第1章 アイゼニアの姫のこと 8-6
夜の森に妖魔獣の悲鳴が響き渡った。
獣は拘束から何とか逃れようと、必死に身を捩る。それを感じて、ガウェインは両腕に一層の力を籠めた。短剣を掴んだ左手を「ぐりぐり」と動かすと、獣の身体から血が滴り落ちてゆく。
獣はガウェインの腕や背中に爪を立てるが、体勢が充分でないため深くは入らない。
一方、獣の腹部に刺さった短剣も、急所は外れており、確実にダメージは与えているが、致命傷とはなっていない。
未だ一寸の油断が死を招く危険な状態を脱してはいない。しかし優勢ではある。そう認識し一息ついたことで、ガウェインは気づいてしまった。
力を入れ続けた腕が痺れ始めている、と・・・。
急速に興奮状態から醒めてしまったのだ。忘れていた疲労が、突如として押し寄せてくる。腕に力を入れ続けることが苦痛になってきた。しかし緩めるわけにはいかない。
ガウェインは渾身の力を込めて妖魔獣を締め続けた。
どのくらいかは分からない。気を失っていたらしい。
背中が痛む。呼吸が苦しい。それでもアイサは立ち上がった。
気力を振り絞る。
腰にはもう一振りの短剣がある。震える手で引き抜いた。
ガウェインに組み付かれているため、妖魔獣は本来の素早さも攻撃力も奪われている。今が好機である。動け!と念じるが、背中の差すような痛みが邪魔をする。
霞んだ目で一人と一頭のギリギリの闘いを見た。
自分が残した短剣で、ガウェインが脇腹を抉っているのが見える。確実にダメージを与えているだろうが、すぐに相手の息の根を止められるような必殺の一手ではない。
妖魔獣の方にも決め手となる攻撃はないが、鋭い爪でガウェインの皮膚を削り続けており、両者の攻防は我慢比べの様に映った。
(私がやる!もう一太刀浴びせてみせる!)
強固な意志の元、アイサは短剣を両手で持ち腰に固定する。
慌ててしくじってはいけない。三回、大きく息を吸って、吐いた。依然として肉体の痛みは残る。だが深呼吸したことで気持ちは落ち着いた。
アイサは走り出した。
ガウェインの眼は、短剣を手に突進してくるアイサを捕らえている。
(此奴に気づかれてはならない)
妖魔獣の視界に入らないようアイサと正対し、首元を押す手の力を僅かに緩めた。押しすぎて反り返らせれば、後方に視線が向くかもしれないと恐れたためである。
アイサが飛び込んでくる。
二本目の短剣が妖獣の脇腹を突く。背中の硬い骨を避けて肋骨の隙間に潜り込ませた短剣は、驚くほど簡単に妖魔獣の肉体に吸い込まれていった。その切っ先は、心臓を貫いている。致命傷だ。
暗い闇の中で獣の悲鳴が木霊した。
ガウェインの眼が地面に走り、手放した斧を探す。
「離れて」
自らの武器を発見したと同時にガウェインが言った。
促されたアイサは、短剣を引き抜きながら跳び退る。それを確認したガウェインは、獣の背に回した腕を外すと、首元を掴んだ右手に勢いをつけて妖魔獣を大地に叩きつけた。
妖獣の口から鮮血が噴出す。内臓が深く損傷しているのだ。
ガウェインには、相手の様子を覗う余裕もない。慌てて落とした手斧を拾い上げ向き直った時、視界に飛び込んできたのは、荒く短い呼吸を繰り返しながら動けずにいる獣の姿だった。
獣の眼には、既に力がない。絶命するのは時間の問題だと一目で悟った。
長く苦しませる必要はない。
ガウェインは斧を振り上げて、気合と共に体重を乗せた一撃で妖獣の首を叩き斬った。そして、そのまま地面にへたり込んでしまった。
胴から離れた獣の首が、数メートル先まで転がって、やがて止まった。
もう、どこにも力が入らない。体中が「ずきずき」と痛む。気づけば満身創痍だ。全身が激しく痙攣し、立ち上がることもできなかった。
アイサが重たい足を引きずるようにして近寄ってくる。彼女もまた限界を超えて闘った。押し寄せる疲労感に倒れ込みたくなる。しかし、まだ、やらねばならないことがあった。
「傷を・・・見せて下さい・・・」
応急処置である。自分は打撲だけだが、ガウェインは無数の裂傷を負っている。出血を止めなくてはならない。
アイサは丹念に傷口を調べ、腰巻の中から油紙に挟まれた薬草を取り出しては、貼り付けていった。
背中と腕の傷が特にひどい。断続的に「ひりひり」とした痛みに苛まれていたガウェインだったが、アイサに薬草を貼られると、次第に痛みが和らいでいった。
「ありがとう」
ガウェインは治療の礼を言った。薬を貼られた部位がひんやりして心地よい。時間の経過と共に身体の痙攣も収まっていった。今は時折、「ぴくりぴくり」と動く程度だ。
「お互い様です。気にしないでください・・・。今夜は・・・、ここで休みましょう・・・」
暗闇の中、三十分以上の時間をかけて治療を終えるとアイサが言った。ゆっくりと立ち上がって、よろめきながら妖魔獣の屍へ歩み寄っていく。
「戻らないのですか?」
「夜の森は危険ですから・・・」
振り返りもせずガウェインの問いに答えながら、アイサは死骸をひっくり返した。妖魔獣の腹部には愛用の短剣が刺さったままになっている。
「妖魔獣の縄張りに近づく獣はいません・・・。ここで休むのが一番安全なのです」
力を込めて短剣を引き抜きながら、説明する。
アイサは腰布で短剣に付着した血を丁寧にぬぐい始めた。この切れ味のおかげで何とか生き延びることができた。そんなことを考えながら二本の短剣を磨き上げていく。
その様子をガウェインは「じっ」と見詰めていた。
納得するまで磨き終えると、ようやくアイサは振り向いた。
「ごめんなさい・・・。少し・・・休みます・・・」
弱弱しく微笑みながらそう言うと、アイサは大地に倒れ伏したのだった。




