10試合目:素の2人
6月中旬、デズニーランド。梅雨の雲が空を覆いはじめ、光がゆっくりと滲んでいく。
ファンタジーエリアの中心で、明が旧友たちに囲まれていた。
「てか制服、ほんまに着てんのやな〜!」
「まぁ、そういう校則やからな」
垢抜けた三人の女子が明を囲む。明は困ったように笑いながらも、どこか楽しげだ。
「なんで連絡つかんくなったん? うちらブロックされたんか思ったで?」
「スマホ、解約したから」
「ええ!? なんで!? 今どきそれってヤバない?」
そのやり取りを、京子は少し離れた場所から眺めていた。
胃の奥が、じわりと重くなる。
自分の知らない話し方。見たことのない表情。
――この人、こんなふうに笑うんだ。
――こんな風に、自然に話すんだ。
「てか、うちらが来たらマズかったりした?」
金髪の女の子――ニコが、ちらりと京子を見てそう言った。
なにか、言わなきゃいけないのに。
なのに、言葉が、出てこない。
「⋯⋯じゃあ、あとで」
京子はそれだけ呟くと、くるりと背を向けた。
頭のてっぺんに、ひとしずく。雨だ。
視界がにじみ、心も同じようにぐしゃぐしゃになっていく。
明が何か言ったような気がした。でも、もう聞きたくなかった。
子供じみた行動だと分かっていた。
傷つきやすい自分が、滑稽だと分かっていた。
でも、あのままあそこにいたら、自分でも制御できない感情が溢れ出してしまいそうで——怖かった。
――自分の知らない明を見たくない。そう思ってしまった。
足早にファンタジーエリアを抜け、ひかるたちを探そうとしたそのとき。
視界がふっと暗くなる。
「風邪、ひきますよ」
濃い青の折りたたみ傘。その下に、明がいた。
以前、京子に貸したあの傘だ。
「⋯⋯なんで、ついてきたのよ」
怒りとも戸惑いともつかない声で、京子が言う。
けれど、心のどこかでは——ほんの少し、嬉しかった。
「だって、今日は“四班”で来たんで」
明はまっすぐに、揺るがぬ眼差しで言った。
「⋯⋯ねえ、それって、優しさのつもり?」
自分でも嫌になるほど、ひねくれた言葉が出てくる。
「ほっといてくれないかしら? 前から思ってたけど、あなたってしつこいのよ」
「すみません。でも、ほっとけないんです」
明が傘をゆらりと揺らす。雨音が優しく傘を叩く音が響く。
「雨に濡れてる門真さんを放置したら、たぶんクラスの女子に殺されますから」
「⋯⋯ああ、なるほどね。そういうこと」
思わず、ため息がこぼれた。
「あなた、人の目ばっかり気にしてるのね。誰かに好かれたくて、だから私にもベタベタつきまとうわけ?」
「はい。そうですね」
あっさりと頷かれ、京子の口がぽかんと開く。
「⋯⋯え?」
「でも、それだけじゃないです。僕は⋯⋯勝手に、門真さんのこと、友だちだと思ってるんで」
その言葉に、胸の奥が、ふっと温かくなる。
雨脚が少し強くなり、周囲のゲストたちは傘を広げて、屋根の下へと散っていく。
「門真さん、ちょっと⋯⋯話しませんか?」
明が指さしたのは、近くのカフェ。
「すぐに終わります。だから⋯⋯少しだけ」
京子はしばらく何も言わなかった。
けれど、やがて静かに——それでもはっきりと頷いた。
* * *
メルヘンな音楽の流れるカフェの隅。
外から聞こえる、しとしとと降る雨音に包まれながら、2人は向かい合わせで座る。
「⋯⋯お待たせしました。ホットココアで良かったですか?」
「⋯⋯ありがとう」
京子がカップを受け取る。
手のひらにじんわりと温かさが広がり、少しだけ肩の力が抜ける。
明は向かいに座り、ほんの少し黙ったあと、ふっと息をついた。
「⋯⋯さっき、元いた学校の子たちに会いましたよね」
「⋯⋯ええ」
「話そうと思ってて、でも⋯⋯なかなか言い出せなくて。タイミングがなかったのもあるし、ちょっと⋯⋯恥ずかしくて」
京子は明の表情を静かに見つめる。いつもの飄々とした雰囲気とは違って、少しだけ視線が揺れていた。
「奈良にいたんです。インターナショナルスクールに通ってて。⋯⋯学費は、父が必死に工夫して何とか払えていました。父は電化製品のマニュアルを翻訳する仕事をしていたんですけど」
「⋯⋯」
「でもAI翻訳が当たり前になって、仕事がどんどん減っていって。で、父の勤めてた会社も潰れて⋯⋯」
言葉を濁すように、カップの縁を指先でなぞる。
「東京に引っ越してきたのは、父の再就職がきっかけです。子ども向け英会話教室の講師。給料は⋯⋯まあ、全然なんですけど」
少し間を置いて、明が続けた。
「⋯⋯父が、『常磐西院には、経済的に恵まれない学生を特別に受け入れる制度がある』って、どこかで聞きつけたんです」
「⋯⋯特別枠のことね?」
「そうです。成績だけじゃなくて、面接とか人柄とか⋯⋯そういうのを見て選ぶらしくて。ダメ元で応募したら、まさかの合格でした」
明は、自分でもまだ信じきれていないように、少し笑った。
「父は喜んでました。『お前の人柄だけは保証できる』とか言って。でも、当たり前ですけど——学力では、僕は他の人たちに到底かないません。進学するなら、内申点がかなり重要になるって分かってたんです」
京子は言葉が出せずに、手の中のカップを見つめた。湯気が、静かに立ちのぼっている。
「だから⋯⋯決めました。波風を立てずに、誰も不快にさせず、“何もない”人間として過ごそうって」
明の声は、落ち着いていた。でもその静けさの奥に、何かを飲み込んできた気配があった。
「勉強も、家柄も、何ひとつ取り柄がない僕なりの——せめてもの、工夫だったんです」
「⋯⋯今までのあなたは、作り物だったの?」
心の奥がきゅっと締めつけられるような感覚。
ずっと気になっていた男の正体が、ただの虚構だったのかもしれない。
全部、計算された仮面で、裏では自分のことを笑っていたとしたら——。
明はうつむいたまま、少しだけ息を吸い込んだ。
「⋯⋯少しだけ。でも、全部が嘘ってわけじゃないです」
声は落ち着いていたが、どこか弱さも滲んでいた。
「僕の語彙じゃ、ちゃんと説明できる気がしないですけど⋯⋯。100%、偽ってたわけじゃない。ちゃんと“僕”も混ざってるんです」
京子は、何かを確認するように、彼をじっと見つめた。
「⋯⋯じゃあ、見せてよ。本当のあなただけを」
沈黙が落ちる。わずかに揺れるカップの中のココアだけが、時間を告げていた。
やがて明が「わかりました」と小さく頷きーー
「⋯⋯ボンボン、多すぎ」
「は?」
「ボンボンっていうか、AirPods出るたびに“とりあえず買う”やつ。前のまだ生きてるなら譲って。売るから」
「⋯⋯え?」
あっけにとられる京子をよそに、明はさらに淡々と続けた。
「標準語、しんどい。ちょっと油断したら関西弁出そうになるし、奈良出身って言うと周りとの温度差エグいから、封印してる」
「奈良は素敵な場所でしょ⋯⋯?」
「あとさ⋯⋯」
どこかのスイッチが入ったのか、明がココアを睨みながら、低くぼやく。
「女子、俺に距離近すぎ。もうちょい離れて。こっちも男だから、色々意識しちゃうんですけど」
「キャラが変わりすぎよ!」
思わず京子が突っ込みを入れた。
でも——その口元は、わずかに緩んでいた。
「ぜんっぜん今までのあなたと違うじゃない!!」
京子の声が、カフェのテーブル越しに弾けた。
「いやでも、みんな心の中ではこのぐらい思ってますよ。門真さんが、何のフィルターもなく好き放題口にしてるだけです」
「なっ⋯⋯!」
まさかのカウンターに、返す言葉が遅れた。思考が一瞬で吹き飛ぶ。
けれど——
「だから、すごく⋯⋯なんていうか⋯⋯」
明が視線を伏せながら、少しだけ照れたように言った。
「⋯⋯俺、門真さんに憧れてるんだ」
(——あ)
なんで、そんなこと、言うのよ。
ダメだった。
張りつめていた自分の中の“何か”が、その一言で一気に崩れ落ちた。
ずっと自分を守るために張ってきた壁。
強がりも、毒舌も、心の奥にしまった想いも。
全部、無意味だった。
目の前にいる八坂明は、他の誰も知らない明。
——私だけが知っている、彼。
おとなしくて、優しげで、でも実はめちゃくちゃ毒を抱えてて——
それでも、まっすぐに自分を見てくれる明。
その“ほんとう”を、自分だけが知っているという嬉しさ。
そして、直接「憧れてる」と伝えてくれた、その真っ直ぐさ。
そのすべてが、胸を大きく跳ねさせた。
(⋯⋯私、この人のこと——)
言葉を止めようとしても、感情があふれて止まらない。
(⋯⋯好きなんだ)
「⋯⋯というカミングアウトでした」
明がふうっと息を吐き、ココアに口をつける。
「あ、美味しい」
「なんでそんなすぐ通常運転に戻れるのよ⋯⋯」
京子は呆れながらも、どこかくすぐったい気持ちでその顔を見つめる。
ほんの数分前まで、心の中を吐露していた男とは思えない。
けれど——だからこそ、この切り替えが“明らしい”のかもしれない。
「⋯⋯今日は私があなたの保護者よね?」
「“保護者”って単語に違和感しかないですけど、まぁ⋯⋯そうですね」
「じゃあ、保護者兼部長として命じるわ」
京子が少しだけ早口になりながら言う。緊張を隠すように、視線はココアのカップ。
「私の前では、ちゃんと“素”を見せなさい」
「⋯⋯え?」
「“僕”も禁止。あと私にだけ敬語を使うのもやめてちょうだい。周りに、“私が怖くて気を使わせてる”って思われたら心外なのよ」
「でも、それは⋯⋯」
「当たり障りのない言葉ばっかり言うのも禁止」
明が言いかけた言葉を飲み込む。
「⋯⋯さっきのあなたのほうが、ずっと魅力的だったわよ」
その一言に、明が固まった。
京子自身は、自分の発言の爆弾ぶりに気づいていない。
「⋯⋯承知しました」
明が頬杖をつきながら、照れくさそうに京子をチラチラと見る。
「敬語禁止って言ったでしょ」
「⋯⋯承知した」
「それはそれでおかしいでしょ」
ぷっと京子の口元がほころぶ。
——出会ってから、まだ一ヶ月と少し。
でも、ようやく“素”になれた気がした。
だがまだ、この胸に残るモヤモヤはなんだろう。
しばらく考え、謝罪し忘れていることがあるのを思い出す。
「⋯⋯私、あなたに謝らないといけないことがあるわ」
「?」
明がカップを机の上に置き、不思議そうな顔をする。
「初めて会った日、私はあなたの親御さんが離婚したからここに来たのかと聞いたわ」
「あぁ⋯⋯え?」
「本当に最低な発言だったわ。いくら私でも、あれは失礼すぎた。本当にごめんなさい」
明はしばらく目を開いて京子を見つめ、
「門真さん、体調悪い?」
「っ!?」
「そんなことで謝るなんて、なにかおかしい」
明が心底心配そうな顔をする。
「マチュピチュ野郎にはそんな事、言わないのに」
「当たり前でしょあいつはトロールクソインキャなんだから!」
京子が自分のことを棚に上げ、釈明する。
明が少し微笑み、京子をまっすぐに見る。
「……いや、でも。マジで、ありがとう」
さっきまでの冗談っぽい空気がふと真面目になる。
2人は一瞬互いを見つめ合うが、
「じゃあ行こっか!」
「そうね! ひひひひかるちゃんも待ってるだろうし!」
ロボットのような動きで2人が席を立つ。
カフェを出ると、すっかり雨は消え、雲の隙間から光が漏れ出ていた。
本日の勝者: 明と京子。