め切ったらしい。復讐の代わりだったんだろう」
「でも、エルザ様のは? お父さんから贈られた物が一つくらい有るよね? 有るんだったら、いくらお母さんの命令だからって捨てはしないよね」
主の訴えるような問いかけを、エルザは苦い薬を飲まされたような顔をした。何となく、分かった。
父娘仲もかなり冷え切ったものだったようだ。ジンガが語った過去の話を聞いたときも薄々感づいていたが、領主は娘に対しても特に愛情を持っていなかったんだな。
主は合点がいかないらしく、まだ不服そうに口を尖らしている。
「直接セイル様に交渉出来ればいいんだろうが、今日明日は無理だろうなぁ」
「あぁ、今晩は爺達が部屋から出さないだろう。それに母上に命じられてしまった。当分アレを部屋より出すな、と」
セイル失踪騒動は結構な騒ぎになっていたらしい。それが正妻の耳にも入ってしまっていたようだ。昼間のエルザ呼び出しの件はこれについてだったのか。
「そんな訳で、忠実なる使い魔ラースよ。お前の出番だ。俺達の役に立つのだ」
話し合い後半から、僕は嫌な予感しかしなかった。まぁ、たぶんこうなるだろうなとは思ったさ。
ため息を零したい気持ちを抑えながら、僕は隠れながら廊下を進んでゆく。
前方から使用人が歩いてくるを見かけ、飾られていた大きな壷の後ろで縮こまる。使用人が通り過ぎるのを見計らって、すぐに駆け出す。階段を上り、セイルの部屋があるという最上階までたどり着く。
この階の構造はジンガに教え込まれた。セイルの部屋は左側の突き当たり。走る僕の姿を白い床が鏡のように映し出す。廊下に飾られた彫刻や絵画の存在を無視して進めば、だんだんと薄暗くなっていく。
本当にこっちで大丈夫なのか?
同じ階なのに、明らかに漂ってくる雰囲気が違う。燭台はあれど灯りは無い。掃除は成されているが、美術品の類が一切飾られていない。さっきまであんなにいろいろあったのに。
迷いが僕の足を止めようとするが、それでも僕は前に進む。ジンガ一人の証言ならきっと僕は引き返していただろう。だが、エルザもジンガの言う通りで間違いないと言い切ったのだ。
幸いこの通りを歩く使用人の姿は無い。僕はまっすぐに廊下を突っ切る。ようやく扉が見えた。その前に辿り着いて、僕は上半身を起こす。前足の爪を出し、硬い木製の扉を軽く引っかく。
ニ、三回ほど引っかいたところで、扉は小さく開かれた。
「……ラース? どうしてここに」
答えるより先に僕は部屋に滑り込んだ。
セイルは驚きつつも、すぐにドアを閉めた。鍵の落とされる音を聞き、ようやく僕は深く息をつけた。何とか第一段階完了だ。
次の段階に移るために、僕はセイルの足元にくわえ込んでいた紙を落とした。それを拾い上げ、いぶかしげにセイルが中を開く。
「リュノさんからだ」
目の動きで彼が文面を追っていることが分かる。座りこんでセイルの言葉を待つ。しばらくして、読み終えたセイルは僕にお礼を言ってくれた。
「手紙に書かれた道具、集めるよ」
セイルは手紙片手に、質素な衣装タンスの中を探し始めた。
改めてこの部屋を見渡して、僕は息を吐いた。まるで物置だ。床は家具が摩れた痕がそのままで残されている。おいおい、机が無いのか、この部屋。小さな木箱の上に、今晩のセイルの夕食が盆に乗せられて置かれていた。寝具は寝具でずいぶんと古いものだし、掃除もあまり念入りに行われてようだ。天井の角で蜘蛛が巣を張っていた。唯一の明かりは月の光だけだ。
これなら、僕達の家の方がよっぽど豪勢だ。よくあのおっさん達が何も言わないな。それだけ怖いんだろうなぁ、正妻は。
そう思いつつ、セイルへと視線を移せば、手紙で指示された物を全て集め終えたようだ。
ろうそくが四本。絵皿と水差し。羊皮紙。それと。
「銀の鎖は、これでもいいかな?」
首飾りを外し、セイルが尋ねてきた。
大丈夫だと僕は思う。伝わるかどうか分からないけど、一応そう答えた。
それが伝わったらしく、セイルが僕の頭を撫でてくれた。
「じゃあ、始めようか」
まずセイルは手紙に書かれた図形を羊皮紙に写し始めた。簡易的な術式だが、素人には難しいようだ。主が描いたものより、歪んだ図が出来上がった。それでも、初心者にしてはなかなか上出来な物だ。主がお師匠に習って初めて描いたものより巧いかもしれない。
セイルは羊皮紙を部屋の中央に置き首飾りを広げて図の円に重ねる。次に閉め切っていた小窓を開いた。軋んだ音を立てて窓は小さく開かれる。湿った夜風が部屋に吹き込む。
今宵は満月。星の光も手伝い、部屋の中は青白い空間となっている。なかなか神秘的な光景だ。セイルは特に感慨に耽るわけでもなく、羊皮紙の周りの四隅のそれぞれにろうそくを置き、しけったマッチ棒で火を灯した。
最後に図の上にパンを乗せていた皿を乗せ、その中にセイルは水差しで水を流し込んだ。月がその水鏡の中に映る。これで第二段階完了。
手紙を広げ、セイルが小さく深呼吸した。さぁ、これからが第三段階の始まりだ。
水鏡が波立っていないのを確認して、僕は小さく一声鳴いた。それを合図にセイルが手紙に書かれた文面を読み上げる。
「照らすモノ。繋ぐモノ。全ては鏡の中にある」
緊張気味に震えるセイルの声。無理も無いだろう。魔術を使うのが初めてだろうから。
皿に張った水が小刻みに揺れだす。合わせて水鏡の映し出すものが変化してゆく。それを見て、セイルの声が少し早口になる。興奮してるんだろうな。主も最初はそうだった。その度にお師匠に、落ち着けと叱られていたものだった。
僕が過去の思い出をめぐらせていると、セイル以外の人物の声が水鏡の中から聞こえてきた。主の声だ。耳を澄ませば、段々とその声が近くなっているのが分かる。よしよし、巧く発動しているようだ。
「さぁ、照らし映せ。汝は鏡。さぁ、繋ぎ導け。汝は路なり!」
呪文の最後の一節を主とセイルが読み上げた時、皿に盛られた水が噴水のように湧き上がった。セイルは驚き、その場で尻餅を着いた。僕は水の柱へ近づく。普通の水なら近寄るのもごめんだけど、この水なら平気だ。
しぶきを上げ、天井を突き破らんばかりに盛り上がる水は徐々に勢いを失っていく。そして、一気に水柱が崩れると、皿の上に主が佇んでいた。大量の水の中から現れたのに主の体は全く濡れていない。
僕は主の足にまとわり付いた。成功を祝ってあげたかったのだ。
「ラース、ご苦労様」
主が僕の喉の下を撫でてくれた。あぁ、なんていい気持ち。僕はこの瞬間のために生きてるんだと錯覚しそうになる。
「すごい……」
座りこんだままのセイルが、主を見て呟いた。
「初めて、目の前で魔法を見たよ」
「えへへ。これでも立派な魔女ですから。セイルくんやラースが手伝ってくれたから成功したんだよ」
誇らしげな表情の主の言葉に、セイルは自然と笑顔になった。和やかな雰囲気を壊すのは胸が痛むが、致し方ない。僕は主にここに来た目的を話すよう主に急かした。どうせ僕が口を出さなかったら、また最初のようにお見合い状態になって話が進まないだけだ。
「え、でも」
たちまち主の顔色が曇った。やはり言いだし難いのだろう。その気持ちはよく分かる。でも仕方が無いんだ、主よ。
「どうしたんだい?」
ほら、セイルが不思議がってる。主、ここは悩んでいる暇は無いのだ。
「あのね、セイルくん。その」
そこまで言って、主は口ごもる。僕が代わり言った方が早いかもしれないが、あいにく僕は人の言葉を話せない。だから頑張れ、主。
「ええと……ごめん!」
【続】