第1章 アイゼニアの姫のこと 2-1
アイゼニアの首都サイラスは、大いなる祝典に沸いていた。
サイラスは、彼らの愛してやまない姫君であるティアナ・フローレンス・デュマの生誕十七年を祝う三日間の祭りのただなかにあったのである。メインストリートであるカタリーナストリートには、食べ物やゲームの屋台が立ち並び、交通の要である水の広場では、剣劇やダンスパフォーマンスなどの催し物が繰り返し上演されている。
サイラスの人々にとってティアナはただの「お姫様」ではなかった。彼女はあまりにも他の王族とは違ったのである。
五歳まで庶民として町暮らしをしていたティアナには、それが当たり前だったのかもしれない。物怖じしない性格で幼い頃から「お忍び」で街に現れては、市井の人々と気軽な会話を楽しんだ。人々は彼女の正体を知りながら、まったく気づかないふりをして近所の家の子供とおなじように彼女と接した。彼女がそれを望んでいるのを知っていたからである。子供たちも(こちらは全く彼女の素性に気づいてはいなかったのだが)自分たちの仲間としてティアナを迎え入れた。
やがて彼女は、皿洗いやの荷物運びなど商家の手伝いをしたり農村部に現れては土を耕したりするようになる。最初は戸惑ってなんとかやめさせようとしていた人々も、やがて彼女を受け入れ、労働の対価としてお駄賃を与えたり収穫した作物を持たせたりするようになった。
そうして街に溶け込めるようになった裏にはまだ存命であったフローレンス王妃の行動があったことも忘れてはならない。ティアナの行動を陰ながら見守っていた衛兵と共に娘が世話になった家を一軒一軒訪れて、お礼を言って回ったのである。『黄金の五人』のひとりであり今となっては彼らの王妃でもある契約者フローレンスが、直々にお礼を言って回る姿に人々は感動した。時間にして僅か二年の間の出来事だったが、その感動は、王妃がなくなって十年がたつ今も人々の心を温め続けている。
そうしてティアナは、サイラスの人々から特別な愛情を受ける存在となったのである。ちなみにその『お忍び』は今も定期的に行われている。
そんな姫君の生誕祭である。
国民の感情をそのままにサイラスの町は盛大ににぎわっている。
日中は馬車などの通行が禁じられた歩行者天国の大通りは、この時間、「にぎわう」という表現では不足なほどに人でごった返していた。その人波をかき分けかき分け、あるいはすり抜けるように進む矮躯の男がいる。演劇などの出し物や香ばしい匂いを放つ屋台などには目もくれず、男は歩き続ける。
ウォルフ・シーアスターであった。
遡ること一ヶ月と二日前、トルキアにいた彼が今アイゼニアにいる。その服装は誇りまみれで、体からは異臭がする。口元から顎にかけて短く整えられていたはずの髭は、伸び放題に伸び、髪の毛はボサボサである。身なりを整える暇も取らず、歩き詰めてきた結果である。
連れ立つものはいないようである。
どうやら、彼の足は王城に向かっているようだ。二十分ほど歩き続けると、やがて人はまばらになり、祭りの開催地から離れた城の裏門にたどり着くころには、誰ともすれ違わなくなっていた。
「ウォルフさんですか?」
彼の姿をみとめた門兵のひとりが声をかけた。今の姿で見分けられたのは、何度かこうした姿を見ているからであろう。
やがて、ウォルフが近づいてくると、その体から漂う悪臭に思わず門兵は顔をしかめた。
「一大事だ。王への取次ぎを頼みます。できれば姫にも同席を願いたいと伝達願います」
アイゼニアに姫はひとりしかいない。ティアナのことだと誰もがわかる。
「・・・謁見の手配するよう連絡を入れます・・・。うぷっ」
門兵はこみ上げてくるものを必死にこらえながらそう答えた。
「ただ、非道い悪臭です。・・・そのままでは謁見できませんので、まずはシャワー室で身なりを整えてください」
門兵は背後にいた二人に指示を出すと、ひとりは場内に向かって駆け出し、もうひとりは、
「ウォルフ殿、浴場まで御案内いたします」
と、彼をいざなった。
三十分後・・・。
謁見の間にひざまずくウォルフの姿がある。ボサボサだった髪は一応なでつけられ、ローブも新しいものと交換されている。近づくとわずかに異臭がするが、先刻ほどではない。
彼が首を垂れる先にある檀上に並んだ三つの椅子には、未だ誰の姿もない。ただし、三つの椅子の中間を埋めるように、ふたりの屈強な兵士が立っている。王国のエリート部隊である近衛兵団。向かって右側の四十がらみの大男が、その団長であるアーロン・ユーイング。一般的に大剣と称されるモノの三倍は幅のある異様な剣を腰に帯びている。そのせいか剣を吊った左側の肩が下がっているが、全身くまなく分厚い筋肉でおおわれているのがわかる。
左側に立つ黒髪の男はゼノン・ギアス。四人いる近衛兵団の副団長のひとりで第一隊の隊長を任されている。アーロンほどの肉厚はないが、よく鍛えられていると分かるしなやかな筋肉は、有事の際には誰よりも早く対応できるだけの瞬発力を秘めている。三十一歳。兵士として油の乗り切った年齢である。
そして檀上にある扉の両サイドにふたりの近衛兵。ふたりともゼノンを頭に抱く第一隊に所属する精鋭である。ギリアムとガウェインという名である。こちらの扉は王室専用で、王家の者がいない時には開くことはない。その先はプライベートルームになっており、王族を除けば近衛兵と特級侍女しか入ることはできない。たとえ宰相であっても、立ち入れないスペースとなっている。
部屋の反対側にも両開きの大きな扉があり、四人の槍を持った兵士に守られている。こちらの担当は、近衛兵ではなく衛兵である。他に室内に通じる扉はなくウォルフもこの扉を通って入室した。
ほかに2名の文官がウォルフの右側の壁に沿うように立っている。彼らは記録係であり、国の要職を務めるような高位にあるものではない。
さて、十一名がこの謁見室の中にいる。ウォルフをはじめ、今まで列挙してきた者たちの認識は、そうである。誰もがそう思っている。
しかし、この室内にはもうひとりの男がいた。
黒いローブを身に着けた男である。フードを目深にかぶっており、その顔の造形は窺い知れない。闇から染み出たような男であった。その場にいてはならない男である。だが、その不審者と言うべき男に誰一人として気づく者はいない。しかし彼は確かにそこにいて、これから始まる謁見の様子を見届けようとしていたのである。
その十二名の前の扉がゆっくりと開かれる。
「王のおなりである」
同時にガウェインの声が朗々と響いた。
近衛兵と黒フードの男を除いた全ての者が、右ひざをついて首を垂れる。
扉が大きく開け放たれ深紅のローブを羽織った王が現れた。