溶けた前世
えっらい美形なお兄さんだわ。
駅前のタクシーターミナル。そこでタクシーから降り立った恐ろしいほど整った容貌の青年に目を奪われた。
時計を覗き込む仕草にも色気が滲んでる。
老若問わず視線が吸い寄せられる。かくいう私も青年に目を奪われた。周りの女の子たちも騒めいている。
どこぞの芸能人かもしれないわねぇ、と私は目の保養とばかりに青年に視線を向けた。恥じらいなんて出産とともにひりだした。
あ、嘘だ。あったわ、恥じらい。
だって青年と目が合った、と思ったら心拍数が跳ね上がったもの。息子…は言い過ぎ…姉弟…は厚かましいか。そんな若い子で、さらにあんなにも美しい顔をした青年と目が合ったら、そりゃひりだしたはずの恥じらいも戻ってくるわ。
少し照れくさくなって、青年から視線を外し、バス乗り場へ向かう。
いやはや、ときめいたのなんて何十年ぶりだろう、と思い返しつつ、少しだけ嬉しい気持ちに口元が緩んだ。
家に帰ったら娘にイケメンを見たことを自慢しようか。まだ、そういうことに興味がないらしい娘は、「ふぅん」とそっけなく相槌をうつだけだろうけど。
横断歩道の信号が赤に変わり立ち止まる。目の前を動き出した車が通り過ぎる。
ぼんやりとそれを見ることとなしに見ていると、右腕を取られた。
突然のことに驚き振り返ると、先ほどの恐ろしく整った容貌の青年が、息を切らしつつ私の右腕を掴んでいた。
その顔には切迫した表情が浮かんでいる。
そして私の顔をじっと見つめると、間違いない、と呟いた。
私は困惑に体を動かせない。信号が青に変わる。しかし、彼も私も動けない。
興味深そうな視線を向けて、周りの人たちは横断歩道を渡っていく。
「あ、あの、」
意を決して声を上げると青年は、私の腕を一度離し、その場に跪く。そして、流れるように私の手を取ると、私の手に額をのせ、
「…ようやくお会いできました、姫」と、言った。
信号がまた変わる。
状況を処理できずに固まった私はどこか冷静な頭の片隅で、「五十路が近いおばちゃんに、姫はキッツいわぁ」と思っていた。
周りが騒めいている。私たちを中心に輪ができている。
そうだよね、私が野次馬でも見るもん。あ、やめて、写真撮らないで。
混乱から正気に戻った私は信号が青に変わったのを目の端で確認して、未だ跪く彼から手を引っこ抜き、「会えて光栄でしたわ!」と捨て台詞よろしく言い放ち逃げた。
本気で逃げながら、頭の中にあるのは、「木の芽時」という言葉。今は秋だけれど。
しかし、私の必死の走りも、青年から見たら牛歩のごとしだったのだろう。
「姫っ!」と焦ったような声がしたと思ったら、すぐに追いつかれ、再び腕を取られる。
今度こそ、ヒッと怯えた声を出せた。
私の声に一瞬怯んだ青年だったが、申し訳ありません、と小さく呟いただけで手を離す様子はない。そのまま横断歩道を渡りきり、人の邪魔にならない場所に私を誘導した。
周りの人がチラチラと私たちを見ながら通り過ぎていく。私も通り過ぎたい。切実に希望する。
人の流れが収まると青年は手を離してくれた。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。あの、少しだけ、少しだけでいいので私の話を聞いていただけませんか。姫」
突然、保健師をしている友人の声が脳裏をよぎった。
”いい?刺激しちゃだめよ?そういう場合は、許容したように見せかけて、人の目のある場所に誘導して、刺激しないように、周りにこっそり助けを求めるの。絶対に刺激しちゃダメ”
そうだ刺激しちゃいけない。断って逆上したらどうするの。冷静にならなくちゃ。大丈夫、伊達に年を重ねていないはずだわ。
冷静に、冷静に。
青年は縋るような目で私を見ている。引き攣った笑みを頬に張り付かせて、私はわかりましたと頷いた。青年が輝くように笑う。う、眩しい。目が潰れる。
「姫、感謝いたします」
姫呼びはやめてほしい。いたたまれないから。
私はその場所からほど近い喫茶店で話を聞くことを提案した。バス待ちでたまに利用するその喫茶店は、マスターのいるカウンターから全部の席を見渡せる。背もたれが高いので、隣の席に声は聞こえづらく、程よくプライバシーも守れるのだ。あそこなら、万が一SOSを出さなくてはいけない場合でも、マスターがうまいこと助けてくれるだろう。
彼もそこで良いと了承してくれたので、場所を移動する。
手を差し出されたのは無視した。青年は一瞬しょんぼりと肩を落としたが、無理に手を取られることはなかった。逃げられないのは、先ほどの横断歩道で実証済みだから、青年も納得したのだろう。
連れ立って喫茶店へと入るとコーヒーの匂いが鼻をくすぐった。少し薄暗い照明が、昭和チックで気に入っている。
マスターが、私たちをチラリとみて、いらっしゃいませ、と会釈した。
一体私たちはどんなふうに見えているのだろう。ちょっと聞いてみたい。
すぐ逃げられるのは出入り口に近い席だけど、とチラリと青年を見ると、青年は、美しく目が潰れそうな微笑みで店の奥へと進んだ。考えていることはお見通しらしい。
奥から2番目の空いている席に腰掛け、注文を済ませると無言になった。
さて、彼の意図はなんだろう。
私は、水で喉を潤す。予想外の出来事に喉が渇いていた。青年もそうなのだろう、グラスの水を飲み干している。
しかし、綺麗な顔をしている子だな。
グラスを口に運びながらちらちらと盗み見る。あの、朝のドラマに出ている、なんとかっていう俳優さんに似てる…?いや、青年の方が整っているわ。背も高いし、背筋もしゃんとしているから、さらに男前度が上がっている。てか、信じられないくらい顔が小さい。まじか。
青年が伏せていた目を挙げると視線がばっちりと合った。あわてて目を逸らし、視線をうろうろと彷徨わせる。
見てる。青年がめちゃくちゃ見てる。やめて。見ないで。もう、直視に耐えられる顔ではないの。年を重ねると、肌も皺を重ねるの。
注文したものが届けられる。運んできたマスターが背を向けてカウンターに戻るとようやく口を開いた。
「突然、あんなことをして申し訳ありませんでした」
といって頭を下げた。
話が通じそうな雰囲気にホッと胸を撫でおろす。あれが非常識な振る舞いだと認識しているなら、きっと話は通じるはず。
「私の話を聞いていただけますか」
背年は、私を貫くような強い視線を向けた。その顔は真剣そのもので、えもいわれぬ強い想いが感じられた。
うなづくと、彼は、ありがとうございます、とふ、と息を吐いた。そして意を決したように姿勢を正した。
「信じられないかもしれませんが、私には前世の記憶があります」
ぜんせ…。うん大丈夫まだ許容範囲内大丈夫大丈夫。
しかし、青年の持つ爆弾はそれだけではなかった。
「あなたは、前世で私が大切にお守りしていた、姫君です」
ああ、だからの姫呼びか!
納得しかけて、いやいやと首を振る。姫って。え?姫って。私が?え?姫?
うん、一旦落ち着こう。
視線が泳いだ私の様子に青年は寂しげな微笑みを見せた。
「信じて頂かなくても構いません。ただ聞いてほしいのです」
前世詐欺なんてあっただろうか。聞いたことないけど。スピリチュアル詐欺の類かなあ、それともロマンス詐欺?
でも、私を狙うのはなんでかな。青年の容姿ならもっと若い子とか、もっと金を持ってそうな奥様の方が荒稼ぎできそうだけど。
「ちなみにあなたを騙そうとは思っていもいません。詐欺を働くほど金には困っていませんし、信用できないなら、名刺をお渡ししましょうか?一応名の通った企業に勤めております」
と、スーツの胸ポケットに手を入れるのを、結構です、とやめさせた。嘘か本当かわからない名刺なんかもらって、こちらの名刺も寄越せなんて言われたら困る。個人情報を取られるのは怖い。
私は気持ちを落ち着かせようと、注文したカフェオレに砂糖を三つ入れて、一口飲む。うん、甘い。入れすぎた。
「信じられるかはわかりませんが、お話は伺います。それでいいんですよね?」
彼は、うなづくと話を続けた。
「私は前世で、第三皇女殿下の護衛騎士でした」
青年は目を伏せて、大切な宝物をそっと取り出したような表情をした。柔らかく微笑んで、慈しむように懐かしむように。
大切だと再認識するような、そんな表情だった。
その表情は、その思い出が青年にとってどれだけ大切なものなのかを物語っている。
私は自分を恥じた。
それがどんな非常識であれ、人が大切にしているものを嘲るなんてとてもひどい人間だわ。
だから、私は背筋を伸ばして、まっすぐに青年を見た。聞いてますよ、と彼に伝わるように。
青年は、目を伏せたまま大切な思い出を語る。
「姫は美しい人でした。妖精のような可憐な容姿もそうですが、何よりも、その心根が。姫を守るため、私は一番近くで姫を見ていました。そして、自然と姫を愛してしまっていました。…護衛騎士としては失格です。しかし、姫は私の想いを許してくださり、さらに、私に想いを返してくださったのです」
私の脳裏に美しい絵が浮かぶ。
柔らかな明るい茶色の髪の、女性、と呼ぶにはいささか幼げな女の子。
女の子が柔らかな微笑みを浮かべて振り返る。想いのこもった視線の先には、暗い茶色の髪を持つ騎士。
二人は薔薇が咲き誇る庭園を歩く。
決して触れ合うことも隣に並び立つこともない。会話も何もない。
時折、女の子が振り返り、騎士と瞳を合わせて微笑み合うだけ。
それでも二人の気持ちが通じ合っているとわかってしまう。
「騎士と王女の恋なんて叶うはずもなく」
青年の声が一段、低くなった。表情に浮かぶのは苦悶。
「私たちの恋は、すぐに周囲に知れ渡り、私は護衛騎士を解任、姫の他国への嫁入りが早まりました」
それは初めからわかっていたこと。
と、私の中から言葉が滲んだ。
剣の実力だけ護衛騎士に選ばれた彼は、伯爵家の三男で。騎士を叙任されていたとはいえ、姫を娶るには絶望的に身分が足りない。
滲み出た想いは切なさ。流れ込んでくる彼らの背景。
私は胸に手を置いて首を傾げる。
今のは、なに?
「私は護衛騎士を解任され、姫が嫁ぐ国とは反対側の国境へと送られました」
青年は苦悶に顔を歪める。テーブルの上に置かれた両手がぎゅっと握られる。痛みを堪えるようなその仕草。
「一年ほど後、姫が他国へ向かって出立したと聞かされました。第三とはいえ王女です。本来ならばもっと準備に時間をかけて嫁ぐはずでした」
いいえ、ちがうわ。
青年の言葉を否定する、私の中からの言葉。
わたくしの婚姻が早まったのは、彼の国からの要請だったのよ。決してあなたのせいじゃない。
でもね、時期が悪かったの。長雨が続くあの時期でなければ。
「道半ば。姫の乗った馬車は谷底に落ちた」
心のうちの声と青年の声が重なる。
「そこで、姫は命を散らした(おとした)」
「私は姫を守ることができなかった」
わたくしはあなただけを想って逝けて幸せだった。
「姫」
青年は俯き肩を震わせた。
可哀想に。
私は湧き出る感情に翻弄される。私ではない私(誰か)の感情に飲み込まれる。
可哀想に。ずっとそうして苦しんでいたの?
わたくしがあなたを想って幸せに光の庭へ召されたあともずっと、そうやって苦しんでいたの?死を越えて想いを残すほどに。
なんて、なんて可哀想で…愛しい人。
時を越えて、生死を越えてわたくしを求めてくれたのね。
「それなら」
私の口を使って、私の声を使って、私ではないものが彼へと青年へ語りかける。
「わたくしと一緒に逝きましょう?」
青年が、ゆっくりと顔を上げる。
私の口角がゆったりと上がるのを感じる。
もちろん私の意志ではない。私の体は誰かの支配の下、私の意志では動かすことができない。
怖い。
本能的な恐怖が迫り上がる。
青年目が見開かれ、姫…?と囁きが落とされる。
私の体が、肯定の意を示す。
「姫!」
「さあ、今度こそ二人で逝きましょう?」
逝くって、そんな、だめよ。私は私のもの。前世なんて、すでに終えた生なんて知らない。前の生に残してきたものなんて関係ない。
私の人生にも大切なものがある。
子供たちの顔が浮かぶ。
私にはまだやらなくてはいけないことがたくさん残っているの。
しかし、体は言うことを聞かない。
青年に向けて、微笑みを向ける。
「ねえ、あの時は実らなかった想いを実らせましょう?…一緒に逝ってくれるかしら?」
青年はしばし呆然とし、じわじわと喜色を浮かべた。
「はい…はい!シャルロッテ姫、私と今度こそ」
「ロルフ」
青年の手が、私の手が、互いに向かって伸ばされる。
私にそれを止める手立てはない。
二人の手が触れる。
ズルリ、と何かが心から抜けた。
テーブルの上を呆然と見つめる。
むせかえるようなバラの香りがあたりに広がって、テーブルの上には、ふんだんに布を使ったアクアブルーの豪奢なドレスを纏った女性と、暗い茶色の髪の騎士。二人は手を取り合って、ゆっくりとその体を互いに引き寄せた。
透けるアクアブルーのドレスの向こうで、青年もまたその光景を呆然と見つめていた。
二人は互いをぎゅっと抱きしめ合う。しばし見つめあった二人は、何かを囁き合う。
青年が、女性を見つめ、すうっと涙を流した。それを隠すように、女性の肩に顔を埋める。
その彼の髪を女性が優しく撫でつける。愛おしげに。
女性は、私を見て微笑んだ。
ああ、一緒に逝くのだ。と感じた。
幸せにね。
心の素直な場所から、言葉が浮かんできた。
女性は見惚れるほどのとろけるような笑顔を浮かべて、そしてそのまま徐々に薄くなり、消えた。
どれくらいそうしていたのだろう。
テーブルの上には、冷めてしまったコーヒーと甘すぎるカフェオレ。
「…っ」
青年から堪えきれなかった嗚咽が聞こえる。
片手で顔を隠し、俯き肩を震わせる青年に私はそっとハンカチを差し出した。ハンカチがたい焼き柄なのは勘弁してくれ。
青年は、すいませんと涙声で謝りつつ、たい焼き柄を目元に押し当てた。泣いてもなお美しい青年を見ないようにしながら、私は冷めきってさらに糖度が増したカフェオレをゆっくりと飲み干した。
ありがとうござました、と青年はようやく顔をあげた。
目元も鼻の頭も赤いのに美しいってどういうことだろう。
でも、少し可愛いかな。
「…いなくなってしまいました」
青年は寂しそうに微笑む。
「ずっと、幼い頃から大切にしていた遠い思い出が、本当に遠くなって…もう、薄れてきています」
懐かしむような青年の表情に、私は青年も思い出の中のお姫様に淡い想いを抱いていたことを知る。
でも、もう姫も騎士もいない。彼らは溶けてなくなった。
青年はもう前の生に囚われずに、現生で新しい恋を見つけてほしい。姫ではない、誰かを。
「これから、ですね」
彼自身だけの人生は。
私の言葉に青年は赤い目元はそのままに、しかし、晴れやかに笑った。
喫茶店を出て、晴れた空を見上げた。
「色々とありがとうございました」
青年が、頭を下げるのに、私はいえいえ、と手を振る。
「奢ってくれてありがとう。ご馳走様でした」
青年は顔を上げて空を見る。その表情は切ないような、淋しいような…どこか晴れ晴れとしたような。
「あの、」
言いづらそうな青年の声に、彼の整った顔に見惚れていた私は我に返る。
「すいません。厚かましいのは承知の上、お願いがあります。この、ハンカチを譲っていただけませんか?…今までのことが夢ではないという証拠を残しておきたくて」
ああ、青年はわかっているんだ。
彼の中の騎士がいなくなったから。
騎士の記憶は薄れていく。生きてきた人生の大部分で請い求めてきた、恋焦がれていた姫の面影と共に。
青年はそれを夢にしたくない、といった。ずっとずっと側にあった騎士の思いも姫への思慕も。
その想いの証拠…墓標が、たい焼き柄のハンカチでごめん。
もっとマシなハンカチを持って来ればよかったと考えて、私の所有するハンカチは全て子供たちのウケを考えて変な柄だったことを思い出す。…バーコードおじさんの柄とか相撲技のハンカチでないだけマシか、と諦める。
「えっと、その、変な柄のハンカチでよければ、差し上げますよ」
申し訳なくそう言うと、青年はハンカチに目を落とし、まじまじとそれを見る。
「…たい焼き?」
「ええ、子供たちのウケを狙って…」
私の趣味でもあるんだけれど。
ふは、と青年が笑った。ようやく、肩の力が抜けたような笑い声だった。
青年はハンカチを広げて、全体像をしげしげと見つめ、一つだけ齧られたたい焼きを見つけたのだろう、くくく、と肩を震わせた。
「ありがとうございます。うまく消化できそうです」
青年はもう一度、騎士を彷彿とさせるような綺麗な礼をした。
「では…お元気で」
「ええ。あなたも」
青年は、綺麗な笑顔を見せてすぐに背を向けて駅へ向かった。
その背はもう振り返ることはない。
私は少しだけ青年の背中を見送って、息をふっと吐き出し時間を確認した。
バスの出発時間だった。
次のバスまで1時間近く…。
私はすごすごと喫茶店に戻る。頭の中で帰ってからの家事の段取りを組み直しながら。