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彼女のほくろ

作者: 楠瑞稀

(いやだわ……)

 顔をしかめて、由香里は指を爪でこすった。

 左手小指の、第二関節あたりに浮かんでいた黒い点は、滲むことも薄れることもなく、そのままあった。

 どうやらそれは、ペンかなにかで付けてしまった汚れではなく、やはりほくろのようだ。

(日に当りすぎたのかしら)

 由香里は小さくため息をついた。

 今年の夏は日差しが強かった。そのためしっかりと紫外線対策を施したつもりだったけれど、それでもまだ足りなかったのかもしれない。あるいは、そろそろ美容ケアに真剣にならないといけない年頃となったのか。

 仕事の帰り道、ドラッグストアに寄って美白効果のある保湿クリームを買ってくると、由香里はそれを丹念に指にぬった。




 ◆ ◇◇◇ ◇ ◇◇◇ ◇ 




 グラスを持った手に視線を下ろした時、大粒の石のはまった指輪の横、小指にいまだ浮かぶほくろに目を止めて由香里は眉をひそめた。

「どうしたんだい?」

「ううん、なんでもないわ」

 声を掛けられて、由香里は慌てて首を振り、取り繕う。数週間前にプロポーズしてくれたばかりの、婚約者の隆広が心配そうにこちらを見ていた。

「本当かい? どうも心配だな。今日はなんだかいつもと雰囲気が違うし、なにか悩み事でもあるんじゃないかい」

「たいしたことじゃないのよ、気にしないで」

 由香里は屈託なく笑って見せる。指にできたほくろが気になるなんて、実際たいしたことのない類の問題だ。そして、そうだ、と由香里は顔を上げる。

「実はね、お気に入りの靴の形が歪んでしまったの。それでちょっと落ち込んでいるのかも」

 別に嘘をついているわけではない。今の今まで忘れていたことだが、実際に今朝は、足に合う靴が見つからず苛々していたのだ。しおらしく視線を落としてそう言うと、隆広はしたりとうなずいた。

「それじゃあ、この後は一緒に新しい靴を見に行こう。もちろん気に入った靴があったらプレゼントするよ」

「わぁ、ありがとう。嬉しいわ!」

 予想通りの展開に、由香里はにっこりと笑って礼を言う。

 そして指に視線を向けないようにしながら、グラスを鳴らして乾杯をした。


 


 ◆ ◇◆◇ ◇ ◇◇◇ ◇ 




 由香里は苛ついていた。

 今日は上手くいかないことが多すぎる。

 まず会社についてパソコンを立ち上げようと思ったのに、何故か起動しなかった。

 会社のパソコンは指紋認証でロックを解除する形式のものなのだけれど、それが上手く読み込めなくなってしまったらしい。

 技術者に来てもらったけれど、原因は不明。仕方がないので、再度登録をし直すことになった。まったく面倒くさい、と由香里は舌打ちしそうになる。

 そのうえ今日は気付かないうちにぼんやりしてしまっていたらしく、お局様にいやみを言われてしまった。まったくあんな陰険でヒステリックなおばさんにだけはなりたくないと、由香里はしみじみ思う。

 何か気晴らしをしようと考えた由香里は、高校時代から友人と遊ぶ約束を取り付けることにした。結婚の報告もそこで一緒にしてしまえばいいと考え、そこでようやく気分が浮上した。


 


 ◆ ◇◆◇ ◆ ◇◇◇ ◇ 





「まったく、どうしようもないヤブ医者なんだから、やになっちゃう」

 由香里は、カーペットの上に鞄を叩きつけるように置いて、舌打ちする。

 最近、目に見えて体重が減った。

 始終行っているダイエットの成果がようやく出たかと思ったけれど、それにしては唐突すぎる。急激に体重が落ちたせいか、頬がこけて、顔立ちすらもなんとなく違って見えている気がする。

 ぼんやりする時間も増えており、時には意識が途切れたまま数分が経過していたということすらもあったくらいだ。

 これはさすがに身体のどこかがおかしいのではないかと、有休を使って病院に行ったのだが、検査の結果はすべて良好。そうじゃないからわざわざ休みを取って病院に来たんだと医者に詰め寄ると、したり顔で心療内科を勧められた。

 本当に馬鹿にしていると、由香里は憤慨する。

 こうなったら、明日友達との飲み会では思いっきり愚痴を言わせて貰おうと由香里は心に決めた。





 ◆ ◇◆◇ ◆ ◇◆◇ ◇ 





「マリッジ・ブルーって奴じゃないの?」

「そんなわけないわ。だって私、いま幸せの絶頂期なのよ」

 結婚の報告と、先日の医者の態度への愚痴を続けざまに語っていると、友人の一人が訳知り顔でそんなことを言った。

 しかし由香里は否定する。顔立ちもよく、収入も安定し、気前も良い、条件としては最良の恋人からプロポーズされたばかりなのだ。嫌味なお局がいる職場だって、寿退社することが決まっている。

「まったく良い男を捕まえたよね。あたしの彼氏も早くプロポーズしてくんないかな」

「あんたも早く、あたし達の仲間入りしなよ」

「でも私も最近似たような感じで体調良くなくってさ、もしかしてそういう風邪でも流行っているのかも」

「えー、あんたも? あたしもあたしも」

 別の友人らも同じようにうなずく。高校を卒業してからもしばしば顔を合わせている友人らは、言われてみれば確かに以前に会ったときよりも痩せている気がする。照明の関係か、一様に陰気に見える顔がそれを余計に強調していた。

 ふいに、由香里の脳裏になにかがよぎる。けれど、結局それが何なのか思い出すにはいたらなかった。

 楽しい食事が終わり会計の際、店員が由香里たちに「皆さんよく似ていらっしゃいますね。ご親戚の集まりですか?」などと雑談交じりに話しかけてきた。みんな大いに笑い、盛り上がっての解散となった。

 別れ際、手を振る友人の一人の小指に小さなほくろを見た気がしたが、しかし由香里はそれを気のせいだとして、無理やり記憶から遠ざけた。





 ◆ ◇◆◇ ◆ ◇◆◇ ◆ 




 何かがおかしい。

 由香里はひどい違和感を覚えていた。

 手を洗うとき、服を着るとき、化粧をするとき。日常のちょっとした動作を行うと、必ずといって良いほど奇妙な違和感に駆られていた。

 唯一の救いは、先日一緒に食事をした高校時代の友人達からも、似たような訴えのメールが届いているということだ。

 いや、それは救いというのとは違うかもしれない。しかし友人達になんでもない、気にするなと励ますメールを打つことで、逆に自分も辛うじて平静を保つことができていた。

「本当になんなのよ、いったい……」

 由香里は苛々と爪を噛む。最近できたその癖のせいで、ネイルが剥げ、爪の形も悪くなってしまった。それなのになぜかやめられないでいる。

 ぼんやりする時間もさらに増えていった。





 ◆ ◆◆◇ ◆ ◇◆◇ ◆ 




 鏡の中の自分の顔を見て、由香里は驚愕した。

「いやだ、最悪っ」

 不安によって眠りが浅い為か、まぶたが腫れている。お陰で自慢の二重が消えて、どこかやぼったい一重まぶたになってしまっていた。

「どうしよう、こんなんじゃ会社に行けないじゃない」

 痩せて人相の変わった面立ちとあいまって、まるで自分とは思えないくらいに不細工極まりない。由香里は苛々と爪を噛む。

 だが、由香里はふいにぎくりとした。

 鏡の中の、爪を噛む陰気な女。その女に由香里は見覚えがあった。


(死ねよ、ブース)


 記憶の底から甦る、うつむき陰気な眼差しで爪を噛む一人の少女。

 鏡に映る由香里の顔は、あまりにもその少女に酷似している。

「なっ、なんで……っ!?」

 由香里は慌てて爪を顔から遠ざける。

 信じたくはなかった。しかし、鏡を覗き込めば覗き込むほど、自分の顔があの少女に似通っているように思えて、仕方がない。

(ううん、そんなはずない。こんなの気のせいよっ)

 由香里は無理やり考えを打ち消すと、濃い目の化粧を施し、マスクをつけて会社へ向かった。

 そして指紋認証のパソコンを立ち上げ、作業に取り掛かる。しかし、そこで由香里の記憶は途切れていた。

 気が付けば時刻はすでに定時。

 由香里はただ呆然と、帰り支度をする周囲を眺めていた。

 






 ◆ ◆◆◆ ◆ ◇◆◇ ◆ 





 ふと顔を上げれば朝で、由香里は化粧台の前に座っていた。

 自分がいつ寝て、いつ起きたのかも判然としない。

 しかしそんな意識の混濁さえも気のせいだと切り捨て、由香里は鏡に映る自分とは到底思えないその姿から目をそらし、念入りに化粧を施そうとする。

 それでも、どうしても。あの少女の顔が頭をよぎる。

 あれはもう十年近く昔のことなのに。

 由香里は思い出す。楽しかった学生時代。

 友人達と遊び、ふざけあって、賑やかに過ごした日々。

 その中で彼女と関わったのは、少しだけ刺激的なレクリエーションでしかなかった。

(目障りなんだよ、根暗ブス。ほら、さっさと死ねよ)

(キャハハハッ! なにそれ、最高っ。もっと泣き喚けって)

 高校生の頃、由香里は友人達と一緒になって、一人の女子生徒を執拗に苛めていた。

 いつも陰気な目でこちらを見ていた少女。その目が気に入らなくて、泣いて侘びを入れるまで、何度も何度も繰り返しいたぶった。

 泥水を掛けられ呆然となる少女。ごわごわのお下げに火をつけられ、半狂乱になって泣き叫ぶその姿。苛めはどんどんエスカレートしていった。

 だけどそれだって、もう十年近く昔の話。

 今となっては彼女だって、幸せに暮らしているはず……。


(あんた達を、絶対に許さない――、)


 由香里ははっと顔を上げる。

 ここにきて、由香里はようやく思い出した。

 あの少女がどうなったのか。

 当時の記憶が鮮明に、よみがえる。


(『私はあんた達を絶対に許さない。あんた達のすべてを残らず奪ってやる』)


 彼女は怨嗟の言葉を残して、屋上から飛び降りた。

 てっきりいじめを告発されたのかと思ったがそれもなく、由香里は彼女が自殺したことさえすっかり忘れきっていた。

 けれど、彼女の恨みはそこで途絶えた訳ではなかった。

 不吉な予感に、すぅっと由香里の顔から血の気が引く。

「えっ……ハハ、なによ。すべてを、奪う……?」

 由香里は唐突に思い浮かんだ自らの考えを否定しようと、うつろに乾いた笑いをあげる。

 だけど鏡の中の女も、同じように陰気な目で乾いた笑みを浮かべていた。


(……ザマァぁ……ァァ――……ミロ)


 カサカサに乾いた唇が、無音で嘲りの言葉を紡ぐ。

「ち、違うわ。嘘よ、そんなことあるはずないわ……っ!」

 由香里は無意識に自分自身を抱きしめる。それはどうにかして自らを、現実の中に繋ぎとめたいという気持ちの表れだった。

 信じたくない。信じられるはずがない。そんな非現実的なことが、起こり得るはずがない。

 しかし歯はカチカチと音をたて、口からは引き攣れた吃音が断続的に溢れ出る。

 堪えきれない恐怖がもはや限界に達しようとしたそのとき、とっさに由香里は思い出した。そういえばあの少女の肩には、特徴的な形のほくろがあった。自分達は面白がって、そこに何度もタバコの火を押し当てたではないか。かすかな希望が胸に湧き上がる。

 自分にはあんなほくろはなかった。それさえ確認できれば。

 自分が自分であることを――証明できる。

 由香里は引き千切りかねない勢いで襟元のボタンを外し、自分の肩を見る。

 けれど現実は。


 やけどの跡もそのままに、由香里の肩には少女と同じほくろが浮かんでいた。


「いやぁぁぁぁっ! やめてっ、あたしはあたしよっ。あんたなんかじゃないっ!」

 由香里は半狂乱になって悲鳴を上げるが、鏡の中の女はにやにやと不気味に笑って由香里を見ている。


(ォオ前カラ、スベテヲ奪ッテヤルゥ――、)


「冗談じゃないわっ、もう十年も昔の話なのに! あんたなんかにくれてやるものなんて、これっぽっちもないわよっ!」

 由香里は鏡に化粧品を投げつけ叩き割ると、そのまま逃げるように部屋から外に飛び出した。

 取り返しの付かない現実から必死で遠ざかろうとするように、わき目も振らず走り続ける。

 人ごみを掻き分け飛び出した横断歩道の信号が、何色を指していたのかに気付く暇もなく。




 ◆ ◆◆◆ ◆ ◆◆◇ ◆ 





「本当に、生きた心地がしなかった。僕がどれだけ心配したか……っ」

「ごめんなさい、隆広さん……」

 病院のベッドの脇に突っ伏す婚約者に、由香里は申し訳ない思いで謝罪した。

「私、あの時すごく気が動転していて……。だけど、それがまさかこんなことになってしまうなんて」

 赤信号の道路に飛び出した由香里は、その時最悪のタイミングで通りかかったトラックに巻き込まれた。一時は昏睡状態に陥り、生存が絶望視されたが、どうにか奇跡的に一命を取り留めたのだった。

「君がそこまで苦しんでいたと気付かなかった僕の責任だ。婚約は解消しない。君が回復したら、すぐに結婚しよう」

 隆広は顔を上げると、涙で赤くなった目を由香里に向ける。しかし由香里は悲しげに視線をそらし、うつむく。そして包帯の巻かれた顔に触れた。

「だけどね、隆広さん。私、顔を強く打ったでしょう? 整形手術をしても、元の顔には戻らないかもって……」

「生きていてくれただけで、充分だよ。もう、それ以上は何も望まない」

 強く手を握る婚約者の手を包み込むように握り、由香里は感極まったように声を振り絞った。

「ありがとう、すごく嬉しいっ。私、いま人生で一番幸せよ……」

 涙を隠すようにうつむいた彼女の目に、一瞬だけ陰気な笑みがかすめる。

 隆広はそのことに気が付いたが、一生をかけて彼女を幸せにすることで彼女の瞳の陰りを取り除くのだと、ことさら強く胸に刻んだだけだった。

 




 ◆ ◆◆◆ ◆ ◆◆◆ ◆ 




 

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