刹那の衝動
愛車まで辿り着いた頃には、辺りは夕方かと思えるほど真っ暗くなっていた。
空を支配するのは、灰色の分厚い雲。
雨脚は激しさを増す一方で、駐車脇の工場排水溝も、役目を果たしきれずにいる。
時折雷音が響いて、筋となって遠く見える水平線に降り注いでいた。
「あっという間だな。真っ暗だもん」
「凄い雨だね。もうびしょびしょ」
突然降りだした夕立は、二人の身体をずぶ濡れにしていた。
夏だというのに少しばかり寒気を覚える。
確かタオルは積んでいたはず。翔太は後部座席を探る。
「ほら、これで拭けよ」
「ありがとう。……すぐやむかな」
それを受け取る志織。
顔や髪から滴る水滴を拭き取る。
その様子を見つめて、翔太も頭からタオルを被ってごしごしと拭き取る。
その状態で、窓の外を見つめた。
「やむだろ。ただの夕立だと思うし」
相変わらず外は激しい雨が降り続いている。
車体をバチバチと叩き、窓を滝となって流れ落ちる。
まるで地獄の釜の底を、一気に切ったような光景だ。
子供の頃『悪いことをすると地獄に落ちる』そう親父に教えられたのを思い出す。
身構えてなければ、その深淵に引きずり込まれそうな感覚さえ覚えた。
不意に車内に青白い光が輝いた。そして鳴り出す着信音。
「…………」
志織はその点滅を黙って見つめるだけ。
何故か青ざめた表情。携帯の点滅のせいか、心に秘めた想いのせいか、それは判断できない。
数十秒程で着信は切れた。
「……私、雨って嫌い」
不意に志織が言った。こころなし震えているようだ。
「どうした? 寒いのか」
カーエアコンに手をかける翔太。
ずぶ濡れのままでは、肌寒くも感じるだろう。
「ううん、大丈夫」
「でも、震えてるだろ?」
「違うの、思い出しちゃって」
窓の外に想いを馳せる志織。
「彼氏のことか」
そしてその翔太の一言で、視線を向けた。
「やっぱ分かっちゃう?」
「分かるだろ普通。……腐れ縁ってやつだな」
考えれば、思い当たる節はいくつもある。
突然福島に帰ってきたと思えば、一向に戻る気配がないこと。
あの頃はよかったなと、学生時代の思いに耽ること。
それらを俯瞰で見れば、自ずとそう判断するに至る。
とはいえ最初に異変に気付いたのは涼だ。
『あいつ変なんだ。最近ボーッとしてて』と翔太に遠回しに伝えていた。それをヒントにそう判断した。
そして一番の判断材料は、ずっと繋がらない携帯電話。
立場こそ違えど、翔太の置かれた状況にも酷似していたから。
「あの日も、雨が凄かったな」
静かに話しだす志織、どこか思い出すような遠い視線だ。
志織には、神奈川で付き合う彼氏がいた。
名前はフミヤ、年は二十六歳。志織より三歳年下の男。
既に半同棲もしていて、その付き合いは三年に及ぶらしい。
志織は四月で二十九歳の誕生日を迎えていた。
既に翔太よりは、おばさんに近付いていた。
その日フミヤは、洒落たレストランで、両手で抱えられないほどの花束を送って祝ってくれたらしい。
しかも店の店員をも巻き込むサプライズバースデー。
普通の女ならば、そこで満足しただろう。少なくとも翔太の企画するバースデーよりは大分マシ。
しかし志織は満足しなかった。
フミヤがサプライズで祝ってくれるのは三度目のこと。
だから今回も、なんとなく予測していた。サプライズも何度も繰り返せばサプライズでなくなる。
志織にとっては二十代最後の誕生日。
同じサプライズでも、もっと特別なサプライズを期待していたようだ。
それは『結婚しよう』その一生に一度の、特別なサプライズ。
確かに思い出す。志織は昔から結婚願望が強かった。
『二十五までに結婚したいんだ』そんなふうに言っていた。
少しばかり焦っていた志織は問い質す。
『フミヤは私と結婚する気はあるの?』
そして返ってきた答えが『結婚なんて、まだ早いよ。あと四~五年くらいこうしてようよ』
正直翔太には、そのフミヤの対応も分かる気がする。
男というのは、いつでも結婚できると信じる生き物。
それなりの地位を築くまで、そのタイミングが合わなければ、迂闊と結婚などしない。
少なくとも翔太はそう思っている。
全てを拒絶されたと感じた志織は、そのまま店を飛び出してしまったそうだ。
いつの間にか外はどしゃ降りの世界。傘もささずに雑踏を走りだし、冷たい春の雨が容赦なく身体に打ち付けた。
それ以来フミヤとは連絡をとっていないそうだ。
最後に送ったメールは『今までありがとう。……そしてゴメンね』
それが志織が伝えた話の全容。
「一方的に別れたのか」
「だったのかなー。あれからフミヤからの電話にも出ないし」
「ま、色々あるだろうけど」
「ありがとね、トビ。話したら少し落ち着いたわ」
「それで雨が嫌いなのか」
「ふっと思い出すんだよね。高校の頃付き合っていた彼と、別れた時も雨だったし、雨は私から大切な物をいつも奪っていく」
「そうか。でも俺は雨、好きだぜ。自分を振り返る時間を作ってくれるから。雨が降ってるの見てると、自分の心を素直に見れるじゃん。そして雨があがると、そんな自分を洗い流せたようで、清々しい気分になるだろ。俺はそんな時間が好きだな」
「へぇートビって、以外とロマンチストなんだね」
「今頃気付いたのかよ」
翔太は本当に、雨が嫌いではなかった。
灰色の物悲しい空、ザーザーと響く雨音、白く煙る風景、それらが何故か心地いい。
雨の街中をひとり傘をさして歩くと、全ての迷いが癒される気がしていたからだ。
暫しの沈黙、志織の反応はない。
不思議に思いゆっくりと視線を向ける、そして戸惑った。
志織は声もなく泣いていた。
その瞼からひとすじの涙が溢れていた。
いつでも天真爛漫で、何事にも気丈に振る舞う志織にすれば、意外なことだ。
もちろんガキの頃は、なにも知らずにわんわん泣き叫ぶこともあった。
それでも月日が過ぎて、物心がつく頃には、人前で涙を見せることは滅多になくなっていた。
志織の涙を最後に見たのは、高校生の時だ。
志織が事故に遇い、それを涼が翔太のせいだと決め付けて、一方的に殴り付けた時の涙。
『お兄ちゃんやめて。全部悪いのはお兄ちゃんなんだよ!』
その小さな身体を震わせて、大声で叫んだあの時の涙。
一瞬、辺りが真っ白い閃光で包まれた。
ゴロゴロと波打つ空。ひときわ巨大な稲妻が全てを貫く。
青白く映える志織の表情。頬を伝う涙がキラキラと輝く。
翔太の中に、稲妻にも似た衝動が突き走る。
めまいしそうな程の激しい閃光が、脳内を貫いた。
右手で志織の左肩を掴む。そのままシートに押し付けた。
いきなりな行為に、呆然とした様子の志織。
その瞳に翔太の姿が映り込む。浅い吐息が翔太の頬に伝わった。
ルージュも引いてなく、凛とした唇だ。
どうせしびれるなら、頭からつま先まで、しびれるのもありかも知れない。
「やめて!」
だが頬に叩き込まれたその痛みで、はっと我に返った。
胸元を押し返されて、ハンドルに背中をぶつける。
「どうしたのトビ、なんか変だよ」
目の前では志織が、戸惑いの視線を向けている。
言い訳しようとする翔太だが、なかなか声にならない。
「トビのこと嫌いじゃないよ。だけどこんなのトビじゃない。なにか焦っているみたい」
確かに普段の翔太とは違った。理性を忘れて本能に走った結果だ。
「本当ゴメン。そんな怒ると思わなくて」
そう痛感して、うなだれつつも心から謝る。
理性を失うなんて、自分でも思いもしないことだった。
だけどそれと同じぐらい、志織がここまで拒むとも、思いもしなかった。
「大丈夫だよトビ。もういいよ」
気丈にも言い放つ志織。それでもその笑顔がぎこちない。
車内にかすかな光が射し込んだ。
どうやら雨は、すっかりあがったらしい。
灰色の空が途切れて、覗いた青空から、明るい日射しが帯のようにいくつも射し込んでいる。
「……もう帰るか」
翔太が言った。少しばかり気まずさを感じ取っていた。
「俺、道具片付けてくるからさ」
そして外に駆け出して行った。
元いた場所まで戻ると、投げっぱなしの竿のリールを巻き戻した。
かすかにグッとくる手応え、三十センチ程のカレイが掛かっていた。
「お、やった……」
叫んで途中で止めた。
自分ひとりで喜んでも、虚しいだけだと気付いたからだ。
それを無言で手元に手繰り寄せる。
カレイはピクリとも動かなかった、長時間放っておいた結果だ。
それを釣り針から外す、そして海へ放った。
ゆらゆらと水面を舞うカレイ。
まだ茶色く濁る海底に、その姿を沈めていった。
確かに焦っていたのかも知れない。翔太はそう感じていた。
雨の光景がどうだとか、素直な自分がどうだとか、それはいい訳に過ぎない、それも痛感していた。
焦っていた。都会での暮らしを捨てて福島に戻り、好きだった彼女から一方的に別れを切り出されて。
それ故焦って、禁断の果実に手を出そうとしてしまった。
ひとくちかじれば、全身がしびれて後には引けないのに。
後悔の念だけが、頭の中を渦巻いていた。