7試合目:その理由を知らなくても
鉄フライパンに油を垂らすと、「じゅっ」と小さく音がした。
八坂明は、中野の木造アパート、その一番奥の、ユニットバスとキッチンが直結している“ほぼ一部屋”の空間で、今日も焼きそばを炒めている。
換気扇は回っているのに無意味で、部屋全体がすでにソース臭い。
壁紙の一部には、過去の“住人の歴史”が、うっすらとシミとして刻まれている。
「やっぱ、もやしは1袋丸ごと入れたほうが正義やな⋯⋯」
そう呟きながら、業務スーパーの安もやしを豪快に投下。麺は三玉入り98円。野菜はキャベツの芯と、どこか元気のないニンジン。
ガスコンロの火力はやや不安定だが、そこは経験でカバーする。
ソースを回しかけると、香ばしい匂いがぶわっと立ち上がる。味は完璧、たぶん。
テレビもラジオもない静かな部屋で、唯一鳴っているのは炒める音と、たまに鳴く隣室の猫の声。
完成した焼きそばをフライパンのままテーブルに置き、紙パック麦茶を添える。
そしてポツリとひとこと。
「これで今週、あと2日は戦えるな」
そのとき、ガチャリと玄関のドアが開いた。
「ただいまー。お、これは匂いでわかるわ! ソース焼きそばやろ!」
「正解。ちょうど今、火ぃ止めたとこ」
八坂ケントが靴を脱ぎながら、鼻をすんすんと鳴らす。
「マジか。最高。今日、教室で子どもにカンチョーされて心折れたから、めっちゃ染みるわ」
「舐められてるんちゃう?」
「ちゃうわアホ」
明がキッチンの小さなテーブルに焼きそばを二皿並べた。
ケントが満面の笑みで手を合わせる。
「いただきます!」
二人の箸がほぼ同時に伸びる。
どこにでもある、カット野菜と安売りの麺で作った焼きそば。でも、二人とも文句は言わない。
「⋯⋯うまっ」
ケントが一口食べてうなる。
「お前これお母さんが食べたら感動して泣くで」
「この程度で泣くわけないやろ⋯⋯」
「いやいや、俺がお前の年齢の時はカップラーメンが限界やったわ」
明は苦笑しながらも、どこか安心していた。この家の時間は、ずっとこんなふうに緩やかだ。
だけど。
「明。最近、学校どうや? なんか困ってることとかあるか?」
急に真面目なトーンに戻ったケントが、焼きそばをひと口噛みながら聞いた。
「別に。⋯⋯波風立ててないし、普通にやれてる」
「うん、それならええ。⋯⋯けどな、明。あんまり“波風立てない”ばっか考えて、自分まで見失うなよ」
「⋯⋯」
「お前の良さは、“何も言わなくてもちゃんと伝わる優しさ”やって、俺は思ってる。だからって、いい子でいようとしすぎて、何も言えなくなるのは違う気がするからな」
明は鋭い目つきのまま黙っていた。焼きそばをすする音だけが、アパートの薄暗いキッチンに響く。
「⋯⋯別に。無理はしてない。いい子でいたいっていうより、父さんに心配かけたくないだけ」
しばらく沈黙が落ちる。
やがてケントが、小さな声でぼそっと言った。
「⋯⋯顔は怖いのに言ってることいい子すぎて⋯泣いてもええかな?」
「無理。はよ片付けたいから食べ終えて」
2人は視線を合わせて、少しだけ笑う。
何も特別なことは起きない、焼きそばの夜。
でも、それはきっと、2人だけにとって特別な時間だった。
明が皿洗いを終えて宿題をしていると、ケントが三千円を渡してきた。
「⋯なにこれ?」
「お前も東京の高校生やろ? せっかく奈良から出てきてんから、たまには都会で友達と遊びに行け」
ケントが明の手に無理やりお金を入れようとする。
「いらんって」
「ええから受け取れよ。お前にこれ以上、窮屈な思いはしてほしくないねん」
「ほんまにいらんって」
「なんや、東京やと3千円で足りへんか? やったらーー」
明がぐっと拳を握る。
「友達おらんねんて!」
明が少し強い口調で言った。ケントが「はっ!」という顔になる。
「⋯察してや⋯⋯」
「ご、ごめん⋯」
「⋯そのお金で食材買った方が嬉しいわ⋯」
「そ、そうか⋯。じゃあ、友達できたら教えろよ?」
ケントが申し訳なさそうな顔で寝室へ引っ込んだ。
明がため息をつき、シャーペンを放り出して床に寝転ぶ。
(⋯このぐらいの嘘なら、バチは当たらんよな⋯)
友達は、いる。休みの日も、誘われる。
だが自分は彼らと違う。色々な人の犠牲のおかげで、あの学校にいることができている。
だからーー。
(門真さんみたいに好きに生きられたら、もうちょっと楽なんかな⋯)
考えたくもないことが、脳裏に浮かんだ。
* * *
時を同じくして——。
高級住宅街の一角にある、門真邸。その二階、自室の机に向かっていた門真京子は、鉛筆の芯をカリカリと走らせていた。
部屋は広く、天蓋付きのベッドと柔らかい間接照明、ベッドの上に置かれたアライグマのぬいぐるみ。そして、壁際に整然と並ぶ白いタンスだけが静かに存在している。どこかモデルルームのようで、生活感の薄い空間だった。
コンコン、と控えめなノックの音。
「失礼いたします」
ドアの向こうから、上品な女性の声が響く。入ってきたのは、40代半ばの家政婦・幸子さん。京子が中学に入る前から仕えており、彼女にとっては長年の家族のような存在だ。
「京子様、何かお飲み物でも?」
清潔感のあるエプロンに身を包み、相変わらずの微笑みを浮かべている。
「ありがとう、でも大丈夫」
京子はにこっと笑って答えた。その笑顔は完璧で、少しだけ“演技”にも見えた。
「かしこまりました。ではまた何かございましたら——」
踵を返そうとした幸子を、京子がふいに呼び止める。
「ま、待って。幸子さん、少しだけ、話してもいい?」
「もちろんです」
京子はベッドに座り、隣をポンポンと叩く。幸子が微笑を浮かべたまま、隣に座る。京子がアライグマのぬいぐるみを抱きしめた。
「⋯⋯国語の課題で、小論文を書かなくちゃいけなくて」
「まあ。お勉強に関しては、私から差し上げられることは少ないですけれど⋯⋯」
幸子は少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「そんなことない。私の知ってる中で、一番賢い人だもの」
「まあ⋯⋯光栄です。それで、どんなお題なんですか?」
京子は足を抱えて三角座りになり、ぬいぐるみの耳をくるくると指で回す。
「⋯⋯“人を好きになるとはどういうことか”ってテーマなの」
幸子の笑みが、少しだけ柔らかくなる。
「⋯⋯好き、ですか」
「そう。⋯⋯でも、それがわからないの」
ぬいぐるみの毛並みをいじる手は、どこか落ち着きがなかった。
「好きになるって、どうしてそうなるのか、理屈で説明できないから⋯⋯それが、一番困ってる」
京子はしばらく黙っていた。ぬいぐるみの手足をもてあそびながら、ぽつりとつぶやく。
「⋯⋯“好き”って、なにをもって“好き”なのかな」
幸子はすぐには答えなかった。ただ、少しだけ身体を京子の方へ向けて、問いの続きを待つ。
「もし⋯⋯もし仮にだけど、好きだとして。それに“理由”がなかったら⋯⋯それって、本物なのかなって思ってしまうの」
京子の声は、まるで自分自身に問うているようだった。
「今までだって、見た目がいいとか、成績がいいとか、そういう“わかりやすい”男子に言い寄られることはあった。でも、みんな結局は⋯⋯“自分にとって価値があるかどうか”で近づいてくるだけだった」
そこで言葉が止まる。少し息を吸って——
「⋯⋯もし、誰かの顔に惹かれてるだけなら、そんな彼らと同じじゃない」
ぬいぐるみの手が、きゅっと強く握られる。
「それが怖いの。そんなふうになってたらどうしようって⋯⋯」
幸子は静かにうなずき、ゆっくりと口を開いた。
「好きになる“きっかけ”は、案外つまらないものです。声がいいとか、笑い方が好きとか、たまたま目が合ったとか⋯⋯そんな、ほんの些細なことから始まるものですよ」
京子は顔を上げ、目を細めて幸子を見る。
「でも⋯⋯それじゃ、ただの思い込みかもしれないでしょ?」
「ええ。でも、大切なのはそこからなんです」
幸子は優しい微笑みを浮かべる。
「きっかけは一つでも、その人を“好き”だと気づいた後に、たくさん理由が見つけられるなら——それは、きっと本物なんじゃないでしょうか」
京子はハッとした顔で目を見開いた。
「⋯⋯たくさん、理由を見つけられたら?」
「はい。そして、今日だけじゃなく、明日も、明後日も——その人のことを思い出して、笑ったり、少し落ち込んだりできるなら⋯⋯その人は、きっと“特別”なんです」
京子はしばらく黙っていた。天蓋のレース越しに揺れる照明の光が、彼女の頬を照らしている。
やがて、ぽつりと呟く。
「⋯⋯理由はたくさんあって、いいのね⋯」
幸子は静かにうなずく。
「ええ。恋は、始まったその瞬間よりも、続いていく過程のほうが、ずっと意味を持つのかもしれませんね」
京子は少しだけ笑った。ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように。
「⋯⋯ありがとう、幸子さん」
「どういたしまして、京子様。少しでも、お役に立てたなら」
その言葉に、京子は強く頷き——そして再び、机に向かう。
——その夜、それぞれの場所で。
ひとつずつ、小さな嘘が積み重なった。
でもその嘘は、どちらも優しくて、ほんの少しだけ、ほんとうに近かった。
本日の勝者、0人。