前世は魔女
(人の心は時と共に変化する。それなら、全ての理から外れ、超越した生き物も変化するのだろうか。全てのものに有限があるように、私達もまた、有限なのだろうか。)
遥か昔、この世界は二つの者に分けられていた。
生まれながらに魔力を持つ者「マギア」と、魔力を持たない者「ノウズ」。
魔法は複雑で高度な術式で編まれ、限られた才能ある者しか扱えなかった為、世界は魔法を操る資格を持つ者たち――「マギア」によって支配され、ノウズは差別されてしまった。
特に、魔法を極め、その頂点に君臨する七人の魔法使いはそれぞれ、傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰の魔女と呼ばれ、その強大な力で世界の秩序を保っていた。
しかし、ある一人の魔女の行動が、世界の情勢を大きく変えることになる。
その魔女は、誰も解読できなかった魔法の術式を解析し、誰もが扱える形へと簡略化したのだ。
それにより、魔法は魔法使いだけのものではなくなり、「ノウズ」でさえ魔法を学び、使えるようになった。
その魔女こそ――傲慢の魔女。
さらに彼女は、他の魔女が魔力を持つ弟子だけを選ぶ中で、唯一「ノウズ」を弟子として迎え入れたことでも知られている。
何故、彼女がノウズを選んだのか......その理由は未だ不明だが、魔法そのものに執着し、魔法の変態とまで呼ばれていた彼女だった為、きっとそれも、魔法を極めるための選択だったのだろうと、人々は深く干渉しなかった。
だが――そんな傲慢の魔女は、世界樹の魔力暴走と共に忽然と姿を消した。
七人の魔女とその弟子達、世界中の人々は彼女の死を深く悼み、悲しみに暮れた。
それから長い歳月が経ち、魔女の死も世界中の悲しみも全て過去の出来事となった数十年後――
穏やかな午後の陽射しが、眠気を誘うように差し込む温かい季節。
心地よい風が通り抜け、外では快晴の空の下、動物たちとはしゃぐ愛らしい少女――を横目に、日の当たらない家の中で分厚い本を手に古びた椅子に腰掛けている少女が一人。
彼女の名は、テア・シャ=ロシャ。
艶やかに揺れるプラチナブロンドのゆるやかなウェーブの髪に、宝石のように輝くルビーピンクの瞳。
陶器のように白い肌を持ち、誰もが魅入られる程の美貌を持つその少女は――かつて「傲慢の魔女」と呼ばれ、世界に崇められた最強の魔法使いだ。
世界樹と共に消滅したと思われていた彼女だったが、
目を覚ますと、何故か新しい人生を歩む事になっていた。
それも、前世の記憶と圧倒的な魔力を抱えたまま。
「ティーシャ〜!!」
そんな彼女の元に、一人の少女が駆け寄って来た。先程まで、楽しそうに動物と戯れていた陽の光のような少女だ。
「ティーシャ!一緒に遊ぼ!」
本名はテア・シャ=ロシャ。しかし、彼女の両親も友人も、なぜか皆「ティーシャ」と呼ぶ。
彼女の両親は少し抜けていて、名前をつける時も深く考えず、楽観的だった。どんな名前が良いかと話し合った末、「好きなものから取ろう」という結論に至った。
その結果、母親の好きな紅茶=テア、父親の好きな猫=シャを合わせて「テア・シャ」。それが崩れて「ティーシャ」と呼ばれるようになったのだ。
「何してるの?」
友人と呼ぶには少し距離のある少女が、本を読みふける彼女に声をかけた。
「『魔力と魔素の物理的法則とその神髄による新解釈』を読んでる。」
「げっ……そんな本よりも、こっちの絵本の方が面白いわよ?」
「いや、この書も面白いよ。魔力と魔素が衝突すると物理的な力が生まれる……魔力と魔素は目に見えない量子みたいなものだから、術式を編み込まずに物理的衝撃が生まれるのは非常に興味深い……」
本に没頭する彼女を見て、少女は苦虫を噛み潰したような微妙な顔をした。
「……ティーシャ、お外で一緒に遊ぼうよ?」
「待って、今いいところ。もう少しで、魔力と魔素の物理法則の核心に辿り着きそうなの。」
少女は諦めたようにため息をつくと、一緒に遊んでいた動物たちのもとへ駆けて行った。
* * * * *
「ティーシャ。」
あれから数時間が経った頃、母親が声をかけてきた。
「何?」
「今度はどんな本を読んでるの?」
「中級魔法の解析書。」
そう答えた瞬間、母親は軽くため息をついた。
「……また魔法の本を読んでるの?ティーシャは将来、魔法使いになりたいの?」
「違う。」
「じゃあ、どうしてそんなに魔法の本ばかり読むの?魔法使いになる気がないなら、エリゼと一緒に外で遊んだほうが楽しいでしょう?」
彼女は窓の外に視線を移した。
小川で水遊びをする子供たち、動物と戯れる子供たち、おままごとに夢中な子どもたち――。
けれど、そのどれにも彼女は心を動かされなかった。
そんな彼女の様子を見て、母親は心配そうに質問した。
「ティーシャは……この生活が嫌?」
「嫌ではないよ。むしろ、この自然が生み出す魔素に対して非常に高い興味と関心を……」
そう言おうとして辞めた。
過去に一度、子供らしくない答えをして、両親に精神病院へ連れて行かれた記憶が頭をよぎったからだ。
「……分かった。」
それ以上は何も言わず、重い腰を上げる。
母親もその空気を察したのか、黙ったまま彼女を見送った。
「眩しい……くらくらする。」
外へ出ると、彼女の目に鋭い陽の光が差した。
季節はまだ春のはずなのに、部屋にこもってばかりの彼女には、外の空気は夏のように感じられた。
「ティーシャ〜!」
柔らかな陽射しが降り注ぐ青空を眩しそうに仰いでいると、遠くから少女が駆け寄ってくるのが見えた。
少女の名はエリゼ。
先程の、どこか距離を感じさせる少女とは違い、唯一“友人”と呼べる存在だろう。
「ティーシャが外に出てるの久しぶりに見た〜」
エリゼは物腰柔らかく、ゆったりとした話し方をする為、敵意を感じさせない。
「……そうだっけ?川魚を獲りに行ったときも外に出たけど。」
「えっ!あれ、三ヶ月も前のことだよ!?」
家に籠もる生活が長いせいで、時間の感覚がずれているのだろう。
「そっか。」
しかし、彼女は他人の驚きに頓着せず、淡々と返すだけだった。
「まあいいや。せっかくティーシャが外に出たんだし、何か面白いことしようよ!」
「面白いこと?」
「ふっふ〜ん!見て驚かないでよ〜!」
首をかしげると、エリゼは得意げに笑い、背中に隠していたものを取り出した。
「じゃじゃーん!戦闘用魔法の本だよ!それも解析済みの!ティーシャ、魔法が好きでしょ?魔法使ってみようよ!」
確かに魔法に関する記述に興味はあったが、その表紙を見て、彼女はわずかに眉をひそめる。
戦闘用魔法――火炎や爆発を伴う派手な魔法が多く、室内はもちろん、屋外であっても扱いを誤れば命に関わる危険な魔法だ。
エリゼが言う「外でしかできないこと」とは、つまりこれの事らしい。
「戦闘用魔法は外でも危険を伴うから、子供が軽い気持ちで扱うものじゃない。」
冷ややかに告げると、エリゼは子犬のような潤んだ瞳でこちらを見上げてきた。
だが、その視線にも彼女の態度は変わらない。
「……魔法が好きでも使った事はない。だから、魔法の使い方は分からない。」
それは嘘だった。
前世で散々、誰も及ばぬほどの魔法を数え切れない程振るってきた。
だが、子供の状態でその力を示せば、余計な注目と厄介事を招くのは目に見えている。
「解析版だからきっと安全だよ! 少し読んで、詠唱すれば絶対できるから!」
「無理。……それに、こんな危険な物をどこから持ち出して来たの?」
「教会からだよ!この本は違う教会の名前が書かれてるけどね。えっと……マビ……リス?」
(マビリス……?聞いたことのない教団だ。)
「とにかく、それは危険だからすぐに返して来て。」
「お願い!一回だけ!」
子供の好奇心……その愛らしい衝動は、歯止めを知らぬ者にとって最も危ういものだ。
彼女には前世の記憶がある。どこで引くべきか、何をすべきでないかを冷静に判断できる。
だが、他の子供たちは違う。ただ無邪気で、無鉄砲なだけ。
魔法を見せれば、きっと教えて欲しいと強請ってくる。しかし、好奇心だけで手を伸ばそうとする者達に、危険な魔法を教えるつもりは毛頭なかった。
「……無理。」
彼女には、魔法を拒む理由がもう一つあった。
世界樹の魔力暴走と共に消滅した彼女は、前世である傲慢の魔女の力をそのまま引き継いでいるだけでなく、世界樹の力も吸収してしまっていた。
下級魔法とは言え、世界樹の力を吸収した後に魔法を使うのは初めてだった為、力加減が分からないのだ。
(やっぱり、外に出ると碌な事がない……子供と関わるのもあまり好きじゃない……)
外に嫌気が差した彼女は、その場から立ち去ろうとした。その時――
「ティーシャ、お願い……最初で最後のお願いだから……」
エリゼの小さな手が、彼女の服の裾を掴んで離さない。
「はぁ……誰にも言わないって約束できる?」
「できる!約束する!」
期待を混じえたエリゼの真剣な眼差しに、彼女は負けてしまった。
「......分かった、下級魔法だけなら良いよ。一回見せたら帰るからね。」
「うん!」
「本貸して。」
全ての魔法を網羅している彼女にとって、魔法は息をするのと同じ。いまさら本を開かずとも、炎の一つや二つなど簡単に生み出せる。
だが、それをすれば余計な疑念を招くだけだ。
テアは無表情のまま本を開き、流し読みするように視線を滑らせた。
(雑な走り書き……だけど、解析は的確。懐かしい……)
数ページめくり、ひとしきり読み上げた後、パタンと本を閉じた。
「離れてて。」
淡々としていながらも、有無を言わせぬ重みがある彼女の一言に、エリゼは思わず息を呑み、数歩後ずさる。
魔法は通常、複雑に編み込まれた術式を解く事で発動する。
その際、術式を安定させ、魔力の流れを整えるために詠唱は必須とされていた。
だが、この世界において、その常識を無視する存在が一人だけいた。
詠唱も構えもなく、ただ魔力の理を捻じ伏せて魔法を顕現させる魔女……それこそが、前世で“傲慢の魔女”と呼ばれた、彼女――テアである。
彼女は一歩、対象の大木へと歩み寄った。
炎を呼ぶ詠唱も、魔力を込めるための印も、何一つ必要としない。
ただ、目の前の大木を、無表情で見据えた。
――その瞬間。
耳を劈く轟音とともに、真紅の炎柱が大木の中心を貫いた。
分厚い幹は一瞬で焼き抉られ、黒煙を上げながら崩れ落ちる。
炎はなおも勢いを落とさず、そのまま空気を裂いて遠方へと消え、行方は分からなくなった。
風が止み、辺りは一瞬、静寂に包まれた。
残ったのは、黒く焦げた穴だらけの大木と、平然と立つ彼女だけだった。
「すごい……すごいよ!ティーシャ!」
エリゼは目を輝かせ、手を叩きながらその場で小さく飛び跳ねた。
「でも、詠唱なしで魔法を使えるなんて......本当にすごいね!やっぱりティーシャは、将来すごい魔法使いになれるよ!」
テアがあえて詠唱を省いたのには理由があった。
詠唱そのものに魔法を発動させる力はないが――中には、言葉を口にしただけで魔力が暴発するほどの素質を持つ者もいる。
不用意に詠唱を聞かせれば、無自覚のまま模倣し、暴発を招く危険があった。
それらのリスクをすべて考慮した上での、彼女なりの冷静な判断だった。
(威力は抑えたつもりだったけど……)
飛び去った炎の軌跡を追えば、行き着く先を確かめることもできる。だが、この場で動けば、余計な詮索を招くだけだ。
彼女はあっさりと追跡を諦めた。
「……この本、今日中に戻しておいて。」
エリゼの胸元に本を押し付けると、彼女はそれだけを言い残し、周囲の目が集まる前にその場を離れた。
(子供は危険だ......)
今の世界は、かつて魔法を扱えなかった時代とは違う。
傲慢の魔女とその弟子たちが広めたことで、魔法は人々の生活に深く浸透し、差別も薄れ、憧れの象徴となった。
だが同時に――魔法は、戦場をより残酷で血生臭いものへと変えた。
夢でありながら、争いの種であり、簡単に人を殺せる凶器ともなった。
彼女は理解していた。
人類はもう、踏み入れるべきではない領域まで踏み込んでしまったのだと……
その事実に、彼女はただ静かに、そして冷ややかに哀れみを抱いた。