洗いざらしのシーツの感覚
ひと時の静寂がある。
辺りに響くのは、時折行き交う車の排気音だけ。遠くで飼い犬が遠吠えしている。
『……桜谷町△△地区内において、車両火災が発生しました。消防団員は速やかに出動願います』
やがて響き渡る広報無線。
それは翔太の管轄外の地区だった。ホッと胸を撫で下ろして、再び足を進める。
一方の志織は、その様子を不思議そうに見つめている。
それでも翔太に追従して、歩き出す。
「訊いたよ、消防団に入ったんだってね。お兄ちゃんが嬉しそうに言ってたもん。今の放送、行かなくていいの?」
「涼さんが? いいんだよ行かなくても」
抑揚なく言い放つ翔太。
俺が入団したことまで、いちいち報告してたのか、と少しばかり呆れる。
「なにか怒ってる? 行かないと、お兄ちゃんに叱られるよ」
その気を察してか、後ろから覗き込むような仕草の志織。
「怒ってねーって。大体なんで俺が……」
……なんで俺が、涼さんに叱られなきゃいけない。
……喉から出そうな言葉を飲み込む。
「管轄外なんだよ。自分らの管轄での火事じゃなきゃ、行かなくてもいい」
自分自身、イラつきの感情が支配してるのは理解していた。
溢れるその感情は、簡単には制御出来ない。
だけどそんな個人的な感情を、関係ない志織にぶつけたくはなかった。
冷静を保とうと、ボーダーラインをはる。
うんうんと頷く志織。
「お兄ちゃん、そんなこと言ってたな」
記憶を探るように、右手人差し指でこめかみを叩く。
「だけど消防団ってカッコいいよね」
だがその志織のあっけらかんとした台詞が、翔太のボーダーラインを踏み外した。
「カッコいい? 冗談。そんな訳ねーよ。金にもならないボランティアだぜ」
堪らず吐き捨てた。
「えっ?」
「まったく、面倒だよな。俺、なんであんなの入ったんだべ」
「どうして? 凄いことじゃない、地元の為に頑張れるなんて」
志織の言いたい意味は、翔太とて理解している。
「凄くねーよ。ボランティアなのに人に使われて、兵隊みたいなことしてるんだぜ。今だって朝四時起きで朝練やらされて、もうクタクタだよ」
それでも一度愚痴を言うと、次から次に言葉が溢れ出る。
現にサイレンひとつでびくびくする自分がいる。
サイレンひとつで馳せ参上して、プライベートな時間もなにもない。
仮に参上したら、いつ終わるかも予測不能。夜中であれば、終夜ぶっ通しなんてことも有り得る。
貴重な時間を奪われて、規律や戒律で縛り付けられ、それなのにそれに見合う報酬もない。正直その存在意義に疑問さえ感じる。
そして流れる沈黙の時間。
志織の反応はない。不思議に感じて、後ろを振り返る。
志織は真っ直ぐに翔太を見据えていた。
怒るでもなく、笑うでもなく、悲しむでもなく、ごく当たり前の穏やかな表情。
「大変なんだね。確かに、たったひと言で片付けられることではないよね。でもそんなこと言うのはトビらしくないよ」
穏やかな湖のような、雄大な月のような、とても静かで澄んだ響きだ。
「そう言ってもな……」
少しだけ冷静を取り戻す翔太。
ポリポリと後頭部を掻き、勢いで喋ったことを後悔する。
「近所のひとり暮らしの老人、その相手とかもしてるんだよね?」
「……ああ。火災予防の一環としてな」
災害においては、孤立することが一番の問題だ。
特にひとり暮らしの老人は、いざという時その危険性が増す。
大沢の消防団は、それを阻止する為に、その老人達を訪問したりもしていた。
ただ行って、短い会話をするだけ。それだけで状況が把握できる。
「猿渡のアサばあちゃん。昔は世話になったよね」
「えっ、何故それを?」
「お兄ちゃんに訊いたんだ。トビはアサばあちゃんの担当だって」
アサばあちゃんとは、翔太達が小学生の頃、世話になった老婆。猿渡という場所に住んでいる。
担当という訳ではないが、翔太はその老婆の家を訪問することが多かった。
「確かに世話になったさ。ガッコー帰り、アメ玉とか貰ったしな」
「柿をもぎ取ろうとして、怒られたこともあったよね」
「あったな。だけどあれ、しぶがきだったんだよな」
「アサばあちゃん、あまい方と交換してくれて」
確かにそうだ。損得勘定では割り切れぬ関係もある。
「本当、俺らしくないよな。……今の話、涼さんにだけは言うなよ」
「うーん、どうしようかな?」
「お前なあー、マジ頼むよ」
「うちのお兄ちゃん、怒るだろうね。そんなの訊いたらさ」
「そういうこと言うのかよ。お前性格悪いぞ。そんなんじゃ嫁に行けないぞ」
「あら別にトビに貰ってもらおうとは思わないから、少しも気にしないわ。まあ、あたしの場合、周りに幾らでも良い男がいるから心配しないで」
「よく言うよ本当」
やがて二人見つめ合うと、どちらともなく笑い出した。
何気ない会話だった。それでも志織との会話は、翔太の心に癒しを与えてくれる。
まるで洗いざらしのシーツに包まれるような、安堵感を感じていた。