第1章 アイゼニアの姫のこと 4-6
「次は私の番だな」
アーロンが声を上げるよりも早く前に進み出た騎士は、この時、近衛兵団第一隊隊長だったネスミスである。
当時のゼノンの直属の上官であった。精鋭部隊の隊長だけあって、武術の腕は確かだ。しかし既に四十七歳、ピークはとうに過ぎているのは否めない。
この勝敗は、あっという間についてしまった。
ゼノンが攻撃的に繰り出した素早い打ち込みを、何とか三手までは凌いだが、下から左胴への切り込みを受け切れず勝負有となってしまった。
「九十八連勝!」
この勝負から約二年後、五十を目前にしてネスミスは近衛隊を去る。
自ら願い出ての配属転換である。後任にゼノンを強く推薦したことで、アイゼニア史上最年少の近衛隊長が誕生することになる。
「次はオレで文句はねぇだろうな」
アーロンがゼノンにというより彼を含めた全員に向けて、そう言い放った。
全身から猛烈な闘志を発している。
この二十五歳の若造を倒し「お前はまだまだだ」と教えてやるのは、自分の役目なのである。二度も負けるわけにはいかない。ここで倒しておかなければ、この天才が慢心して成長が止まってしまうかもしれない。
だから必ず勝つ!そういう思いの籠った気迫である。
アーロンは野太い剣を両手持ちに構えた。他人からの見た自分のイメージを必要以上に気にするこの男が、きちんと構えるのは本当に久し振りのことである。
後ろで見ていたレオンハルト王が「ほう」と小さく声を漏らした。
アーロンが構えて戦闘に入る姿は、王族専用の武闘場で自分が相手をする際には見慣れた姿だ。だが部下にそうした姿を見せる男でないことをよく知っている。
対峙するゼノンも、初めて見るその姿に圧倒されていた。
彼の目から見ると、全く隙がない。強引に攻めまくってくるアーロンも苦手なのだが、これはそれ以上に厄介かもしれない。
構えは互いに中段。半歩踏み込めば、切っ先が触れ合うほどの距離だ。
どちらも動かないまま、三十秒ほどの時間が流れた。
全く動きがないにも拘わらず、不思議なことにゼノンの息が上がってきた。額に脂汗がにじむ。
アーロンの気迫に圧倒されてしまっているのである。
ゼノンの剣先が、意図せず細かく震え始めた。それを止めようと焦れば焦るほどに大きく震えてしまう。
それを見たアーロンが巨剣を大きく振りかぶった。
胴から下はガラ空きだ。打って来いと言っている。
その瞬間に切り伏せてやるという気迫に満ちている。気力が充実していなければできない。それが上段の構えである。
剣先から始まった震えは、いまやゼノンの全身を包み始めていた。
完全にアーロンに吞まれてしまっている。このまま打ち掛かれば必ず負ける。それは火を見るより明らかであった。
この状況でゼノンは、なんと両眼を閉じた。視覚を捨てたのである。
一秒。二秒。
目を開かないゼノンを見て、アーロンが襲いかかった。
頭上からの強力な斬り下ろし。うねるような剣風を感じた瞬間、ゼノンの体が左に動いた。
アーロンの剣が空を切る。
体を躱したゼノンの剣が、アーロンの胴を捕らえた。
「九十九連勝!」
場内が大きな騒めきに包まれた。
ゼノンの勝ちである。
これが真剣だったなら、勝敗は逆であったかもしれない。震える剣では、アーロンに致命的な一撃を与えることなどできなかったはずである。返す剣で胴を両断されていたのは自分だっただろう。それはゼノンの中で確かな思いとしてあった。
故に負けを認めようと口を開きかけた。その意味では、アーロンの意思は見事に達成されたと言ってよい。
しかし「参りました」という言葉がゼノンの口を衝く
「ぬがああああ!」
アーロンが吠えた。
「もう一回だ!ゼノン構えろ!」
すると猛り狂ったに剣先を向けてくるアーロンの背後から、のんびりした声がかかった。
「俺にもやらせろよ」
レオンハルト・デュマ。黄金の五人の一人にして、神槍という二つ名を持つ、いわずと知れた英雄王である。
大歓声で場内が揺れた。誰もが興奮している。
勢いに乗る若い騎士と武勇で名をはせた英雄王。どっちが強いのか。それに興味がない者など、いるはずもない。
「いや・・・、主君、それは・・・」
アーロンの声が珍しく歯切れが悪い。
「なんでだよ。いいじゃねぇか」
レオンハルトは快活に笑う。
「誰か、獲物を貸してくれ」
王の言葉に幾人かの兵士が自らの武器を捧げた。
長短さまざまな木剣、槌、斧、そして・・・槍。
アイゼニアに生を受けた者なら子供でも知っている。
彼らの王の二つ名は「神槍」だということを。神のごとき槍の遣い手。だが王が実際に槍を使う姿を見た者は、ほぼいない。
誰もが王が槍を手に取ることを期待していた。
しかしレオンハルトが選んだのは、剣であった。ゼノンと同じような形状の物を、あえて選んだようである。
周りを囲む兵士たちの期待が急速にしぼんでいく中、それを知ってか知らずかレオンハルトは右手の剣を二回ほど上下に軽く振って、その重さを確かめた。
「いつでもいいぞ」
「お願いします」
今まで王と手合わせしたことなどない。思わぬ対戦相手に緊張しながらも、不思議と気負いはない。
ゼノンは小さく頭を下げて礼をした。
この数秒後に起こったことには、様々な流言がついて回ることになる。
目の前で見ていても、何が起こったのか正確に理解できた兵士は、アーロンを除けば皆無だった。後になってゼノンの口からその立ち合いの話を聞いた者達も、大半が半信半疑のまま、というよりも「信じない」ことを選択したからだ。
その顛末はこうである。
中段に構えたゼノンに対して「ぶらり」と剣を下げたままのレオンハルトが、まるで散歩でもするかのように無造作に近づいていく。
そして互いの剣が触れ合う距離にまで踏み込むと、これまた無造作に右手の剣を持ち上げてゼノンの剣と触れ合わせた。誰の目にもそう見えた。
それだけである。
ゼノンは、両手でしっかりと握っていたはずの剣を、取り落としてしまったのである。
当事者であるゼノンを含めて、誰もが狐につままれたようになった。
軽く五秒間は、誰も口を開かなかった。誰もが目にした光景を理解できず、信じることができなかったのである。
自らは獲物を失い、喉元に剣を突き付けられては、負けを認めるしかない。
「ま・・・参りました」
静寂に中にゼノンの声だけが響いた。
こうして練兵場における連勝記録は、九十九で止まったのである。
もちろん六年たった今でも破られていない大記録なのだが、相手が相手、負け方が負け方だっただけに誰もが納得する記録とはなっていないのだった。
ある者は、レオンハルト王の魔法のような剣技を称えた。
またある者は、それまでの連戦でゼノンの両腕はまともに剣を握れないほどに痺れていたのだろうと言った。
挙句の果てには、相手が王だからわざと負けたのだろうという者までいた。
これらの人々は、当事者であるゼノンが何を語ろうと自説を曲げることはなかった。
唯一確かなのは、この記録がゼノンが英雄視されるに足る出来事だったことである。以来、近衛兵隊長は、多くの若者の目標と羨望を受けるようになったのだった。
これを切っ掛けに、ゼノン・ギアスは王家の練武場に招かれるようになる。以降ここで修練することもなくなった。
それだけにゼノンが顔を出すと、地下練兵場は異様な熱を帯びるのであった。




