「存在感がない」と婚約破棄されましたが、鼻が利きすぎる北の公爵様は、私の隣でだけ息ができるそうです
1
「隣にいても、存在感がないんだよ」
婚約者にそう言われたのは、社交期の開幕を告げる夜会の最中だった。社交期の終わった今でも、あの声の調子はよく覚えている。
大広間の壁際。楽団がちょうど二曲目を終えたところで、近くにいた何人かが、振り向かないふりをして耳だけこちらに向けた。
マティアス・エーベルトは伯爵家の嫡男で、私とは婚約して二年になる。
「君といると、ひとりで立っている気がする。だから婚約は解消したい。カーステン家のヴィオラ嬢と話を進めることにした」
彼の視線が、一瞬だけ広間の中央へ流れた。そこには、真新しい髪飾りをつけた令嬢が立っていた。
私は、すぐには返事をしなかった。
頭に浮かんだのは、ふたつの話だった。
エーベルト家に借金があることは、婚約のときに父から聞かされていた。カーステン家が娘に破格の持参金をつけるという噂は、工房に出入りする仕立て屋の女主人が先月教えてくれた。
並べると、答えのような形になる。
でも、それを口にしたところで何も変わらない。
「承知しました。父には、私から伝えます」
マティアスは拍子抜けした顔をした。泣くか、すがるか、何かを期待していたのだと思う。
正直に書くと、悔しさより先に来たのは、妙な納得だった。
私は子爵家の娘だが、昼間はゼーリヒ工房で調香師の見習いをしている。香りを扱う人間は、自分に香りをつけない。石鹸も髪油も無香のものを選び、肩掛けの裏には自分で縫った小袋をつけて、吸香布を一枚差し込んでいる。白泥と菩提樹の炭を染み込ませた布で、腕一本分ほどの範囲の香りを吸う。夜会の匂いを髪や服に持ち帰らないための工夫だった。
存在感がない。
調香師にとって、それはほとんど褒め言葉だ。
ただ、婚約者の口から聞くと、褒め言葉には聞こえなかった。
広間を横切って出口へ向かうあいだ、空気が背中にまとわりついた。薔薇、麝香、柑橘、白檀。ひとつずつなら上等な香水なのに、百人分が重なると、甘いものを煮詰めすぎた鍋の底のような匂いになる。布があっても、広間の空気はこれだけ重い。来月の試験には「混ざった香りの分解」という課題があったな、と、どうでもいいことを考えながら扉を閉めた。
廊下は少しだけ涼しかった。
その先で、背の高い男性が壁に手をついていた。
濃紺の礼装。片手で口元を押さえ、肩で浅く息をしている。酔った客かと思ったが、顔色が違った。血の気が引いて、唇まで白い。
「大丈夫ですか。人を呼びましょうか」
近づいた瞬間、彼の呼吸が、ふっと深くなった。
男性はゆっくり顔を上げて、私を見た。灰色の目だった。
「……君は、何の匂いもしないな」
初対面の挨拶としては、かなり変わっている。
「少しだけ、隣にいてくれ。頼む」
断る理由が見つからなかった。私は彼の隣に立ち、同じように壁に背を預けた。
扉の隙間から流れてくる甘さが、私たちから腕一本分ほどのところでぷつりと途切れた。そこから内側だけ、洗いたての布を広げたように空気が白い。私にとっては毎日の、何もない空気だった。その中で、男性の肩がゆっくり下りていった。
「ノルトハイムだ」と、彼は名乗った。
北の公爵の家名だった。何年も社交の場に出てこない方だというのは、王都では誰でも知っている話だった。
「嗅覚の加護が強すぎてな。弱めることができない。香りがひとつなら平気なんだが、ああして混ざると、息の仕方がわからなくなる」
「それなら、なぜ夜会に」
「用がある」
それ以上は言わなかった。
試しに、一歩だけ離れてみた。給仕を呼ぼうと思ったのもある。
公爵はすぐに咳きこんだ。
私は戻った。咳が止まった。
それで、わかった。
私の体に香りがないだけでは、こうはならない。肩掛けの裏の布が、周りの香りを吸っている。だから私の隣だけ、空気の混ざりが薄くなる。一歩離れれば、そこはもう普通の廊下だ。
懐中時計を見た。布は、マティアスに呼ばれる直前に替えたばかりだった。混んだ広間なら十五分ほどで吸いきってしまう。広間で数分、廊下に出てから十分足らず。人の少ない廊下なら少しはもつだろうが、いつまでもではない。
まもなく、公爵の眉がかすかに寄った。
私は手提げから予備の布を出し、小袋の中身を入れ替えた。使い終わったほうは油紙に包み、手帳に書きつけた。二番を回収、三番に交換、二十一時十二分。近くにいた人、ノルトハイム公爵。
作業ごとに記録をつけるのは、工房で叩きこまれた癖だ。
公爵の呼吸が、また深くなった。
「今、何をした」
「布を替えました。香りを吸う布です。吸える量に限りがあるので」
彼は、私の手元と顔を交互に見た。
「君の隣だと、息ができる。ただし、君が布を替えてくれる限り、か」
「……そういうことになります」
「名前を聞いてもいいか」
「イルゼ・ローエンです。ゼーリヒ工房で見習いをしています」
「イルゼ・ローエン」
公爵は、確かめるように一度だけ繰り返した。
「覚えた」
その夜、私は二年分の婚約をなくした。
二年隣にいた人には、存在感がないと言われた。
十数分隣にいただけの人は、私の名前を覚えた。
どちらが正しいのかは、まだわからなかった。ただ、廊下の白い空気の中で、私は久しぶりに、自分がちゃんとそこに立っている気がしていた。
2
公爵が工房に来たのは、あの夜会から三日後の昼だった。
その三日のうちに、父への報告は済ませていた。翌朝の食卓で順を追って話すと、父は長いあいだ黙り、それから「エーベルト家には私が書状を出す」とだけ言った。持参金の話は、私からはしなかった。噂と噂をつないだだけのものを、父の怒りに足したくなかった。
ゼーリヒ工房の扉は、開けるたびに大きくきしむ。顔を上げると、濃紺の外套が戸口をふさいでいた。
「ノルトハイムだ。ゼーリヒ殿に頼みがある」
師匠のマルテは、乳鉢を回す手を止めなかった。
「公爵様がうちに何のご用だい。香水なら表通りの店のほうが瓶がきれいだよ」
「香水は要らない。消してほしい」
頼みはこうだった。社交期のあいだ、どうしても顔を出さなければならない席がいくつかある。そこへ工房の調香師として、イルゼ・ローエンに同行してほしい。布の替えどき、立つ場所、近づけてはいけない香り。その判断を任せたい。
「要するに、公爵様の鼻休めかい。布だけ買っていけば済む話だろうに」
「布は、替えどきを教えてくれない」
師匠はそこで初めて手を止め、もうひとつ聞いた。
「嫁探しのついでなら、よそを当たっておくれ」
「調香師として頼んでいる。報酬は工房を通す」
正直に書くと、その返事に少しほっとした。婚約をなくして三日目の娘を、誰かの隣に飾っておく話なら、断るつもりでいた。
師匠は私のほうを向いた。
「来月の試験に、混ざった香りの分解があったろう。本番の空気を毎回持ち帰れるんだ。悪い話じゃないよ」
契約書の末尾に、公爵は署名した。ラウレンツ・ノルトハイム。私がその名を知ったのは、インクが乾くのを待っているあいだだった。
最初の仕事は、その場で始まった。公爵本人の無香調整だ。
預かった外套の襟に鼻を寄せると、杉の防虫香、洗濯糊、馬具の革が、薄い層になって重なっていた。ひとつずつなら弱い。けれどこの三つは、持ち主の鼻のすぐ下で一日じゅう混ざり続ける。
「ご自分の服で、息苦しくなることはありませんか」
「……ある。朝のうちだけだが」
外套は白泥を溶いた湯に一晩浸け、日陰で干した。糊は無香のものに替えるよう、公爵家の洗濯係あてに書き付けを持たせた。二日後に届け直すと、公爵は自分の袖にしばらく顔をうずめて、「静かだ」と言った。
服の匂いを消して褒められたのは、生まれて初めてだった。
最初の席は、契約から五日後の茶会だった。前日に会場の客間を下見した。窓は南向きに三つ。花は暖炉の脇にまとめて飾るという。香水の強い年配の夫人方は、たいてい暖炉のそばに集まる。私たちの席は、いちばん西の窓辺に決めた。窓を細く開けてもらえば、そこが風上になる。布は、その晩のうちに十二枚縫い足した。
当日、工房まで迎えに来た馬車の中で、公爵は私を見るなり言った。
「今日は焼き菓子の匂いがする。機嫌がいいな」
「工房の換気が悪かっただけです」
昼に師匠が、薬草の乾燥炉でおやつのビスケットを温め直したのだ。私は髪の先をつまんで、調香師として小さく絶望した。
機嫌のほうは、普通だった。たぶん。
茶会は十四時に始まった。客は四十人ほど。大広間ほどではないにせよ、念のため布は十五分ごとに替えることにした。番号、時刻、近くにいた人。手帳に一行ずつ書き足していく。使い終えた布は油紙に包んで持ち帰る。試験の練習に、あとで洗い出すつもりだった。
六番に替えたのが十五時十五分。七番が十五時三十分。
その少しあと、ヴィオラ・カーステンが窓辺にやって来た。
「公爵様が茶会にお見えなんて。皆さま驚いていらっしゃいますわ」
それから、目だけを私に移した。
「あら、ローエン様。いらしたのね。少しも気づきませんでした」
言葉づかいは丁寧だった。中身は、あの夜会で別の口から聞いたものとよく似ていた。
ヴィオラ嬢は、公爵との間を扇一本分まで詰めた。香りが来た。白百合に蜂蜜を重ねた、よくできた香水だった。ただ、その底に一筋だけ、工房の棚のどの瓶とも合わない甘さが沈んでいた。名前を探しているうちに、彼女は会釈をして離れていった。
公爵の眉が寄っていた。七番はまだ八分しか使っていない。それでも私は小袋を開け、八番に入れ替えた。
七番を回収、八番に交換、十五時三十八分。近くにいた人、ノルトハイム公爵、カーステン男爵令嬢。
書き終えたとき、公爵が窓の外に目を向けたまま、低く言った。
「北で焼き捨ててきた匂いだ」
「何のことですか」
「……いずれ話す」
それきり、公爵は口を閉じた。私はその言葉を、時刻の下に小さく書き添えた。
あの一行にどれほどの重さがあったのか、当時の私はまだ知らなかった。ただ帰り道、七番の油紙だけはほかの布と分けて、手提げの内ポケットにしまった。名前の出てこなかった甘さを、師匠に嗅いでもらうつもりだった。
少しも気づかなかった、と彼女は言った。
その彼女がそこにいた時間帯は、私の手帳に、きちんと残っていた。
3
七番の布を師匠に渡したのは、茶会から戻ったその晩だった。
油紙を開いた師匠は、鼻を寄せてすぐに離し、もう一度、今度は時間をかけて嗅いだ。
「棚にないね。うちのにも、表通りの店のにも」
師匠が名前を言えない香りに出会ったのは、弟子になって初めてだった。
翌朝、扉がきしむより先に、外から公爵の声がした。
「昨日の布は、まだ洗っていないか」
洗っていません、と答えると、公爵は作業台の端に立ったまま話し始めた。
北の領地の奥で、夜啼き蘭を育てている畑を見つけたこと。その根からとれる樹脂を練った香を、甘睡と呼ぶこと。畑も、蔵に積まれていた樹脂も、自分の手で焼いたこと。
「焼き捨てたというのは、それだ。ただ、買い手の名はひとつも出てこなかった。私は、買い手が王都にいると見ている」
甘睡は人を操る香ではない、と公爵は言った。近くで繰り返し嗅いだ相手の警戒をゆるめ、好意を少しだけ上乗せする。たまにすれ違うだけの相手には効かない。一時間もすると香りが痩せるので、使う者は付け直す。
「禁制香を取り締まる権限は私にある。だが私の鼻は、裁きの場では証拠にならない。嗅いだのが私ひとりなら、ただの言い分だ」
師匠が棚の奥から、薄い木箱を下ろした。ギルドから配られて十年、一度も封を切ったことがないという鉄明礬紙だった。
「甘睡が混じっていれば青紫になる。試験には出ないよ。たぶんね」
検査は私がした。並べた布は四枚。七番と、その前の六番、あとの八番。それに、縫ったきり一度も使っていない一枚。どれも同じ量の酒精に浸し、砂時計を一度返すあいだ置いた。
小皿から立ちのぼる甘さは、七番のものだけが違っていた。茶会の窓辺では白百合と蜂蜜の下に沈んでいた一筋が、酒精の中では、いちばん上に浮いていた。
ガラス棒で一滴ずつ、紙に落とした。
使っていない布。色は変わらない。六番。変わらない。八番。変わらない。
七番の滴だけが、落ちた真ん中から縁へ向かって、じわりと青紫に広がった。
師匠は紙を窓の光にかざしてから、記録の末尾に署名した。マルテ・ゼーリヒ、ギルド認定調香師。私は手帳を開き、七番の行を読み返した。十五時三十分から三十八分。近くにいた人、ノルトハイム公爵、カーステン男爵令嬢。
「この紙で言えるのは、その八分のうちに、腕一本分の内側に甘睡があった、というところまでです」
自分の声が、思ったより硬かった。
「誰が持っていたかは、紙には出ません。六番と八番のときも公爵様と私は同じ場所にいて、色は変わりませんでした。言えるのは、そこまでです」
「それで足りる」と公爵は言った。「所持検査には、物で裏付けた疑いが要る。これがそれだ」
付け直しが要る香なら、長い席には小瓶を持ってくるはずだ、と公爵は続けた。私は手帳をめくり直した。ヴィオラ嬢が窓辺に来たのは、記録の上では一度きりだった。
「途中で席を外したかどうかは、見ていません。小瓶も、見ていません」
「わかっている。だから検査をする」
公爵は署名入りの記録を持って、警備隊とギルドの監察官のもとへ向かった。
ひとりになった工房で、私は少しだけ、仕事と関係のないことを考えた。
ヴィオラ嬢は、マティアス様の新しい婚約者だ。甘睡は、繰り返し近くにいた相手の好意を上乗せする。もし、あの人が誰かに甘くされたせいで私を手放したのなら、私は少し楽になれる気がした。
その考えは、手帳に書かなかった。書けるだけの材料が、どこにもなかった。
公爵が戻ってきたのは、日が落ちてからだった。師匠が帰ったあとの作業台で、私は検査記録の写しを清書していた。
戸口で、公爵の鼻が小さく動いた。
「怒っている匂いがする」
「インクです」
没食子インクの、錆に似た渋い匂いが、作業台いっぱいに広がっていた。ペン先を押しつけすぎて、三か所にじませたせいだ。押しつけた理由が怒りではなかったとは、言い切れなかった。
「私を雇ったのは、捜査のためだったんですか」
公爵はすぐには答えなかった。
「探さなければならない席で、息ができなかった。だから君を雇った。どちらも本当だ。黙っていたのは、私が悪い」
言い訳をひとつも足さない謝り方だった。おかげで、怒りの置き場がなくなった。
「警備隊は動く。五日後、ヘルマー伯爵家の夜会だ。カーステン嬢も招かれている。監察官が立ち会う」
「では、布の数を決めます。広間の間取りを教えてください」
公爵はそこで、ようやく少し笑った。
「君の記録がなければ、私の鼻はまた、ひとりで騒いでいるだけだった」
それから一歩、作業台に寄った。ちょうど、隣の距離だった。
「ここは静かだ。インクの匂いしかしない」
「……窓を開けます」
立ち上がりながら、耳が熱いのに気づいた。それが匂いになって公爵に届かないことを、本気で祈った。
その晩、布を二十枚縫った。一枚ごとに、隅へ番号を書き入れた。
誰の目にも留まらなくていい。留まらないまま、そばで起きたことを覚えておく。それが、私の仕事だった。
4
ヘルマー伯爵家の大広間は、五日前に教わった間取りのとおり、窓が少なかった。
私は公爵の隣に立ち、肩掛けの裏の布を十五分ごとに替えた。一枚替えるたびに、手帳へ時刻と、近くにいた人の名を書き足した。
カーステン嬢は、マティアス様の腕に指を添えて入ってきた。
マティアス様は一度もこちらを見なかった。見なかったのか、目に入らなかったのか。どちらにしても、もう手帳に書くことではなかった。
二十一時を少し回ったころ、カーステン嬢がひとりで広間を出ていった。入ってきてから、一時間ほどたっていた。私は時刻を書き、横に「中座。この目で見た」と添えた。茶会の日には書けなかった一行だった。
戻ってきた彼女を、廊下の手前で監察官が呼び止めた。
控えの間には、公爵と私も呼ばれた。検査の記録を書いた者として立ち会うように、と監察官は言った。
「香水を持ち歩くのが、罪になるのですか」
カーステン嬢の声は少しも揺れなかった。警備隊長が手提げ袋の口を開け、中身を一つずつ卓に並べた。手鏡。白い陶の香水瓶。扇。それから、親指ほどの、色の濃いガラスの小瓶。
監察官が、その栓を抜いた。
掘り返したばかりの湿った土に、蜜をかけたような重い甘さだった。七番の布を酒精に沈めたとき、いちばん上に浮かんできたあの一筋が、薄まらないまま、そこに詰まっていた。
公爵の息が浅くなった。私は半歩寄って、肩掛けの布を新しいものに替えた。
検査は私に任された。ガラス棒で瓶の口をなぞり、酒精に溶かして、監察官の持ってきた鉄明礬紙に一滴落とす。青紫は、落ちたそばから濃く広がった。七番のときより、ずっと速かった。
監察官が記録に署名した。
紙が教えてくれたのは、瓶の中身が甘睡だということだけだ。その瓶がカーステン嬢の袋から出てきたのは、私が自分の目で見た。二つはそろった。それでも、茶会の八分に持主の名を書き込むかどうかを決めるのは、私ではなく裁きの場だった。
袋の底には、もうひとつ、革表紙の手帳が入っていた。
警備隊長がめくるページを、監察官が横から読み上げた。家名と、嫡男の名。日付と時刻。会った場所。その横に短い印が、何度も、何度も続いていた。
番号と、時刻と、近くにいた人。私の手帳と同じ形だった。違うのは、何のために書いたかだけだった。
監察官が、あるページで指を止めた。
「エーベルト伯爵家の嫡男を、ここへ」
連れてこられたマティアス様は、警備隊長の脇に立たされたカーステン嬢から、一歩離れた。それから、部屋の隅にいる私を見て、目を見開いた。そこにいたことに、たった今気づいた顔だった。
「僕も、その香りにやられていたんだ。だからイルゼに、あんなことを」
久しぶりに名前を呼ばれた。言い訳の材料として。
公爵が、静かに口を開いた。
「今夜の君からは、甘睡の匂いはしない。だが、私の鼻でわかるのは今夜のことだけだ。それより前のことは、私にもわからない」
監察官が、指を止めていたページを読み上げた。
「エーベルト家嫡男。持参金の額につき、先方より二度問い合わせあり。甘睡、不要。表向きに適す」
日付は、開幕の夜会よりも前だった。
「問い合わせたのは、事実ですか」
マティアス様は口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……家には、事情があったんだ」
否定ではなかった。
カーステン嬢が、そこで初めて笑った。小さく、短く。誰に向けた笑いだったのか、私にはわからなかった。
警備隊長が彼女の手首に縄をかけた。そのとき、マティアス様が監察官に尋ねた。
「婚約は。カーステン家の持参金の話は、どうなるんです」
最初に訊いたのが、それだった。
答えたのは、扉を押さえていた若い隊員だった。「お屋敷のほうも、今夜あらためます」
それきり、マティアス様は何も言わなかった。
茶会のあとの工房で、ひとつだけ考えたことがある。あの人が甘くされていたのなら、私は少し楽になれる、と。その逃げ道は、帳簿の一行でふさがった。痛むだろうと思っていた。実際には、洗い終えた布のように、何も残らなかった。
広間には戻らず、公爵と裏庭へ抜ける廊下に出た。
扉を閉めると、甘さも百合も遠のいて、隣の空気がゆっくり白く澄んでいった。公爵は壁にもたれて、長く息を吐いた。
「終わった。君のおかげだ」
「布のおかげです」
「替える時刻を決めたのは君だ」
それから公爵は、珍しく言葉を探すようにした。
「社交期の終わりに、王宮で舞踏会がある。探すものは、もうない。それでも、隣にいてくれるか」
隣にいる理由は、今夜で片づいたはずだった。考えさせてください、とだけ答えた。
その夜、工房の棚の前に立った。弟子になってから組んできたのは、誰かのための香りと、誰かの香りを消す調整ばかりだった。消すほうなら、目をつぶっていてもできる。
空の小瓶を一本下ろして、ラベルに自分の名前を書いた。
中身は、まだ一滴も決まっていなかった。
5
名前を書いた小瓶は、三日のあいだ、空のまま棚に立っていた。
入れたくないものなら、すぐに挙げられた。広間の向こうまで届く香り。人を振り向かせる香り。誰かの隣で、その人の息を浅くする香り。
公爵は、穏やかな香りが一つきりなら平気だと言っていた。苦しいのは、いくつもが混ざった空気のほうだ。それなら、遠くへ飛ばない香りを一つだけ作ればいい。理屈はそれで足りた。
四日目の晩、炒った大麦を乳鉢でつぶし、菩提樹の花の浸出液と、杏の仁をほんの少し合わせた。どれも重い香料で、肌の温みを受けてようやく立ちのぼる。顔を寄せると、焼き上がりを待つ窯のそばに立ったような、乾いた温かさがあった。腕を伸ばした先では、もう何もしない。
つける場所は、手首の内側と鎖骨の下に決めた。そこから肩掛けの裏の布までは、腕一本分もない。外へこぼれていく分は、布が吸う。
ただ、布は私の香りまで飲むことになる。十五分と決めていた交換を、十二分に縮めた。手帳の数字を書き直して、下に線を引いた。
師匠は小瓶の口を一度だけ嗅いで、鼻を鳴らした。
「隣に立たなきゃわからない香水なんて、売り物にならないね」
「売るつもりはありません」
「知ってるよ。だから、いい出来だって言ってるんだ」
翌日、公爵が工房に来た。監察官から届いた知らせを、伝えに来たのだという。カーステン家の屋敷からは、同じ色の小瓶がさらに何本か出た。家の財産は、裁きが済むまで押さえられる。持参金の話は、どの家とのものも宙に浮いた。
私は聞いたとおりを手帳に写し、それから顔を上げた。
「舞踏会には、参ります」
公爵はしばらく黙り、「そうか」とだけ言った。耳の先が赤かった。小瓶の栓は固く締めてあったから、香りのことは知られずにすんだ。
王宮の大広間は、ヘルマー伯爵家の倍は広く、窓も高かった。それでも何十という香水が天井の下で溶け合い、入口に立っただけで喉の奥が重くなった。
公爵の隣に立ち、一枚目の布を替えた。
二枚目を替える前に、マティアス様が来た。
二歩ほど手前で足を止め、そこから話しかけてきた。あの夜から、少し頬がこけて見えた。
「イルゼ。少しだけ、いいかな」
公爵が気をきかせて身を引こうとしたので、私は袖の端をつまんで止めた。ここで離れたら、息ができなくなるのはこの人のほうだ。
「うちのことは、聞いているだろう。カーステン家の話は消えた。あのころの僕は、どうかしていたんだ。君となら、もう一度やり直せると思う」
ローエン家の持参金は、カーステン家の噂の額には遠く及ばない。それでも、ないよりはましなのだろう。
あの人が一度でも甘くされていたのかどうかは、誰にも確かめようがない。確かなのは、問い合わせが二度あったことと、あの人がそれを否定しなかったことだけだった。
マティアス様は、私の顔をしげしげと眺めた。
「君は変わらないね。今日も、何もつけていない」
「つけています」
あの人の眉が寄った。
「あなたの立っているところまでは、届かないように作りました」
二歩の距離が、そのまま答えだった。
「届かせるつもりも、ありません。お話は、それだけです」
マティアス様は何か言いかけて、やめた。人の波に戻っていった背中は、すぐにほかの燕尾服と見分けがつかなくなった。存在感がない、というのはこういうことかと思った。思っただけで、口には出さなかった。
二枚目の布を替えた。十二分。手帳に書いた。
隣で、公爵が深く息を吸った。それから、ほんの少しだけ、私のほうへ顔を傾けた。
「……焼き菓子の匂いがする」
「はい」
「機嫌が、いいのか」
この人は以前から、匂いで私の機嫌を当てようとしては、たいてい外していた。
「今日は、わざとです」
外れてばかりの人に、一度くらいは当てさせてみたかった。
公爵は口を開けたまま、言葉をなくした。鼻が利きすぎる人は、嗅いでいないふりもできない。隠しようのないその顔を、私は横から黙って見ていた。
ひとつだけ、訊いておきたかった。
「布は、作り方を覚えれば誰でも縫えます。替える時刻も、手帳に全部書いてあります」
「知っている」
「でしたら」
「布は、混ざったものを消してくれる。だが、白いだけの空気なら、北の雪原にいくらでもある」
公爵は、私の手首のあたりに目を落とした。
「その白さの中に、君がいる。それが欲しかった。……君の香りなら、ずっとそばにいたい」
広間のざわめきが、少し遠くなった。
「そのお申し出ですと、十二分ごとの交換係もついてまいりますが」
「それも頼みたい」
「……はい」
返事をした自分の声が、いつもよりはっきり聞こえた。
社交期が終わった今も、私は工房で、誰かの香りを消す調整を続けている。公爵との結婚を控え、北へ移る日までは、王都の工房に通うことにしている。消す仕事は、今でも目を閉じたままこなせる。それを恥ずかしいと思ったことは、一度もない。
名前を書いた小瓶は、二本目になった。
中身がわかるのは、隣に立つ人だけだ。それで、足りている。




