大人になった幼なじみ
ある日の夕時。新人消防団員である翔太は、母の使いで近くのスーパーへ買い物に来ていた。
スーパーに着くと、頼まれた商品を適当に探し当てる。
頼まれた物は数点あった。それらを買い物カゴに入れ、会計を済ませようとレジに並ぶ。
平日の夕時、店内は夕食の買い出しをする主婦達で、かなりの賑わいを見せている。
数台設置されたレジも混雑しており、翔太の前にはカゴいっぱいの商品を携えた二人の主婦が並んでいた。
早く終わらないかな、そんな風に思い、なにげに店内を見回す。
「あれって」
そしてある人物の姿を認め、視線を注いだ。
この辺には似つかない、どことなく都会的で洗練された装いの女。
ブラウンの前髪を七三に分けて、後頭部の高い位置で結わえたポニーテールが、ふんわりと揺れる。
その顔かたちには見覚えがあった。
南雲志織。二十八歳、いや誕生日が早いから、二十九歳になったかも知れない。翔太の同級生であり、隣の家の幼馴染みだ。
「トビ?」
向こうも翔太に気付いたらしく、トビ、という翔太のあだ名を呼んだ。
そして迷うことなく歩み寄ってくる。
「やっぱ志織か。相変わらず元気そうだな」
「相変わらずってなによ。そういうトビこそ、相変わらずといった様子じゃない」
その音声は相変わらずだ。鈴を鳴らしたような、軽快な響きがある。
「確かだな。なにはともあれ驚いたよ、すっかり都会の女性じゃん」
「トビも大人っぽくなったよね。お兄ちゃんに訊いたよ、福島に戻って来たんだってね。こっちの生活には慣れた?」
「まあ、なんとかな」
懐かしい気持ちが込み上げていた。数年振りの再会だ。
どちらも大人へと変貌を遂げてはいるが、ごく自然に言葉が口をついた。
「お前、ちょくちょく帰ってきてるらしいじゃん」
志織のことは、涼から訊いていた。
涼とは志緒の兄で、翔太と同じ消防団の団員。
『志織の奴、最近ちょくちょく帰ってきてるんだ。なんか悩みごとでも抱えてるのがな。いつもなら考えられねーんだ。家族だからか、話してはくんねーし』
そう言ってしょぼくれる。
とはいえこうして直接、志織の表情を見れば、それは涼の勘違いだと思えた。
何故ってどう見ても志織、昔から変わらぬ笑顔は健在だ。
「この歳になると、たまには田舎の空気も吸いたくなるのよ。ほら、あたしってパソコンさえあれば、どこでも仕事ができるじゃない」
淡々と言い放つ志織。
志織はウェブデザインの仕事をしていると訊いたことがある。
「成る程な。そいつは夢のようなお仕事だ。自由人のお前には、お似合いな仕事だよ」
うんうんと頷く翔太。
確かにそれならば、県外だろうと海外だろうと、どこにいようと仕事に支障はきたさない。
「……千四百十円になります」
不意に店員が伝えた。
翔太の後方で、小太りの主婦が『早くしなさいよ』とばかりにジロジロと視線を向けている。
「あ、はい」
慌てて財布から現金を取出し、店員に渡す翔太。
「じゃあ、行くわ。そのうち飲みにでも行こうや」
そしてお釣りを貰うと、その場を立ち去ろうと買い物カゴに腕を伸ばす。
「ちょっと待っててよ。あたしの方もすぐ済ませるから、一緒に帰ろうよ」
「え? 待っててってお前……」
だがその志織の台詞に、呆気に取られて立ち尽くした。
待ってといわれても、志織の方は来店したてで、なにも購入してない状態。
どれだけ待てばいいか、予測さえつかない。
「いいから、すぐすむって」
それでも志織は、聞く素振りも見せない。
翔太の言葉も、主婦の冷たい視線もお構いなしに、店内陳列棚方向に消えて行った。
「ははは、まったく変わんねーな」
堪らず苦笑する。
同時に響くゴホンという咳払い、それは小太りな主婦。
翔太はぺこりと一礼して、早々とその場を立ち去る。
つくづく志織の自由奔放さを思い出していた。
志織のその真っ直ぐな性格は、なにも今に始まったことではない。
幼稚園、もしかしたらもっと前から、そんな性格だった。
一番古い思い出は、小学校低学年の頃。
『トビ、ここだけの話だよ。うちのお母ちゃん、最近へんなんだよ。きっと宇宙人と入れ替わっちゃったんだ。あたし逃げるから、トビも付いて来て』
そんな人智を越えた理由で、翔太を巻き添えにして、二人で家出したこともある。
あれは確か、テレビで宇宙人などが流行っていた時期だ。
もちろんその後、二組の家族が必死で捜索する。捜索といっても狭い地元でのこと、しかもその対象はまだ幼き二人。あっさりと見付かってしまう。
戸惑いを覚えたのは、その時の志織の反応だ。
テレビに影響されて、奇想天外な話をして、翔太を巻き込んで家出した筈なのに、最初に泣き出したのは志織だった。
近所の物置に潜んでいたところに、懐中電灯の明かりが射し込む。
『志織、いないの?』
聞こえたのは志織の母親の声だ。
志織が宇宙人だと名指しした、張本人の登場。
懐中電灯の明かりで、かすかに浮かぶその顔は、確かに宇宙人を彷彿させるようで少しばかり不気味だ。
もしかして本当に宇宙人なのか? 翔太も漠然とそう感じた。
そして次の瞬間。
『お母ちゃーん!』
懐中電灯の明かりに、泣きじゃくり、走り出す志織の姿が浮かび上がる。
『宇宙人じゃないのか?』
翔太も愕然と、それでも取り留めない安堵感で、ほっと胸を撫で下ろす。
その全ての原因は、翔太のせいとなる。
『男のくせに志織ちゃんを、夜遅くまで連れまわして』
そう父親に、こっぴどく怒らる始末だった。
「ゴメンね、待った?」
駐車場で待つ翔太に、志織が駆け寄ってくる。
「別に待ってねーよ」
覚めたように言い放つ翔太。
とはいえ既に、二十分は経過している。既に三本の煙草を吸っている。
今年消防団に入った翔太だが、最近はポンプ操法という消防団訓練に振り回されていた。
それはポンプとホースを繋いで、放水する訓練だ。
素早いタイム、及び的確な所作を行い、他の消防団と競い合うのだ。その為だけに練習が必要だった。
練習といっても、基本ボランティア。誰もが本業で仕事をしているので、それらの合間を縫っての練習となる。
つまり朝早起きしての朝練だ。午前四時起きで、それが数か月続いている。
こうなると、ただ黙って立っているだけでも眠気が襲ってくる。会社でも何度夢の中に誘われたことか。
ポンプ操法にとって、最大の敵は睡魔という魔物だ。
翔太は自宅からここまで、自転車で来ていた。それを引きながら、志織と並んで歩きだす。
「星、綺麗だね」
煙草を吸う翔太に、志織が言った。
「はぁ……」
「ねえ、聞いてる? 空、見てよ凄いよ」
「空がなんだよ」
促されるままに渋々空を見上げる。
「確かに、綺麗だな」
子供の頃から見慣れた光景だと思ってた。なんともないただの空だと思っていた。
だが違っていた。そこに広がっているのは広大なる大パノラマ。
かすかに天の川銀河が広がり、夏の大三角形も鮮やかに浮かび上がる。
煌めく星々のどれもが幻想的だ。精神的にイラつく心さえも洗われる気がした。
「ああ、本当すげーや」
ふうーっと煙草の煙を吐き出す。
「だよね。この星空、都会では見れない光景だよね」
新月の夜だった。月明かりさえないその状況が、志織の表情を青く染め抜く。
「そうだな」
その青く染まる横顔を見つめる翔太。
星空の美しさも見栄えするが、それを見上げる志織にも心を奪われそうな自分がいる。
都会にいって綺麗になったよなと、しみじみ思った。
「これだけの星があるんだから、宇宙人だってきっといるよね」
だがその志織の台詞に、我に返る。
「は、宇宙人? 宇宙人ってまだそんなもん信じてるのか」
あやうく危ない方向に、引き込まれるところだった。
宇宙ネタついでにいえば、ブラックホールに飲み込まれる寸前。
志織にどんな感情を持とうと、それが叶わないことは理解している。
散々ペースを乱されて、徒労に終わるのは目に見えている。
それは昔から知っている。"しびれる"だけの感覚は、まっさらゴメンだ。
それでも志織の表情は本気だ。本気で宇宙人はいると信じている。
「いるよ。いない訳ないじゃん」
ぷっと頬を膨らませ反論した。その対応の素早さも昔からのもの。
「まったく、変わらねーなお前は」
「トビのロマンのなさもね」
そして二人、どちらともなく笑い合った。
かつて知ったる幼馴染み。互の魅力と欠点、その両方を知り得て、気兼ねなく会話できる仲。
それが幼馴染みという関係だ。
「だけどしょっちゅう帰ってきて来ていた割には、全然会わなかったな」
「これでも遊んでいる訳じゃないからね。家に籠ってお仕事はしてるし」
「贅沢な仕事だな」
「会社員も立派な仕事じゃない」
「立派かよ、社会の歯車になる仕事だぜ」
「歯車上等でしょ、世の中には歯車にもなれない人だっているんだから。そんなことより、こっちの暮らしには慣れた? 流石に退屈に感じてきたんじゃない?」
「そんなことって……」
呆気に取られる翔太。
それでもその志織のハキハキした対応を、流石だと感じた。
しかも翔太の気持ちを明らかに見抜いている。
都会に行ってもその点は変わらないなとつくづく思った。
ちなみに歯車上等とは、翔太の父親良夫の台詞。
『この歯車のひとつひとつが、デカい機械を動かしてんだ。この社会だってそうだべ、歯車上等、それのなにが悪い』
精密部品を作る、気構えみたいなものだ。
その気構えは翔太の中にも存在している。血は誤魔化せないというか、家業による習慣か、翔太自身も精密部品を作るのは得意。
現在の会社でも、同じような仕事をしてる。
「確かにかなり退屈だな」
肩を大きく開いて伸びをする。
スーっと煙草を吸って、携帯灰皿にもみ消した。
おそらく変わったのは自分の方だ。
「色々とメンドーなことばっかあるし」
昔の自分なら、いちいち気にもしなかったことが脳裏を過る。
仕事のこと、連絡のつかない彼女のこと、消防団のこと、その他多くの見えざる今後への不安が、ぐるぐる駆け巡る。
そしてなにより、それらの要素を拭い切れぬ自分に苛立ちを感じていた。
「志織は神奈川だったよな。あっちは楽しいか?」
その感情を悟られぬよう、志織に向かって訊ねた。
「どうだったのかな」
何故だろう、その志織の返答には、遠い過去を探るような、漠然としたものを感じる。
「なんだそれ。俺は今の話をしてんだぜ」
「神奈川の話もいいけど、久々に福島も満喫したいな、ってことだよ。今の時期なら、どこがいいかな」
昔の翔太なら、その台詞になにかを感じ取っていただろう。
「満喫か。今の時期なら、海だろ。……そうだな、いわき方面とか」
だが今は、その真意に気付くことはない。
「確かに夏のいわきはサイコーだな。久々にバイク転がすのもありだし、R32の調子も見てみたい」
左手で顎をさすり、思考に耽る。
この数ヶ月、ポンプ操方のせいで、大好きな趣味をおろそかにしていたのを思い出した。
「バイクはダメだよ、トビ、バイクに乗ると性格が変わるから。できたら車の方がいいかな」
「はぁ、お前も行く気かよ。別にどっちでもいいけど、お前彼氏いるんだろ?」
志織には都会で同棲している彼氏がいた筈だった。
「あれー? トビもしかしてデートと勘違いしてるの?」
その台詞に意地悪そうな視線を向ける志織。丸くて少しだけ目尻が下がった目。まるで小悪魔のようなキラキラした表情だ。
「あのなー」
流石の翔太も呆れの感情が込み上げる。ポリポリと後頭部掻く。
『ウウウウー…………』
だがその突然の火災を知らせるサイレン音が、翔太の表情をもぎ取った。
サイレンは鳴り響く。夏の夜空に永遠と。
「嘘だろ、俺らの管轄じゃねーだろうな……」
足を止めて耳をひそめる。
実際は数秒ほどの短い時間だ。それでも妙に長く感じる。
微かに早まる胸の鼓動。辺りの色までが消えた気がする。
俺の管轄じゃないように、そう必死に願った。