第1章 アイゼニアの姫のこと 11
暗い部屋の中で、小柄な男が一人、本を片手に立っている。
一心不乱に口の中で何かを呟いている。
本だらけの部屋であった。至る所に大小さまざまな本が堆く積み上げられているが、室内にはそれらを納めるべき棚はない。
室内にある家具と呼べるものは、部屋の対極の隅に置かれた粗末な二床の寝台と、それらとは対照的に分厚く豪壮な木製の天板が乗った机だけであった。それぞれの寝台はほぼ同じサイズで、大人一人がどうにか横になれる程度のサイズなのに対して、机の方はその三倍は大きい。
それらの家具を取り囲むように、床の至る所に足の踏み場もないほどに乱雑に本が積まれている。
ラズリー・デルキッシュ。
それがこの部屋の主の名である。
インガル帝国の宮廷魔導士。それが現在のラズリーの肩書だった。ただし、出自は定かではないが、生粋のインガル人ではないと思われる。少なくともインガルには、彼の出生記録は残っていない。
愛用の灰色のローブは無造作に丸められ、机の上に放り投げられたように置かれていた。
この男がそのローブを脱いだ姿を見た者は、そう多くはない。
短く清潔に刈り揃えられた灰色の髪。高く長い鼻と額の影に落ちくぼんだ細い眼は、その薄暗い部屋では到底確認できないが、明るい光の下で見れば瞳の色までも灰色であることが分かるだろう。顔中に刻まれた深い皴に着目すれば、それなりの年齢を重ねた者かと推測されるが、意外にも肌は瑞々しさを保っている。
年齢が読めない男である。年齢を問うた時、その返答が三十代後半から六十代半ばまでのどこであっても、全く驚きなく受け入れられそうだ。
全体に目を向ければ、子供のように小さな身体は痩せぎすで手足も細い。必要な栄養が不足しているようにも思える。
白い半袖のシャツを着て腰から下には布を巻き付けて革のベルトで固定しているのは、この大陸では定番のスタイルである。これに件の灰色のローブを羽織れば、インガル兵たちが見慣れた姿になる。
半袖のシャツから伸びた細い右腕に、不釣り合いなほど重厚な本を持っている。黒い革の装丁が施された本である。質感からはどの生物から取ったモノなのか伺い知れないが、硬く強靭な革である。
ラズリーは部屋の隅に置かれた寝台を前にして立っていた。眼下には青白い顔をした一人の男が横たわっている。
男は既に鬼籍にいるに違いない。それは焼け焦げて空洞になった左目を見れば瞭然だ。脳を焼かれているのだ。生きているはずもない。
死体を前にして、ラズリーは一体何をしようとしているのか?
年齢不詳の宮廷魔導士の口元は、絶えず動き続けていた。口の中で呪文を唱えているのだ。
同じ姿勢のまま立ち続けて、既に三時間にもなる。額に脂汗を浮かべながら呟き続けるラズリーの視線は虚ろで、まるで焦点が定まっていなかった。
実は、この世ではない空間を見詰めているのである。
探しているのは、魂だ。
ふた月程前に現世から去った男の魂だ。
強い光、淡い光、赤い光、青い光、色とりどり強弱さまざまの無数の光の星の海を見詰めながら、ラズリーはひたすらに探し続けている。
彼の背後で金属がこすれる高い音がしても、ラズリーの集中力は途絶えることはない。意識は魂の海を彷徨い続けている。
その魔導士の背後で、もう一床の寝台の上から再び金属音が響いてきた。
音の主は女であった。
胸の辺りまで伸ばした美しいストレートの銀色の髪を持つ、透き通るような白い肌の若い女である。その両眼は閉じられたまま開くことはなかったが、確かに彼女は息をしていた。
右前腕に鋭い刃物での切り傷があり乾燥して瘡蓋となっている。視認できる限り、その他の部位に特別異常は見受けられない。
女は深い眠りに落ちている。
また金属音がした。
悪夢にうなされて、女が足を動かしたためである。
その左足には、錠前が付いた鉄の輪が嵌められており、そこから寝台の脚へと鎖が伸びている。女が動く度に、それがこすれて小さな金属音を立てているのだ。
もしティアナが、この拘束された女を見たなら、こう思ったに違いない。
(あの遠隔視で見た女性だ!)
と・・・。
それはまさに、神獣の指輪がティアナに見せたある村での虐殺の光景、その中に出てきた女だったのである。子供を庇って、死霊兵の前に両手を広げて立ちはだかった女である。
それが今、捕らわれの身となって粗末な寝台につながれている。夢の中でも虐殺の記憶は生々しく、悪夢となって彼女を苛んでいる。そのため時折大きく手足を動かすのだが、薬を盛られているため一向に目覚める様子はない。ただ滾々と眠り続けている。
そんな女の様子など気にも留めず、矮躯の魔導士は異界の虚空を見詰めていた。
そして遂に・・・。
(見つけたぞ!)
ラズリーは意識の手を伸ばし、マーブル模様に明滅を繰り返す微弱な光を、そっと包み込んだ。そのままゆっくりと慎重に手繰り寄せてくる。
(手遅れになる前で良かった)
消えそうになっていた光を意識の力で引き寄せていく。
口元には滅多に見せない笑みが浮かんでいた。
ずっと口の中で唱えていたラズリーの唱える呪言が、次第に音となって口の外に漏れ始めた。その声はどんどん大きくなっていく。
額から幾筋もの汗が流れ落ちていく。
次の瞬間、室内に音もなく衝撃波が生まれ、大きく空気を揺らした。
ラズリーの周囲を猛烈な風が吹き抜けた。それは積み上げられた数十冊の本をさらって空中へと巻き上げた。やがて風がおさまると浮力を失った書籍は、次々に床へと落下してゆく。
「こ・・・これは・・・」
驚愕の声を上げたのは、ラズリーではなかった。ましてや捕らわれた眠る女であるはずもない。
その声の主は、寝台に横たわっていた。
自身に何が起きたかもわからず茫然として、顔の前にかざした自分の両手を片方だけ残った眼で見詰めている。
「連れ戻すのには、苦労したぞ。・・・・とにもかくにも・・・」
ラズリーは寝台の男を見下ろしながら満足気に笑って言った。
「おかえり、レイドール」
死の淵から蘇ったのは、かの暗殺者であった。神獣の指輪を手にしたウォルフたちの前に立ち塞がり、謎の人物の手によってユリウス・アークレイと共に絶命したはずの男である。
「ラ、ラズリー・・・さま?」
「ふふふ・・・。儂が分かるか?」
「はい・・・」
レイドールは未だ混濁する意識の中で返答した。問われたら答えずにはいられない。目覚めてからのラズリーの質問には、何故かそんな強制力があった。
「しかし、私は、死んだはずでは・・・?」
「確かに、な。・・・だが今は、不死をの生を歩んでいる。ふふふ」
「何と・・・」
ようやくレイドールは寝台の上で上半身を起こした。膝の上に置いた右手の五指を、何度も開いたり閉じたりしてみる。少し動きに違和感がある。自分の手ではないような気がするのだ。ただし、ちゃんと触覚はある。
どうも意識がすっきりしない。だが、これは分かる。
「しかし私には、自我が・・・」
それを聞いてラズリーは「にやり」と笑った。
生前のレイドールの記憶では、今の彼のようにアイデンティティを持つ死霊兵など一体もいなかったはずだ。言葉を話すことなどできず、単純な命令を遂行するだけの不死者。それが死霊兵であったはずだ。
「できるようになったのだよ」
ラズリーは後方を振り返る。
「彼女のお陰で、な」
その灰色の視線の先には、捕らわれた銀髪の女が横たわっていた。
「死者の書の力は全て解放された」
言いながら右手に持った本を音を立てて閉じた。
「だから、な・・・。もうティアナはいらん」
その声は極めて酷薄な音色を孕んでいる。
「もはや神獣の指輪など邪魔なだけだ」
「では、私が・・・?」
「いや・・・。そっちには、既に髑髏騎士を行かせてある。お前には別のことを頼みたいのだよ、レイドール」
「それは、どのような・・・?」
「転生だ」
ラズリーは不敵に笑った。
「いよいよ儂も不死の生を得る時が来た。我が父にもなしえなかった高みに登るのだ。この十余年の悲願がようやく実る。お前が見つからなければ、計画を変更しなければならないところだったぞ。お前には儀式の間、無防備になる儂を守ってもらわねばならん」
それは判断力のある者にしか任せられない仕事である。しかも忠誠心の強い者でなくてはならない。ラズリーが心から信頼できる者でなくてはならない。
自身を安心して任せられのは、レイドールを措いて他にない。
インガルの宮廷魔導士は、狂気に満ちた笑い声を上げたのだった。




