第1章 アイゼニアの姫のこと 7-3
魔の森に朝日が差し込んでいる。
密集して生い茂る木々の葉の隙間からの僅かな木漏れ日に、ティアナは目を細めた。
後ろを振り返れば、巨大な防壁が見える。
誰が名付けたか封じの壁と呼ばれる防壁だ。
それはアイゼニアと魔の森を隔てる高さ約五メートルの分厚い石壁である。
時折、森から迷い出てくる妖魔獣の被害を深刻に受け止めた当時の王サイラス・デュマが、一万キロ以上にも及ぶ魔の森との境界線、それを隔てる防壁の建設を決断したのだ。夢物語のような飛んでもない大事業である。ちなみに現在の首都の名は、この王に由来している。
壁建設の最初の数十年は、戦いの歴史でもあった。
切り出した石を運搬し積み上げる大きな音が、却って妖魔獣を引き寄せてしまい、幾度となく大規模な戦闘を引き起こしてしまったのである。
それは、さながら人と妖魔獣の戦争のようであった。
妖魔獣の対処から壁の建設まで、危険な任務を中心になって行ったのは、アイゼニアの軍部である。
凄惨な戦闘は数えきれないほどの戦死者をだした。
首都サイラスに近い防壁の内側に建立された大きな一枚岩の慰霊碑は、犠牲になった彼らの功績を称えるためのものである。
最初は二メートル程に積んだ壁を東へ東へと伸ばしていった。
妖魔獣による被害は大幅に減ったが、まだ高さが足りず乗り越えて侵入されることも少なくなかった。
それで更に高く更に分厚くしていった。その結果完成したのが幅三メートル高さ五メートル、西の深淵の湖から隣国ボヘロアとの国境全域をカバーし、広大な魔の森が袖を広げる東の海岸線まで、なんと全長一万三千二百七十二キロの防壁である。
完成までに四代の王が携わり、実に百二十年の月日を費やしている。
何度も補強を繰り返した分厚い壁は、妖魔獣の脅威を遠いモノにした。今や妖魔獣の被害は数年に一度程度である。
妖魔獣だけでなく、他国からの侵略に対しても国土を守るこの大事業のおかげで、アイゼニアの民は安心して眠れるようになったのである。
ティアナ達七人は、未明の内に封じの壁にロープをかけて、魔の森へと降り立った。
暗闇の中、ランタンの淡い灯りを頼りに最初にアイサがしたことは、とある樹木の葉を摘むことだった。全員に数枚づつ手渡しで身体に擦り付けるように言う。
「ティマルガの葉のエキスは虫除けになるの。この森に住む大抵の毒虫は、この葉の匂いを嫌って近寄らなくなる。全身に満遍なく擦り付けて。髪の毛にも・・・」
自ら手本を見せながら指示する。
不快な匂いはしない。直接葉の匂いを嗅いでみれば、微かにミントのような香りがするが、それを擦り付けた身体は、ほぼ無臭である。
魔の森には危険な毒虫が多数生息する。半日に一回この作業をしておけば、それらを恐れなくてもよくなる。森の民の知恵である。
その作業を終えて、一行は交代で短い仮眠をとった。
これから数日間は、森の中を歩き続けることになる。広大な森を抜けるには、最短距離にして百五十キロは進まねばならない。毎日二十五キロ歩けたとしても、六日はかかる道のりだ。
歩き慣れていない者が、足場の悪い森の中を歩くことを考えれば、もっと時間はかかるだろう。さらに言えば、トルキアに辿り着くことが目的ではなく、そこからが始まりなのである。
まずはトロメスの神殿に赴き、神獣の指輪の真の力を解放しなければならない。そのためには指輪が認めた者が、直接行く必要があるという。
能力を解放した後からが真の始まりであった。
目的を達成するためには、仮眠や休憩を多く挟み、しっかりと体力を維持しながら進まなくてはならないだろう。森に慣れた自分のペースで歩いてはならず、一番体力のないであろうティアナに無理がない速度で進まなければならない。
それは出発前にマリアに言われたことの一つであった。
アイサは注意深く森を観察している。
妖魔獣を含む森の生き物が残した痕跡を探しているのだ。それは森の民が生きるために蓄積してきたノウハウであり、スキルでもある。「観ない者は生きない」森の民の諺である。
樹木に残されたダークベアが縄張りを示す爪の跡。その奥深くに踏み込んでしまえば、問答無用で襲撃されてしまう。
王猿の歯形のついた果実。その腐り具合から彼らがここにいたであろう時間を割り出せる。
危険察知能力の高い森鹿の足跡からは、その進行方向には大きな危険がなかったであろうことが分かる。その森鹿を追いかけるように紫狼の群れが残した足跡がある。
そして妖魔獣のモノと思しき大量のフンと動物の骨。個体によって戦闘力に雲泥の差があるものの、如何に弱い個体であっても妖魔獣に遭遇してしまったら、何かしらの犠牲を払わずに切り抜けられはしないだろう。それほどに妖魔獣は脅威である。一対一では、まず勝てない。
この森では、情報を読み間違えば、死に至る危険が待っているのだ。
森の民なら三人以上で狩りに出るのが当たり前である。複数の眼で、万が一にも危険なサインを見落とさないようにするためだ。
しかし、ここには他に頼れる者などいない。森の知識を持つアイサだけが、一行を安全に導くことができるのだ。
アイサは神経を研ぎ澄ませて、周囲に視線を走らせ続けていた。




