5つの落簪
そしてついに杨鈴は落簪を取ることを辞めた――。
これは正式に懐妊したことを外部にも表したことになる。
司翠「杨鈴、おめでとう」
高光「おめでとう」
杨鈴の部屋は鳳凰を思わせるような赤と金に包まれた空間だったが、今は華やかな雰囲気ではなく、落ち着いた色合いになっている。
もう客を喜ばせる空間ではないことを意味する――。
杨鈴自身も色合いの落ち着いた衣に身を包み、体を冷やさないように厚着になっている。
司翠は腹帯を、高光は手縫いの五色紐(5色の糸で編んだ魔除けの紐)を杨鈴を思っての物を渡す。
杨鈴「ありがとう」
杨鈴は白く細長い手で受け取る。
杨鈴は今日も静かに笑う。
明日、5つの落簪の中から誰を父親として選ぶのか。
誰にもわからない――。
朝の光が小葉館を照らすと、妓女たちは自分の部屋から集まってくる。
小葉館の妓女が全員揃うことは落簪を天妓三姫が選ぶ儀式のときだけだ。
冷たい空気と、香膳の広間には妓女たちの香の匂いが充満している。
誰一人喋ることなくただ座ってそのときを待つ。
赤い祝衣を身に纏った杨鈴が舞台に現れると、女将小葉が5つの落簪を机の上に並べる。
金階の纱帘奥で隠された人物が5人見守る――。
舞台の下では杨鈴を憧れの眼差しで見る者、嫉妬の眼差しで見る者、誰を選ぶのか心配そうに見つめる者。
杨鈴の手の先を誰もが見つめ、賑やかな小葉館が静まり返る――。
杨鈴が女将小葉に1つの落簪を迷うことなく手渡した。
女将はその落簪を布に優しく包み名を呼ぶ――。
小葉「孫凉様――」
その瞬間香膳がざわめきに包まれる。
纱帘の向こう側の晴晴は大きくため息をついていた。
杨鈴が選んだ孫凉という人物――。
孫氏は高官になるまで1代で上り詰めることができるだけの優秀な人物だった。
そんな高官の孫氏の長男。
片目に眼鏡をかけ、長く伸びた髪は書物を読むとサラサラと落ち、男性的だが清潔で、落ち着きのある雰囲気で静かな青年というより男性。
――宮中では優秀な男だったが、裏の顔があったことはこの花街でも有名だったのだ。女を道具のように扱う、と。杨鈴が幸せを掴めるチャンスだったはず――。
晴晴「孫凉か――」
天妓三姫の一人として、感情を悟られてはいけない。
彼女はいつも、孫凉への想いを胸に隠して夜を生きてきた。
女将小葉は「孫凉」と書かれた落簪を1つの金階の先に伸ばした。
孫凉「――俺の子ではない」
静まり返った香膳に冷たい言葉が刺す――。
天妓三姫の最上位の杨鈴の落簪を押し返すことがあるのかと空気が張り詰める――。
他の妓楼から帰っていく男たちの笑い声が小葉館の中まで聞こえてくるほど静まり返っている。こんなことあるはずない、と。
まさか杨鈴を身請けしない、と――?
女将は一瞬呆気に取られたが言葉を続けた。
小葉「しかし――、孫凉様あなた様は杨鈴を選び、選ばれたのです」
孫凉は女将の顔も見ない。
ただ目の前の書物に目を通し続けている。
孫凉「父親になりたくてここに来ていたのではない」
孫凉は眼鏡を整えて書物を閉じた。その音でさえも冷たく響く――。
その横にいた5つの落簪の中の客の一人が孫凉の胸ぐらを掴んでいる。
孫凉「どうぞ、貴方様にお譲りします」
書物が汚れたことに目の上をピクピクさせ、本を優しくはたく。
まるで杨鈴のことには興味ない。と。
羽織を被り、小葉館を出ると向いの妓楼へ入って行った――。
こんなことになって平気でいられる人間なんていないはずなのに、舞台の上の杨鈴は表情1つ変えずに立っていた。
まるで孫凉が前の妓楼に入っていく姿を目に焼き付けるように、ずっと真っ直ぐ見ていた――。
司翠は怒りを爆発させ杨鈴の元に駆け寄った。
小葉館の妓女、5つの落簪で選ばれた2人の客たちが杨鈴の「見捨てられた女」として哀れの目を向けていたため杨鈴を舞台袖に下げた。
あんな男を選ぶからだ。俺を選ばないからだ――。と。
司翠「杨鈴、行きましょう!」
杨鈴はいつもこうだ。感情を表に出さない。肩を持っても何の反応もしない。
女将は4人の客に頭を下げて回るのに忙しい。
「杨鈴にいくら出したと思ってるんだ!」「孫氏の息子だからと、許せん」「女将がちゃんと教育しておけば小葉館の信頼も地に落ちることはなかったはずだ!」
上客は先日の文斗の事件も耳に入れていおり、女将はこれ以上信用をなくすことができないところまで来ている。
晴晴「落簪の制度は妓女を守るために皇帝陛下様が決めたことだろ。女将に言うよりも宮中に文句言うべきだろ」
晴晴は纱帘の向こう側で妓女に酒を注がせている。
「晴晴!小葉館に肩入れしすぎだ!」
晴晴「お気に入りの妓女がいる妓楼に肩入れして何が悪い」
「お前も杨鈴を買っていたんだろ!杨鈴を何度抱いた!」
晴晴「さあ」
「司翠か!高光か?!」
晴晴「さぁ」
晴晴は酒を注いでいた妓女に手を伸ばし、座ったままその妓女を抱き寄せた。
白蕾「晴晴様――」
晴晴「酒が薄いぞ」
白蕾「それは酒屋に言ってください」
晴晴「いい酒を入れるのも仕事のうちだろ」
白蕾「それは小葉様へ言ってください」
纱帘の向こう側の妓女の顔は黒と紫の衣を握りしめていた――。
晴晴「――なんでお前が怒ってるんだよ」
白蕾「――杨鈴様は孫凉様のこと心から好きだったはずです」
晴晴「なんでそうなるんだよ」
白蕾「2つ隣の黄陽様をお選びになると思っていたんです」
晴晴「俺も黄陽選ぶべきだとは思った」
白蕾「最後は感情で動きたかったのだと――」
目には涙を溜め、流れて行かないよう目に力を入れる――。
晴晴「杨鈴が俺を選んだらどうするつもりだった――?」
晴晴はがっしりと体を掴んだまま話さない。
この言葉に返事をしなければ逃げられない――。
白蕾「杨鈴様は賢いお方なので晴晴様ではないでしょう?」
晴晴「最後まで賢くあればあいつも――。お前があんまり人の感情を背負うな」
白蕾「でも、あれはあんまりです!金階へ来ていたのだから呼ばれる可能性だって視野に入れるべきです」
晴晴「……でもあいつは選ばれたからと言って堕胎は望まなかった。頭冷やして考えろ」
白蕾「え――」
晴晴様はどこまでわかっているの?
視野の広さにあたしはこの人についていけない。まだ私が見えていない部分があるの?
まだ考えなきゃいけない部分があるの――?
晴晴「杨鈴はそんな馬鹿じゃねー。白蕾もわかってるだろ」
そうだ――。
杨鈴様は美しさだけではない。
地頭の良さも要領の良さも持っているのに、こうなる可能性のある孫凉様を選んだの?
あの杨鈴様が傷つくのは嫌で、その感情だけで物事を捉え過ぎてしまった。
屋根裏部屋の窓際の景色も段々と暗くなり、花街の灯籠に光が宿り始める。ずっと考えているけど杨鈴様のことがわからない。
捨てられるために落簪を選んだの?でもなんで?
黄陽様を選んでいれば間違いなく愛されていただろうし、安定した生活が約束されていたはず。黄陽様は花街でも良客として有名で、宮中の文官の教師をしている。
あたしが杨鈴様の立場なら黄陽様を選んでいただろう。
晴晴も黄陽様がいいだろうって。誰が見ても黄陽様だったのでは――?
そして今日もあたしは剣舞を舞い続けるしかない――。
「――何やってるですか。前を向いてください」
そうだ――。
あたしは前を向かなきゃ。
今日もこの優しい声があたしを動かしてくれる――。
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