あの方
華やかな花街にある1つの小葉館の中でも小さなものから大きなものまで争いは絶えない。
金糸の灯籠が廊下を埋め尽くし、香炉の煙が甘く漂い、玄関口からは笑い声と笛の音が途切れなく聞こえてきた。
煌びやかな衣をまとった妓女たちが、客を迎え入れるために廊下を優雅に歩く――。
その先に、天妓三姫の一人・司翠の姿があった。
司翠「――今夜は、あの方が来るのねっ」
子妓が緊張した顔で囁くと、司翠はふっと微笑む。
司翠「あの方が来れば小葉館も潤います」
「あの方」は祝街の屈指の商家の主、文斗という男だ。
新しい娯楽や珍しい芸を好み、気に入れば一晩で一千両を投げることで知られる。
司翠の長年の太客であり、彼女の機転と話術、そして夜の腕前に惚れ込んでいる。
彼を飽きさせないために、司翠は常に何か新しい刺激を用意してきた。
司翠「――文斗様、お待ちしておりましたっ。本日は新しい舞、剣舞をご覧になりませんか?」
スルスルと文斗の横に軽やかな声で寄る。
司翠は纱帘向こうで稽古をしている白蕾の姿を見やりながら、扇をパチンと鳴らした。
司翠「――、白蕾を舞台に上げて」
「は、はい!」
白蕾本人には、まだ何も伝えていない。
天妓三姫の上客に舞を披露する。
下級妓女にとっては恐れ多いことでもあり、同時に千載一遇のチャンスでもある。
が――。
「文斗様の目を奪えば、あの子も……この世界の価値がわかるでしょう」
司翠の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
笛と琴が奏でられ、香の煙がゆらゆらと天井へ昇る。
文斗は太い腹を揺らしながら、一番派手な金階陣取っていた。
文斗「司翠嬢、今宵もよろしくな!」
司翠「もちろんです」
文斗はバンバンと司翠の背中を叩く。そんなことができるのは文斗だけだろう。
司翠は艶やかに頭を下げる。
司翠が手を打つと、障子が音もなく開いた。
そこに現れたのは、真っ白な衣、真っ白なお面を被ったの白蕾だった。妓女たちがひそひそとさざめく。
「どうして文斗様の舞台にあの女が?」
「司翠様の采配じゃない?」
失神してしまうほどの大舞台で失敗させ、剣舞は大したことないのだと見せつけるための舞台だった――。
この空気感に包まれた香膳では妓女たちが期待を膨らませる。
司翠様からの挑戦状。
――あの人なら真顔で何事も無くこの舞台を終わらせてしまう。
だからあたしもそうする。
頭の中に自分の心臓の音が響いてうるさい。
あの客を喜ばせたいのではない。
あの客は祝街と下庭、花街、宮中までも顔の広いお方だ。少しでも興味を引いてお食事でお喋りをして情報が欲しい。こんなところで足踏みしてる場合じゃない。
剣舞が始まる前に自分の手のひらに刀の先をあてる。ちゃんと痛い。集中――。
笛の音が鳴った瞬間、身体は自然に動いていた。
静寂を裂くように、銀の刃が月光を受けて煌めく。
妓楼の芸とは一線を画していた。刀は力の象徴だ。だが刀が美しさの象徴としてここで咲いている――。
夜の暗闇、奥の間の黒には真っ白な衣と、光を反射する剣が人々の興味を集める。
白の衣なんて派手さが足りないと思っていた。
質素ではなくこれが「品」であることをそこにいた妓女たちは見せつけられる――。
ざわめいていた客席もいつの間にか静まり返っている。
文斗が目を見開き、扇を止める。
妓女たちも、三姫も、息を呑んで見ている。
白蕾の剣は、妓楼の装飾の中で異彩を放ち、まるで別世界を持ち込んだかのようだった。
――一拍の沈黙。
文斗「……素晴らしい!!」
金が舞台へ投げ込まれ、奥の間にいた客たちも拍手を送る。
司翠は文斗の横に座り、扇を静かに閉じた。
晴晴「――さすが司翠だな」
晴晴の金階へ戻ると、心の緊張や、剣舞を待っていた熱が押し寄せてくる。やっと呼吸ができたような感覚だった。
これであの方からお声がかかればお話を聞けるかもしれない……。
緊張していたが、ここにいるのに、まるでここへいないような気分になり自分でも不思議だった。誰かの前で話すことは苦手なのにあたしはお面をつけば何にだってなれちゃう、集中できている、そんな気がした。
翠はが音もなく入ってきた。
晴晴「周りはこいつが失敗すると思った。が、お前はこいつがやると思ってた、か」
晴晴はあたしの衣を掴み、司翠へ見せつけるように何度も引っ張る。
晴晴の鋭い目は司翠様の天女のような姿に刺さる。
司翠「同じ妓楼だものっ。仲間を信じてあげなきゃでしょう?」
司翠様の声はいつものように高く柔らかく笑っている。
この二人のやりとりであたしはようやく悟ってしまった――。
これは司翠様の狙い通りだった――。
文斗様の興味をこちらに引かせることが目的だった。
――これで「ただの下級妓女」ではいられなくなる。
周りの妓女のように夜……体を売ることになる。
あたしの力で引き寄せさせたということだ。
司翠「あなたが舞えば、お客様も喜ぶ。あなたも得をする。――悪い話じゃないでしょう?」
甘い匂いを漂わせながら冷えた金貨を一掴み、あたしの手に乗せた――。




