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「存在感がない」と婚約破棄されましたが、鼻が利きすぎる北の公爵様は、私の隣でだけ息ができるそうです

作者: mizuhashi
掲載日:2026/11/06

1


「隣にいても、存在感がないんだよ」


婚約者にそう言われたのは、社交期の開幕を告げる夜会の最中だった。社交期の終わった今でも、あの声の調子はよく覚えている。


大広間の壁際。楽団がちょうど二曲目を終えたところで、近くにいた何人かが、振り向かないふりをして耳だけこちらに向けた。


マティアス・エーベルトは伯爵家の嫡男で、私とは婚約して二年になる。


「君といると、ひとりで立っている気がする。だから婚約は解消したい。カーステン家のヴィオラ嬢と話を進めることにした」


彼の視線が、一瞬だけ広間の中央へ流れた。そこには、真新しい髪飾りをつけた令嬢が立っていた。


私は、すぐには返事をしなかった。


頭に浮かんだのは、ふたつの話だった。


エーベルト家に借金があることは、婚約のときに父から聞かされていた。カーステン家が娘に破格の持参金をつけるという噂は、工房に出入りする仕立て屋の女主人が先月教えてくれた。


並べると、答えのような形になる。


でも、それを口にしたところで何も変わらない。


「承知しました。父には、私から伝えます」


マティアスは拍子抜けした顔をした。泣くか、すがるか、何かを期待していたのだと思う。


正直に書くと、悔しさより先に来たのは、妙な納得だった。


私は子爵家の娘だが、昼間はゼーリヒ工房で調香師の見習いをしている。香りを扱う人間は、自分に香りをつけない。石鹸も髪油も無香のものを選び、肩掛けの裏には自分で縫った小袋をつけて、吸香布を一枚差し込んでいる。白泥と菩提樹の炭を染み込ませた布で、腕一本分ほどの範囲の香りを吸う。夜会の匂いを髪や服に持ち帰らないための工夫だった。


存在感がない。


調香師にとって、それはほとんど褒め言葉だ。


ただ、婚約者の口から聞くと、褒め言葉には聞こえなかった。


広間を横切って出口へ向かうあいだ、空気が背中にまとわりついた。薔薇、麝香、柑橘、白檀。ひとつずつなら上等な香水なのに、百人分が重なると、甘いものを煮詰めすぎた鍋の底のような匂いになる。布があっても、広間の空気はこれだけ重い。来月の試験には「混ざった香りの分解」という課題があったな、と、どうでもいいことを考えながら扉を閉めた。


廊下は少しだけ涼しかった。


その先で、背の高い男性が壁に手をついていた。


濃紺の礼装。片手で口元を押さえ、肩で浅く息をしている。酔った客かと思ったが、顔色が違った。血の気が引いて、唇まで白い。


「大丈夫ですか。人を呼びましょうか」


近づいた瞬間、彼の呼吸が、ふっと深くなった。


男性はゆっくり顔を上げて、私を見た。灰色の目だった。


「……君は、何の匂いもしないな」


初対面の挨拶としては、かなり変わっている。


「少しだけ、隣にいてくれ。頼む」


断る理由が見つからなかった。私は彼の隣に立ち、同じように壁に背を預けた。


扉の隙間から流れてくる甘さが、私たちから腕一本分ほどのところでぷつりと途切れた。そこから内側だけ、洗いたての布を広げたように空気が白い。私にとっては毎日の、何もない空気だった。その中で、男性の肩がゆっくり下りていった。


「ノルトハイムだ」と、彼は名乗った。


北の公爵の家名だった。何年も社交の場に出てこない方だというのは、王都では誰でも知っている話だった。


「嗅覚の加護が強すぎてな。弱めることができない。香りがひとつなら平気なんだが、ああして混ざると、息の仕方がわからなくなる」


「それなら、なぜ夜会に」


「用がある」


それ以上は言わなかった。


試しに、一歩だけ離れてみた。給仕を呼ぼうと思ったのもある。


公爵はすぐに咳きこんだ。


私は戻った。咳が止まった。


それで、わかった。


私の体に香りがないだけでは、こうはならない。肩掛けの裏の布が、周りの香りを吸っている。だから私の隣だけ、空気の混ざりが薄くなる。一歩離れれば、そこはもう普通の廊下だ。


懐中時計を見た。布は、マティアスに呼ばれる直前に替えたばかりだった。混んだ広間なら十五分ほどで吸いきってしまう。広間で数分、廊下に出てから十分足らず。人の少ない廊下なら少しはもつだろうが、いつまでもではない。


まもなく、公爵の眉がかすかに寄った。


私は手提げから予備の布を出し、小袋の中身を入れ替えた。使い終わったほうは油紙に包み、手帳に書きつけた。二番を回収、三番に交換、二十一時十二分。近くにいた人、ノルトハイム公爵。


作業ごとに記録をつけるのは、工房で叩きこまれた癖だ。


公爵の呼吸が、また深くなった。


「今、何をした」


「布を替えました。香りを吸う布です。吸える量に限りがあるので」


彼は、私の手元と顔を交互に見た。


「君の隣だと、息ができる。ただし、君が布を替えてくれる限り、か」


「……そういうことになります」


「名前を聞いてもいいか」


「イルゼ・ローエンです。ゼーリヒ工房で見習いをしています」


「イルゼ・ローエン」


公爵は、確かめるように一度だけ繰り返した。


「覚えた」


その夜、私は二年分の婚約をなくした。


二年隣にいた人には、存在感がないと言われた。


十数分隣にいただけの人は、私の名前を覚えた。


どちらが正しいのかは、まだわからなかった。ただ、廊下の白い空気の中で、私は久しぶりに、自分がちゃんとそこに立っている気がしていた。



2


公爵が工房に来たのは、あの夜会から三日後の昼だった。


その三日のうちに、父への報告は済ませていた。翌朝の食卓で順を追って話すと、父は長いあいだ黙り、それから「エーベルト家には私が書状を出す」とだけ言った。持参金の話は、私からはしなかった。噂と噂をつないだだけのものを、父の怒りに足したくなかった。


ゼーリヒ工房の扉は、開けるたびに大きくきしむ。顔を上げると、濃紺の外套が戸口をふさいでいた。


「ノルトハイムだ。ゼーリヒ殿に頼みがある」


師匠のマルテは、乳鉢を回す手を止めなかった。


「公爵様がうちに何のご用だい。香水なら表通りの店のほうが瓶がきれいだよ」


「香水は要らない。消してほしい」


頼みはこうだった。社交期のあいだ、どうしても顔を出さなければならない席がいくつかある。そこへ工房の調香師として、イルゼ・ローエンに同行してほしい。布の替えどき、立つ場所、近づけてはいけない香り。その判断を任せたい。


「要するに、公爵様の鼻休めかい。布だけ買っていけば済む話だろうに」


「布は、替えどきを教えてくれない」


師匠はそこで初めて手を止め、もうひとつ聞いた。


「嫁探しのついでなら、よそを当たっておくれ」


「調香師として頼んでいる。報酬は工房を通す」


正直に書くと、その返事に少しほっとした。婚約をなくして三日目の娘を、誰かの隣に飾っておく話なら、断るつもりでいた。


師匠は私のほうを向いた。


「来月の試験に、混ざった香りの分解があったろう。本番の空気を毎回持ち帰れるんだ。悪い話じゃないよ」


契約書の末尾に、公爵は署名した。ラウレンツ・ノルトハイム。私がその名を知ったのは、インクが乾くのを待っているあいだだった。


最初の仕事は、その場で始まった。公爵本人の無香調整だ。


預かった外套の襟に鼻を寄せると、杉の防虫香、洗濯糊、馬具の革が、薄い層になって重なっていた。ひとつずつなら弱い。けれどこの三つは、持ち主の鼻のすぐ下で一日じゅう混ざり続ける。


「ご自分の服で、息苦しくなることはありませんか」


「……ある。朝のうちだけだが」


外套は白泥を溶いた湯に一晩浸け、日陰で干した。糊は無香のものに替えるよう、公爵家の洗濯係あてに書き付けを持たせた。二日後に届け直すと、公爵は自分の袖にしばらく顔をうずめて、「静かだ」と言った。


服の匂いを消して褒められたのは、生まれて初めてだった。


最初の席は、契約から五日後の茶会だった。前日に会場の客間を下見した。窓は南向きに三つ。花は暖炉の脇にまとめて飾るという。香水の強い年配の夫人方は、たいてい暖炉のそばに集まる。私たちの席は、いちばん西の窓辺に決めた。窓を細く開けてもらえば、そこが風上になる。布は、その晩のうちに十二枚縫い足した。


当日、工房まで迎えに来た馬車の中で、公爵は私を見るなり言った。


「今日は焼き菓子の匂いがする。機嫌がいいな」


「工房の換気が悪かっただけです」


昼に師匠が、薬草の乾燥炉でおやつのビスケットを温め直したのだ。私は髪の先をつまんで、調香師として小さく絶望した。


機嫌のほうは、普通だった。たぶん。


茶会は十四時に始まった。客は四十人ほど。大広間ほどではないにせよ、念のため布は十五分ごとに替えることにした。番号、時刻、近くにいた人。手帳に一行ずつ書き足していく。使い終えた布は油紙に包んで持ち帰る。試験の練習に、あとで洗い出すつもりだった。


六番に替えたのが十五時十五分。七番が十五時三十分。


その少しあと、ヴィオラ・カーステンが窓辺にやって来た。


「公爵様が茶会にお見えなんて。皆さま驚いていらっしゃいますわ」


それから、目だけを私に移した。


「あら、ローエン様。いらしたのね。少しも気づきませんでした」


言葉づかいは丁寧だった。中身は、あの夜会で別の口から聞いたものとよく似ていた。


ヴィオラ嬢は、公爵との間を扇一本分まで詰めた。香りが来た。白百合に蜂蜜を重ねた、よくできた香水だった。ただ、その底に一筋だけ、工房の棚のどの瓶とも合わない甘さが沈んでいた。名前を探しているうちに、彼女は会釈をして離れていった。


公爵の眉が寄っていた。七番はまだ八分しか使っていない。それでも私は小袋を開け、八番に入れ替えた。


七番を回収、八番に交換、十五時三十八分。近くにいた人、ノルトハイム公爵、カーステン男爵令嬢。


書き終えたとき、公爵が窓の外に目を向けたまま、低く言った。


「北で焼き捨ててきた匂いだ」


「何のことですか」


「……いずれ話す」


それきり、公爵は口を閉じた。私はその言葉を、時刻の下に小さく書き添えた。


あの一行にどれほどの重さがあったのか、当時の私はまだ知らなかった。ただ帰り道、七番の油紙だけはほかの布と分けて、手提げの内ポケットにしまった。名前の出てこなかった甘さを、師匠に嗅いでもらうつもりだった。


少しも気づかなかった、と彼女は言った。


その彼女がそこにいた時間帯は、私の手帳に、きちんと残っていた。



3


七番の布を師匠に渡したのは、茶会から戻ったその晩だった。


油紙を開いた師匠は、鼻を寄せてすぐに離し、もう一度、今度は時間をかけて嗅いだ。


「棚にないね。うちのにも、表通りの店のにも」


師匠が名前を言えない香りに出会ったのは、弟子になって初めてだった。


翌朝、扉がきしむより先に、外から公爵の声がした。


「昨日の布は、まだ洗っていないか」


洗っていません、と答えると、公爵は作業台の端に立ったまま話し始めた。


北の領地の奥で、夜啼き蘭を育てている畑を見つけたこと。その根からとれる樹脂を練った香を、甘睡と呼ぶこと。畑も、蔵に積まれていた樹脂も、自分の手で焼いたこと。


「焼き捨てたというのは、それだ。ただ、買い手の名はひとつも出てこなかった。私は、買い手が王都にいると見ている」


甘睡は人を操る香ではない、と公爵は言った。近くで繰り返し嗅いだ相手の警戒をゆるめ、好意を少しだけ上乗せする。たまにすれ違うだけの相手には効かない。一時間もすると香りが痩せるので、使う者は付け直す。


「禁制香を取り締まる権限は私にある。だが私の鼻は、裁きの場では証拠にならない。嗅いだのが私ひとりなら、ただの言い分だ」


師匠が棚の奥から、薄い木箱を下ろした。ギルドから配られて十年、一度も封を切ったことがないという鉄明礬紙だった。


「甘睡が混じっていれば青紫になる。試験には出ないよ。たぶんね」


検査は私がした。並べた布は四枚。七番と、その前の六番、あとの八番。それに、縫ったきり一度も使っていない一枚。どれも同じ量の酒精に浸し、砂時計を一度返すあいだ置いた。


小皿から立ちのぼる甘さは、七番のものだけが違っていた。茶会の窓辺では白百合と蜂蜜の下に沈んでいた一筋が、酒精の中では、いちばん上に浮いていた。


ガラス棒で一滴ずつ、紙に落とした。


使っていない布。色は変わらない。六番。変わらない。八番。変わらない。


七番の滴だけが、落ちた真ん中から縁へ向かって、じわりと青紫に広がった。


師匠は紙を窓の光にかざしてから、記録の末尾に署名した。マルテ・ゼーリヒ、ギルド認定調香師。私は手帳を開き、七番の行を読み返した。十五時三十分から三十八分。近くにいた人、ノルトハイム公爵、カーステン男爵令嬢。


「この紙で言えるのは、その八分のうちに、腕一本分の内側に甘睡があった、というところまでです」


自分の声が、思ったより硬かった。


「誰が持っていたかは、紙には出ません。六番と八番のときも公爵様と私は同じ場所にいて、色は変わりませんでした。言えるのは、そこまでです」


「それで足りる」と公爵は言った。「所持検査には、物で裏付けた疑いが要る。これがそれだ」


付け直しが要る香なら、長い席には小瓶を持ってくるはずだ、と公爵は続けた。私は手帳をめくり直した。ヴィオラ嬢が窓辺に来たのは、記録の上では一度きりだった。


「途中で席を外したかどうかは、見ていません。小瓶も、見ていません」


「わかっている。だから検査をする」


公爵は署名入りの記録を持って、警備隊とギルドの監察官のもとへ向かった。


ひとりになった工房で、私は少しだけ、仕事と関係のないことを考えた。


ヴィオラ嬢は、マティアス様の新しい婚約者だ。甘睡は、繰り返し近くにいた相手の好意を上乗せする。もし、あの人が誰かに甘くされたせいで私を手放したのなら、私は少し楽になれる気がした。


その考えは、手帳に書かなかった。書けるだけの材料が、どこにもなかった。


公爵が戻ってきたのは、日が落ちてからだった。師匠が帰ったあとの作業台で、私は検査記録の写しを清書していた。


戸口で、公爵の鼻が小さく動いた。


「怒っている匂いがする」


「インクです」


没食子インクの、錆に似た渋い匂いが、作業台いっぱいに広がっていた。ペン先を押しつけすぎて、三か所にじませたせいだ。押しつけた理由が怒りではなかったとは、言い切れなかった。


「私を雇ったのは、捜査のためだったんですか」


公爵はすぐには答えなかった。


「探さなければならない席で、息ができなかった。だから君を雇った。どちらも本当だ。黙っていたのは、私が悪い」


言い訳をひとつも足さない謝り方だった。おかげで、怒りの置き場がなくなった。


「警備隊は動く。五日後、ヘルマー伯爵家の夜会だ。カーステン嬢も招かれている。監察官が立ち会う」


「では、布の数を決めます。広間の間取りを教えてください」


公爵はそこで、ようやく少し笑った。


「君の記録がなければ、私の鼻はまた、ひとりで騒いでいるだけだった」


それから一歩、作業台に寄った。ちょうど、隣の距離だった。


「ここは静かだ。インクの匂いしかしない」


「……窓を開けます」


立ち上がりながら、耳が熱いのに気づいた。それが匂いになって公爵に届かないことを、本気で祈った。


その晩、布を二十枚縫った。一枚ごとに、隅へ番号を書き入れた。


誰の目にも留まらなくていい。留まらないまま、そばで起きたことを覚えておく。それが、私の仕事だった。



4


ヘルマー伯爵家の大広間は、五日前に教わった間取りのとおり、窓が少なかった。


私は公爵の隣に立ち、肩掛けの裏の布を十五分ごとに替えた。一枚替えるたびに、手帳へ時刻と、近くにいた人の名を書き足した。


カーステン嬢は、マティアス様の腕に指を添えて入ってきた。


マティアス様は一度もこちらを見なかった。見なかったのか、目に入らなかったのか。どちらにしても、もう手帳に書くことではなかった。


二十一時を少し回ったころ、カーステン嬢がひとりで広間を出ていった。入ってきてから、一時間ほどたっていた。私は時刻を書き、横に「中座。この目で見た」と添えた。茶会の日には書けなかった一行だった。


戻ってきた彼女を、廊下の手前で監察官が呼び止めた。


控えの間には、公爵と私も呼ばれた。検査の記録を書いた者として立ち会うように、と監察官は言った。


「香水を持ち歩くのが、罪になるのですか」


カーステン嬢の声は少しも揺れなかった。警備隊長が手提げ袋の口を開け、中身を一つずつ卓に並べた。手鏡。白い陶の香水瓶。扇。それから、親指ほどの、色の濃いガラスの小瓶。


監察官が、その栓を抜いた。


掘り返したばかりの湿った土に、蜜をかけたような重い甘さだった。七番の布を酒精に沈めたとき、いちばん上に浮かんできたあの一筋が、薄まらないまま、そこに詰まっていた。


公爵の息が浅くなった。私は半歩寄って、肩掛けの布を新しいものに替えた。


検査は私に任された。ガラス棒で瓶の口をなぞり、酒精に溶かして、監察官の持ってきた鉄明礬紙に一滴落とす。青紫は、落ちたそばから濃く広がった。七番のときより、ずっと速かった。


監察官が記録に署名した。


紙が教えてくれたのは、瓶の中身が甘睡だということだけだ。その瓶がカーステン嬢の袋から出てきたのは、私が自分の目で見た。二つはそろった。それでも、茶会の八分に持主の名を書き込むかどうかを決めるのは、私ではなく裁きの場だった。


袋の底には、もうひとつ、革表紙の手帳が入っていた。


警備隊長がめくるページを、監察官が横から読み上げた。家名と、嫡男の名。日付と時刻。会った場所。その横に短い印が、何度も、何度も続いていた。


番号と、時刻と、近くにいた人。私の手帳と同じ形だった。違うのは、何のために書いたかだけだった。


監察官が、あるページで指を止めた。


「エーベルト伯爵家の嫡男を、ここへ」


連れてこられたマティアス様は、警備隊長の脇に立たされたカーステン嬢から、一歩離れた。それから、部屋の隅にいる私を見て、目を見開いた。そこにいたことに、たった今気づいた顔だった。


「僕も、その香りにやられていたんだ。だからイルゼに、あんなことを」


久しぶりに名前を呼ばれた。言い訳の材料として。


公爵が、静かに口を開いた。


「今夜の君からは、甘睡の匂いはしない。だが、私の鼻でわかるのは今夜のことだけだ。それより前のことは、私にもわからない」


監察官が、指を止めていたページを読み上げた。


「エーベルト家嫡男。持参金の額につき、先方より二度問い合わせあり。甘睡、不要。表向きに適す」


日付は、開幕の夜会よりも前だった。


「問い合わせたのは、事実ですか」


マティアス様は口を開き、閉じ、もう一度開いた。


「……家には、事情があったんだ」


否定ではなかった。


カーステン嬢が、そこで初めて笑った。小さく、短く。誰に向けた笑いだったのか、私にはわからなかった。


警備隊長が彼女の手首に縄をかけた。そのとき、マティアス様が監察官に尋ねた。


「婚約は。カーステン家の持参金の話は、どうなるんです」


最初に訊いたのが、それだった。


答えたのは、扉を押さえていた若い隊員だった。「お屋敷のほうも、今夜あらためます」


それきり、マティアス様は何も言わなかった。


茶会のあとの工房で、ひとつだけ考えたことがある。あの人が甘くされていたのなら、私は少し楽になれる、と。その逃げ道は、帳簿の一行でふさがった。痛むだろうと思っていた。実際には、洗い終えた布のように、何も残らなかった。


広間には戻らず、公爵と裏庭へ抜ける廊下に出た。


扉を閉めると、甘さも百合も遠のいて、隣の空気がゆっくり白く澄んでいった。公爵は壁にもたれて、長く息を吐いた。


「終わった。君のおかげだ」


「布のおかげです」


「替える時刻を決めたのは君だ」


それから公爵は、珍しく言葉を探すようにした。


「社交期の終わりに、王宮で舞踏会がある。探すものは、もうない。それでも、隣にいてくれるか」


隣にいる理由は、今夜で片づいたはずだった。考えさせてください、とだけ答えた。


その夜、工房の棚の前に立った。弟子になってから組んできたのは、誰かのための香りと、誰かの香りを消す調整ばかりだった。消すほうなら、目をつぶっていてもできる。


空の小瓶を一本下ろして、ラベルに自分の名前を書いた。


中身は、まだ一滴も決まっていなかった。



5


名前を書いた小瓶は、三日のあいだ、空のまま棚に立っていた。


入れたくないものなら、すぐに挙げられた。広間の向こうまで届く香り。人を振り向かせる香り。誰かの隣で、その人の息を浅くする香り。


公爵は、穏やかな香りが一つきりなら平気だと言っていた。苦しいのは、いくつもが混ざった空気のほうだ。それなら、遠くへ飛ばない香りを一つだけ作ればいい。理屈はそれで足りた。


四日目の晩、炒った大麦を乳鉢でつぶし、菩提樹の花の浸出液と、杏の仁をほんの少し合わせた。どれも重い香料で、肌の温みを受けてようやく立ちのぼる。顔を寄せると、焼き上がりを待つ窯のそばに立ったような、乾いた温かさがあった。腕を伸ばした先では、もう何もしない。


つける場所は、手首の内側と鎖骨の下に決めた。そこから肩掛けの裏の布までは、腕一本分もない。外へこぼれていく分は、布が吸う。


ただ、布は私の香りまで飲むことになる。十五分と決めていた交換を、十二分に縮めた。手帳の数字を書き直して、下に線を引いた。


師匠は小瓶の口を一度だけ嗅いで、鼻を鳴らした。


「隣に立たなきゃわからない香水なんて、売り物にならないね」


「売るつもりはありません」


「知ってるよ。だから、いい出来だって言ってるんだ」


翌日、公爵が工房に来た。監察官から届いた知らせを、伝えに来たのだという。カーステン家の屋敷からは、同じ色の小瓶がさらに何本か出た。家の財産は、裁きが済むまで押さえられる。持参金の話は、どの家とのものも宙に浮いた。


私は聞いたとおりを手帳に写し、それから顔を上げた。


「舞踏会には、参ります」


公爵はしばらく黙り、「そうか」とだけ言った。耳の先が赤かった。小瓶の栓は固く締めてあったから、香りのことは知られずにすんだ。


王宮の大広間は、ヘルマー伯爵家の倍は広く、窓も高かった。それでも何十という香水が天井の下で溶け合い、入口に立っただけで喉の奥が重くなった。


公爵の隣に立ち、一枚目の布を替えた。


二枚目を替える前に、マティアス様が来た。


二歩ほど手前で足を止め、そこから話しかけてきた。あの夜から、少し頬がこけて見えた。


「イルゼ。少しだけ、いいかな」


公爵が気をきかせて身を引こうとしたので、私は袖の端をつまんで止めた。ここで離れたら、息ができなくなるのはこの人のほうだ。


「うちのことは、聞いているだろう。カーステン家の話は消えた。あのころの僕は、どうかしていたんだ。君となら、もう一度やり直せると思う」


ローエン家の持参金は、カーステン家の噂の額には遠く及ばない。それでも、ないよりはましなのだろう。


あの人が一度でも甘くされていたのかどうかは、誰にも確かめようがない。確かなのは、問い合わせが二度あったことと、あの人がそれを否定しなかったことだけだった。


マティアス様は、私の顔をしげしげと眺めた。


「君は変わらないね。今日も、何もつけていない」


「つけています」


あの人の眉が寄った。


「あなたの立っているところまでは、届かないように作りました」


二歩の距離が、そのまま答えだった。


「届かせるつもりも、ありません。お話は、それだけです」


マティアス様は何か言いかけて、やめた。人の波に戻っていった背中は、すぐにほかの燕尾服と見分けがつかなくなった。存在感がない、というのはこういうことかと思った。思っただけで、口には出さなかった。


二枚目の布を替えた。十二分。手帳に書いた。


隣で、公爵が深く息を吸った。それから、ほんの少しだけ、私のほうへ顔を傾けた。


「……焼き菓子の匂いがする」


「はい」


「機嫌が、いいのか」


この人は以前から、匂いで私の機嫌を当てようとしては、たいてい外していた。


「今日は、わざとです」


外れてばかりの人に、一度くらいは当てさせてみたかった。


公爵は口を開けたまま、言葉をなくした。鼻が利きすぎる人は、嗅いでいないふりもできない。隠しようのないその顔を、私は横から黙って見ていた。


ひとつだけ、訊いておきたかった。


「布は、作り方を覚えれば誰でも縫えます。替える時刻も、手帳に全部書いてあります」


「知っている」


「でしたら」


「布は、混ざったものを消してくれる。だが、白いだけの空気なら、北の雪原にいくらでもある」


公爵は、私の手首のあたりに目を落とした。


「その白さの中に、君がいる。それが欲しかった。……君の香りなら、ずっとそばにいたい」


広間のざわめきが、少し遠くなった。


「そのお申し出ですと、十二分ごとの交換係もついてまいりますが」


「それも頼みたい」


「……はい」


返事をした自分の声が、いつもよりはっきり聞こえた。


社交期が終わった今も、私は工房で、誰かの香りを消す調整を続けている。公爵との結婚を控え、北へ移る日までは、王都の工房に通うことにしている。消す仕事は、今でも目を閉じたままこなせる。それを恥ずかしいと思ったことは、一度もない。


名前を書いた小瓶は、二本目になった。


中身がわかるのは、隣に立つ人だけだ。それで、足りている。

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