Prologue:邪神の寵愛
『女神の加護』と『邪神の寵愛』は必ず一つの対となって世界に存在しなければならない。
女神の加護を賜った『勇者』が死ぬと、最もそれに相応しい人間ただ一人が女神によって選ばれ女神の加護が授けられる。
同様に、邪神の寵愛を受けた『魔王』が討たれると、次代の魔王となるに相応しい魔族ただ一体に邪神の寵愛が移行される——はずだった。
文献に残されている限りで初めてこの秩序が破られてから、もう二年が経つ。
†
「いい加減教えてくれないか。お前も、どの道俺に殺されることは免れないと理解しているだろう。早く楽になりたいと思わないのか」
銀の十字架をあしらった首飾りを着け、終始沈黙を貫き俯いたままの女。
この国では珍しくない金髪碧眼で、整った顔には先程の戦闘で負った傷が数本奔る。
最初はこの世の全ての魔を跳ね除けるかのような純白を誇っていた法衣も、今や泥や血に塗れその神聖さを失っている。
暗く狭い部屋に、テーブル上の燭台に載せられた一本の蝋燭だけが火を灯し弱々しく光を放っている。
蝋燭が照らすテーブルの上では女の両手が頑丈な金具で固定され、既に剥がされた七枚の生爪と鉄製のペンチの表面が僅かに光を反射した。
俯く女の顔を覗き込むように視線を合わせ、先程よりも少し低く恫喝するような声で尋問する。
「お前に俺への襲撃を命じた首謀者が今どこに居るか教えろ」
やはり女は顔を伏せたまま喋ろうとしない。
拷問が長引いているせいか、最初に剥いだ左手小指の爪床は既に血が乾いて止血している。
仕方なくペンチを握り女の右手の中指の爪先を摘み上げる。
爪の応力限界を確かめるように徐々に引っ張る力を強める。
指の先端の方からゆっくりと爪が剥がれて付け根部分の肉が巻き込まれるようにする。
極大の苦痛を与える。
女は奥歯を強く噛み締めてその激痛に堪えるが、身動ぎ一つ、吐息一つ出さずあくまで俺の拷問の意欲を削ろうとしてくる。
これだから祓魔師は面倒だ。
今までにも両手では数え切れない人数エクソシストを捕縛して拷問してきたが、その全員がどれだけ凄惨な拷問を受けようとも俺が最も知りたい質問には答えなかった。
思わず溢れそうになるため息とさっさと始末してしまいたい衝動を噛み殺す。
「……質問を変えよう。…………勇者。新たに女神の加護が与えられた勇者はどこにいる」
『勇者』という言葉に目の前の女の瞳の奥に僅かな光が灯る。
絶望と諦念に満ちた昏い瞳孔に差し込む希望の彩光。
態度こそ変わらないものの、俺にはわかる。こいつは——知っている。
新しく天命を授かった勇者、その情報を。
恐らく、向こうも俺がただの邪教徒などではないと気づいているだろう。
二年前、先代の魔王は勇者とその仲間によって討伐されたが、魔王が死の間際に勇者に遺した呪いがその魂を蝕み、約一年前に勇者は衰弱死した。
魔王が討たれてからの二年間、新たに邪神の寵愛を賜り強大な力を手にした魔族が出現したという観測はない。
教会側も馬鹿ではない。
新たな魔王が頭角を現さない状況に異変を感じずにいられる訳がない。
僅かな希望が芽生えたエクソシストは、しかし抵抗も降伏もする気配がない。
次は残りの二枚を立て続けに剥がす。
希望の色は消え失せず、先程と同様苛烈な疼痛への反応を押し殺している。
「……お前も聖職者の端くれなら回復魔法くらい使えるだろう。なぜ爪を治さない」
聞かなくてもわかっている。
これは救いなど存在しないことをこいつに再認識させ心を摘むための問い。
……なにも応じない。なにも変わらない。
いい加減こっちも辟易する。
俺は魔族と違って人間を甚振っても愉悦を感じることはない。
初めは抵抗感もあったが、今では退屈な作業に過ぎない。
「『上級回復魔法』」
金具で束縛された爪のない両手の上に手をかざし呟くと、緑色の発動光がグロテスクな両手を包み込む。
光が霧散すると指の先の出血は止まり、爪もやや深爪ぐらいの長さまで再生している。
なにかを感じとったのか、急に身体を震わせ射殺さんとする双眸で俺を睨みつけてくる。
両手を拘束する金具がカチャリと鳴る。
こいつが今何に怯えているかは知らんが、恐らく俺の目的はそうではない。
いつまでも爪を剥がし続ける作業に従事できるほど俺は猟奇的でないし暇でもない。
部屋の隅によけていた簡素な丸椅子を持ち上げ、あえてガタッと音が鳴るようにその椅子をテーブルの側に置き、それに腰掛けて憎悪と恐怖に満ちたエクソシストと相対する。
燭台の蝋燭の火が一瞬揺らめくのに視線を投げかけ、ゆっくり目の前の女に戻す。
こいつの意思を陥落させる為には、痛みだけでは意味がないだろう。
苦痛を伴う拷問に屈しない強情なやつには今まで色々な揺さぶり方を試してきた。
陵辱、洗脳、麻薬、放置……時には色欲を煽る真似もしたし、時には目の前で無辜の民を惨殺してみせた。
しかしこいつらは、俺が強く情報を求めるほどその堅い口を割ろうとしない。
その情報が、お互いにとってどれだけ価値があるかを理解している。
そこらを歩いている愚民百人の命とも釣り合わないほどの価値があることを。
だから、最も有効な揺さぶり方は屈辱でも恐怖でも罪悪感でもない。
たった一言。
たった一言の誘いでこの手の人間は堕ちる。
「俺の授かりし邪神の寵愛を、お前にも分け与えてやろう」
†
結局あの女は新しく女神の加護を受けた勇者の詳細な情報は持っていなかった。
まあ、捕まれば拷問されることが目に見えている一介の尖兵にそんな極秘情報を教える訳ないか。
あの女は、自身の教会の所属を吐き出させた後俺が喰った。
比喩ではなく、文字通りその脳、内臓、肉、骨に至るまでを喰らった。
人間の俺は同じ人間を殺したところでそいつが保有する経験値を吸収できる訳ではない。
が、同時に邪神の寵愛を受けている俺は食した人間の力の一部を取り込むことができる。
人間の肉は決して美味くはないし、一度に消化できる量にも限界がある。
あのエクソシストは今まで俺に差し向けられた人間の中では強い方だった。だから喰った。
力の一部を取り込むと言ってもそこまで万能でも都合の良い能力でもない。
あのエクソシストの持つ『祓魔術』と『回復魔法』が突然使えるようになる訳じゃない。
ただ俺の持つ祓魔術や回復魔法の威力が多少底上げされるだけ。
本来聖職者でもなく女神の加護も持たない俺が回復魔法を使えるのは、回復魔法を扱う聖職者を喰いまくったから。
回復魔法を使用する基盤が徐々に俺の身体に構築され、いつしか女神への信仰を持たずとも使えるようになった。
ただそれだけ。
女神なんていないか、よしんばいたとしても力を与える人間を一々識別していないし、魔王も勇者もどうでもいいと考えているに違いない。
あの日邪神の寵愛を賜ってから、その身を隠し力を蓄え拠点を転々としてきた。
だがもうじき教会側も人間であるはずの俺が邪神の寵愛を持っていることを察知し、新たに天命を下された勇者を育成して俺の首を獲ろうとしてくるはず。
そろそろ廃墟に隠れて住み着くのも限界だろう。
いっそのこと魔王らしく前代魔王の城を再建させ、魔族の配下を作るべきか?
荒廃し蔦の侵蝕した町外れにある礼拝堂。
左上が大きく欠けたステンドグラスは月明かりを散乱し、描かれた女神は頭部を欠損している。
取り敢えず、ここ暫く拠点としていた廃墟に散らかった俺の痕跡を片付ける。
拷問道具に、殺した聖職者の装備。
俺が昔一つの教会を襲撃した時に地下室で封印されていた魔剣。
「邪神の寵愛を分け与える」と言ってエクソシストを誑かしているが、実のところ俺にそんな権限はない。
邪神の寵愛を持つ生物はこの世界で一人だけしか存在できない。
それはエクソシストたちも理解している。
それでも俺の誘惑に乗せられてしまうのは、偏に俺が人間にも関わらず邪神の寵愛を持つイレギュラーな存在だからだろう。
目の前に現れたこの世界の秩序を破る存在をその身で感じて、本当に邪神の寵愛を分け与える方法が存在するのではないかと錯覚する。
今までの信仰をありもしない虚像を前に打ち捨てる聖職者の愚かしさは言を俟たないが、その実俺もその無知を嗤ってはいられない。
何故なら俺も、どうして魔王の証である邪神の寵愛が魔族でなくただの人間の俺に注がれたのか理解していないからだ。
——俺が魔王に選ばれた意味。
もし仮に魔王が人族から選ばれるのなら、全人類の中から俺が選ばれるのは納得できなくもない。
だが魔族、魔物、人間、亜人、他の動植物、その全ての中から俺が選ばれたのは、果たしてどんな理由があるのだろうか?
この二年間己に問い続け、そして未だ答えに辿り着くことのない疑問。
もしかしたら、意味なんてないのかもしれない。
勇者が選ばれるのが決して女神の導きなどではなく、ただそういった『理』であるのと同じように。
あのエクソシストを仕向けてきた教会は潰した。
そこには新たな勇者の痕跡はなかった。
女神の加護を付与されてまだ一年しか経っていない勇者のレベルなら、今見つけ出して襲撃すれば殺害できるのではないだろうか。
だが残念なことに未だ俺は新たな勇者の居場所を掴んでいない。
一年も世界中を旅してレベル上げをしているなら流石にもっと情報が出回っていても良いはず。
まさか未だにどこかの教会に閉じ籠り鍛錬を積んでいるのだろうか……いや、それはあり得ない。
鍛錬を積んだところでレベルは上がらない。
鍛錬による肉体や武技の向上は、レベルアップによる力や魔力などの向上と比較すると些末な変化に過ぎない。
あまりにも効率が悪い。
少なくともまだ新たな勇者を見つけられていないということはない。
あのエクソシストも新たな勇者の存在自体は知っていた。
各地の教会を潰して回るべきだろうか。
しかし数を重視して回って、偶然遭遇した勇者のレベルが想定より高かったときに対応できない。
せめて一回この眼で勇者の実力を測ってから——
——俺はいったい何故、自分の命を危険に晒してまで勇者を殺さねばならぬのか。
結局また、自身の存在意義に直面する。
邪神の加護を持った俺には、女神の加護を持つ勇者以外からの攻撃は殆ど通用しない。
魔王である俺の身体を守る『邪神の結界』は、勇者の持つ『破邪の意思』でしか破ることができない。
だからこそ、俺に致命傷を与えられるのは勇者だけ。
ならば俺の天敵とも言える勇者を、なぜ俺は殺さなければいけない?
俺は魔性の者と違い本能で人間を殺したいわけじゃない。
魔王が勇者を殺さねばならない決まりはない。
俺にあるのは争いの絶えぬこの世界への憎悪だけだ。
だが、勇者は俺の意思など歯牙にもかけず魔王である俺を殺しにくる。
俺もまだ死ぬわけにはいかない。
この世界を終わらせるまでは、死ぬわけにはいかない。
俺が死ねば、きっと次の邪神の寵愛は魔族に与えられる。
それではなにも変わらない。
だから、俺は迫り来る勇者を殺し続けなければいけない。
強くならなくてはいけない。
魔王としてではなく、繰り返す惨劇に終止符を打つ者として。
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