二人で……
「あっ、また引いてる」
「おお、凄いじゃん。お前、本当に初めてかよ」
とある日、翔太は志織と共に海釣りに来ていた。
訪れたのはいわき市 小名浜。
いわき市は東北地方では比較的穏やかな気候を保つ港町で、工業都市としての一面も持つ都市だ。
その一方、小名浜港は水産業が盛んで、近くにはシーラカンスで有名な“アクアマリンふくしま”などの観光スポットがある。
天気も良く、爽やかに吹き抜ける潮風が気持ちいい。
志織が田舎に戻ってから、二ヶ月ほどが経った頃だった。
「本当だよ」
釣った魚を手前にかざし笑う志織。
その傍らにあるクーラーボックスには、たくさんの魚の姿がある。
「アイナメか。十五センチはあるぞ」
呆然と言い放つ翔太。
彼の方は、まだ一匹の釣果も得られてはいない。いわゆる“ぼうず”だ。
「トビも早く釣りなよ」
「なに言ってんだよ。まだまだこれからだろ?」
笑顔を振り撒く志織をしり目に、翔太は平静を装いリールを巻き取る。
しかしサオ先にエモノの姿はない。空の釣り針が虚しくぶら下がるだけ。
「あーあ。やっぱエサ持ってかれてたか」
ガックリと肩を落とした。
志織は海釣り初心者だった。
自称趣味だと称する翔太が、仕掛けの作り方から釣りざおの投げ方まで、一通り伝授した。
それなのにこの結果だ。流石に悔しさが込み上げる。
ちなみに釣りが趣味だという翔太だが、実際は数回しかやっていない。去年の秋に、二人共通の友だち、春樹に誘われて始めたばかり。
ビギナーズラックという言葉があるが、その時は翔太も大漁だった。
その感覚が忘れられず、今回志織を連れてきたという訳だ。もちろんそんなこと、志織は知らない。
ついでにいえば春樹も素人。
彼の本来の趣味は、"おか釣り"。いわきにナンパしに来て、そのついでに海釣りを始めただけ。
彼からすれば、釣り竿さえナンパのマストアイテム。
「ダメだよ、エサまいてる訳じゃないんだから」
「お前なあ」
小悪魔のように目を大きくさせて、ニコニコと笑う志織。
対する翔太は言い返す気力もなく、顔を赤らめるだけ。
ちなみに春樹と共に釣りに来た時は、翔太が春樹にダメ出ししている。
『なんだ春樹、また地球を釣り上げたか』
釣り針が海底に引っ掛かり、仕掛けが切れた時の対応だ。
『俺の狙うエモノは、いつでも大物だがらな』
それが春樹の返した台詞。
大物狙いの釣り人を、太公望と称するが、それを気取った彼は、その後も次々と仕掛けを海底に引っ掛ける。
その結果たった一日で、数千円の仕掛けが海のもくずと化した。それ以来春樹は、一度も竿を手にしてはいない。
「あっ、まただよ。また引いてる」
その翔太の思いも余所、に再びリールをまきだす志織。
「……なんてことだ、さっき投げたばかりじゃねーか」
こう志織ばかり"あたり"が連発すると、返すリアクションも薄くなる。
喜ぶのは面倒だし、驚くのも疲れる、悔しがるのも流石に飽きた。
目を丸くして、口をあんぐり開けて、呆然と見つめるだけ。
「結構、引きが強いよ」
だが志織の表情は真剣そのもの。
今までにない竿のしなりと、巻き取るリールの重さに困惑している。
「なんだよ、そのあたりの強さ」
咄嗟に自分の竿を地面に置く翔太。
「ダメだってそんなに強く引いたら。竿を立てて、ゆっくり少しずつ引いていくんだよ」
そして志織の肩の上から腕を伸ばして、釣り竿に両手を添える。
はっとして視線をくぐらす志織。
キラキラした視線だ。翔太は後頭部が痒くなる衝動を覚える。
それでも今は、それを気にしてる場合じゃない。
釣り竿を伝って感じる手応え。やっと分かった、確かに大物だ。
大物だけに慎重さが重要だ。下手すれば針がバラけるし、岩の陰に隠れられて糸が千切れる。
「……こう?」
その胸の中で、アドバイス通り慎重にリールを巻き取る志織。
ドクンドクンという胸の鼓動が、かすかに翔太にも感じ取れた。
「そう、ゆっくりだ。……見えてきたぞ」
やがて水面に黒い魚影が映る。四十~五十センチ程はあろう大物だ。
それと同時に翔太はあることに気付く。咄嗟とはいえ、いつの間にか志織の肩に腕を伸ばしていた。
端から見たら、まるで仲のいい恋人同士のシチュエーションだ。
「……アミだな」
かすかに紅潮して、そっと竿から手を放して、魚をすくうアミを取りに走った。
「早く、トビ!」
「よし。ゆっくりゆっくり。……よし大丈夫だ」
こうしてアミをかざしてエモノをすくい上げた。
ゆうに五十センチを超すカレイだった。
「凄いじゃん、大きいカレイだ。五十、いや五十五くらいあるんじゃねーか?」
「釣りって面白いね。こんなに釣れるなんて、私って才能あるのかな」
それをクーラーボックスにいれて、志織は満面の笑みをみせる。
翔太の煙草の箱を横に置いて、記念撮影するほど無邪気な有り様。
「はしゃぎ過ぎだよ。俺が昔釣ったのはもっと大きかったぜ」
対照的に翔太は、歯を噛みしめ、口角を片方だけ上げて、憮然とした表情を見せる。
もちろん海釣り初心者の翔太は、ここまで大きな獲物は釣ったことはない。
志織と一緒になって、一喜一憂しながら竿を持っていたところまでは良かった。
だがこうして、他人の釣果を見せつけられると、虚しさだけが込み上げてくる。
「あーやめた。潮が悪いんだよ。俺、散歩してくるわ」
煙草をくわえ、不貞腐れるように髪を掻きあげながら歩き出す。
「なによそれ? あっ、私ばかり釣れるから嫉妬してるんでしょ。しょうがないなぁー神様にお願いしてあげようか? トビも一匹くらい魚が釣れるように」
志織が言った。
「はは。別にいいさ、お願いして貰わなくても」
しかし翔太は視線も向けない。言って黙々と足を進める。
「もぅ、すぐにいじけるんだから……」
志織が言った。見なくてもなんとなく分かる。頬を膨らませてブーたれて見てるだろうことは。
そしてその後の行動も、なんとなく察せられる。
「……待ってよ、私も行くよ」
思った通り、翔太を追って、小走りに駆け出した。
二人はただ無言で、波打ち際を歩いた。
海水浴シーズンも終わり、数人のサーファーがいるくらいで、人影もまばらだが、天気は上々。
引いては返すさざ波、後方からは志織が付いてくる。
砂浜には貝殻や流木が流れ着いていて、異国の匂いを含んでいる。
歩く度にジャリジャリ響く砂の音が、妙に心地よい。
沈黙を破ったのは志織だった。
「ねえ、まだ怒ってる?」
「なんのことだよ。……怒ってねーよ」
「本当? 良かった」
安心したのか、小走りに走り出すと手前でにっこり笑った。
上目遣いで少しはにかみ、大きな目をくりくりと動かす。
『こいつ、たまにこういう可愛い顔するんだよな』そう感じ、微かに紅潮する翔太。
そして二人、横に並んで歩きだした。
既に翔太の機嫌は良くなっていた。はっきり言えば、最初からどうでもいいことで機嫌を損ねていたし、なによりこうしていることが、安らぎの感情を与えていた。
とはいえ志織相手に恋をしようとも思わない。
厳密にいえば、そうならないように努めていた。
なんとなくは想像もつく、その先に待つのは虚しさだけだと。
渋柿をひとくちかじる行為と同じだから。しびれるだけの虚しい思いはしたくないから。
そのとき携帯電話の着信音が鳴りだした。志織の携帯電話からだ。
だが志織はその音色に、困惑した表情を見せるだけ。
「どうした? 出ないのか」
不思議に思い、その顔を覗き込む翔太。
「……うん」
志織は心ここにあらずといった表情で、携帯を取出して着信相手を確認する。
そしておもむろに着信を切った。
同じくして白髪混じりの老夫婦とすれ違った。
翔太達が無言で頭を下げると、呼応して頭を下げる。
男の方は、大型犬をリードで繋いで散歩させている。
見るからに仲のよさそうな老夫婦だ。こんな風に穏やかな時が過ごせたら、幸せなんだろうな。
そう思いながら、二人再び歩き出す。
「いいのか、切っちゃって」
「うん、知らない相手」
「そうか。彼氏だと思ったよ」
「トビの方は、遠距離恋愛してた彼女と別れちゃったんだよね?」
「なんだよ、涼さんから訊いてるのか」
「まぁね。だけどトビのことだから、吹っ切れて、新しい彼女が出来ると思ったんだけど」
「そう簡単な問題じゃないさ」
「いないか。そうだよねトビ、結構ヒマしてる見たいだしね」
見せたくもない腹のうちをさらしてるというのに、志織はあっけらかんとした表情だ。
「なに言ってんだよ。俺の心配より、お前はどうなんだよ? あっちに彼氏がいるって聞いたけど」
堪らず訊ねた。
「いるよ、とっても格好いい彼氏がね」
志織の方は相変わらずさばさばした態度だ。
「へっ、ごちそうさま。それは良いことで」
「でも、どうしてトビには彼女、いないんだろうね」
そして立ち止まり、翔太の顔を上目遣いで覗き込んだ。
「な、なに見てんだよ」
たじろぐ翔太。そのまま惹き付けられるように、足を止める。
ドキドキと高鳴る胸の鼓動。
「悪くはないと思うんだけどな。……うーん、七十点ぐらい?」
そんな想いも知らず、あっけらかんと言い放つ志織。
「はあ? 七十点って、それって良いのかよ」
「うん、結構いい方だよ」
その言葉に翔太は笑いを堪えられなかった。
「ハハハハ……。そうか」
「フフフフ」
志織も笑い出す。
何気ない会話だ。何気ない会話だが、どこか和むものがそこにはあった。だから自然と溢れた笑顔だった。
「ん? 冷たい、なんだ」
その時、翔太の頬に冷たいなにかが当たった。
「雨……かな」
空を見上げる志織。
同じくして翔太も空を見上げる。
空はさっきまでの青空が嘘のように、薄暗くなっている。
叩きつける雨粒が、砂浜をかすかに黒く染めて、陽炎となって弾ける。
ところどころだったそれは、やがて一気に叩きつけて、全てを黒く染め抜いた。
「酷い雨だね」
「とにかく、車まで走るぞ!」
こうして二人は退散を余儀なくされた。