第1章 アイゼニアの姫のこと 4-4
予想に反して次の相手は現れなかった。
練兵場の中央で十二組の対戦が行われていたはずだった。しかし今はもう一組と七人しかいない。
アイサを含めた七人は乱取りの勝者であり、出て来ない次の相手を待っていた。他に四人勝者がいたはずだが、普段とは違う場内の様子に次の挑戦者は来ないと悟って、早々に壁際に引っ込んだのである。
一方の「一組」の方は、近衛兵ナッシュ・シーアスターとその対戦相手だ。
いまや全員がその対決の様子を眺めている。
これはゼノン・ギアスが姿を現した時にだけに、まれに起きる特別な現象だった。
近衛兵副団長にして第一近衛隊隊長であるゼノンは、若い兵士達に最も人気のある守護騎士である。王国一のナイトとして名高い彼に、認められたいと思わない若者は皆無だ。
とにかく強いからだ。
この練兵場での連勝記録を保持している。
ゼノンがその記録を達成してから、その記録に近づけた者すらいない。それほど別次元の記録を保持しているのである。
現在から遡ること六年。少し肌寒い日の出来事である。
その気候とは裏腹に場内は異様な熱気に包まれていた。
「八十二連勝!」
アイゼニアの兵士たちでごった返す練兵場の中央に、当時二十五歳だったゼノン・ギアスが木剣を片手に立っていた。
既に一時間半以上、入れ代わり立ち代わり挑んでくる兵士達を相手に戦い続けているというのに、全く息を乱していない。
「八十三連勝!」
挑戦者を退ける度に誰かが大きな声で、彼の記録を叫んでいる。
見ている誰もが興奮していた。しかし、同時に自分達が汚すべき記録ではなくなったことも充分に理解していた。
普段ならばゼノンのような熟達の戦士に指南してもらうために、何度でも進んで挑んでいく若い兵士達が、七十連勝を越えた辺りから、なかなか手を上げようとしなくなった。最早、一般の兵士たちが挑戦できる空気ではなくなっていたのだ。
それまでの連勝記録は、近衛兵団団長のアーロン・ユーイングが保持していた五十二連勝であったから、既に大きく塗り替えられていることになる。
兵士達は、新たな伝説を目にしているのだ。
誰も意識していた訳ではないが、自分たちのような明らかに格下が挑むことで、この場にいなかった者達に「お前らみたいなのばかり相手にして達成したんだろう?」などと思われたくなかったのだ。
ここ数戦、ゼノンの相手は近衛兵団、それも上席の者が入れ替わり務めている。
「八十五連勝!」
「八十六連勝!」
ゼノンが連勝を続ける中、入り口側の人波が割れて新手の騎士達が現れた。
近衛兵団団長のアーロンの後ろに七名の近衛兵士官が続く。
そして、その最後尾にいる赤髪の男は、なんと神槍レオンハルト・デュマその人だった。口元に笑みを浮かべて興味津々にゼノンを眺めている。
「オレの記録を破りやがって」
冗談半分にそう言ったのは、アーロンである。
手には特注の巨大な木剣を持っている。実際のアーロンの剣を模して造られているのだ。彼の獲物は異様に太い剣である。当然重い。木剣であっても重い。こんなモノは相当な膂力がなければ扱えないだろう。当たり前の人間であれば、そんな使いづらい武器は、普通は選ばない。
元来の目立ちたがり屋で自己顕示欲が強い性格が、アーロンをその方向に進ませたのだった。
実は豪放磊落に見える性格も、自身が狙って装っているモノの一つだ。
彼は頼られる自分、豪快で尻込みしない自分、小さなことなど笑い飛ばす自分、そうした理想の自分を意図して作り上げているのである。
(こんな剣を扱えるのはオレだけだ。遠目に見てもオレがソコにいるって分かるだろう?)
その思いが彼にその特殊な剣を選ばせたのであるが、忘れてはいけないのは、彼が精鋭中の精鋭である近衛兵団の首席だということである。
つまり「絶対的に強い」ということだ。
その特殊な武器を手足のごとく扱えるようになるまで、それこそ余人には計り知れないような努力を積み重ねているに違いないのだ。
その岩をねじり合わせたような太い腕は、たゆまぬ鍛錬によって作り上げられたのである。
「オレたちが止めてやる」
鼻息荒くゼノンの前に立ちはだかったのだが・・・。
「九十連勝!」
「九十一連勝!」
誰一人として五合と切り結べずに敗れてしまう。その日のゼノンは神がかっていた。
「ぬうう。ちょっとは疲れさせんかい」
アーロンの口から思わず愚痴が漏れる。
「九十三連勝!」
「九十四連勝!」
「オレがやる!」
部下を押しのけるようにして九十五人目の相手として名乗り出たのは、アーロンである。
ゼノンは、一時間半以上も戦い続けているにも拘わらず、涼やかな眼を上官に向けて微笑んだ。
「よろしくお願いします」
「おう!」
豪快に答えてアーロンは特注の木剣を下段に構える。
対するゼノンは中段である。
今までの相手には、右手一本で剣を持つスタイルだったが、今は両手で「しっかり」と剣を握り締めている。そうでないとアーロンの巨大で重い剣を受け切れないからである。
ゼノンは少し緊張していた。
アーロンとは数えきれないほど対戦してきたが、はっきり言って戦績は良くない。
以前と比べて大分マシになったとはいえ、五回に一回勝てるかどうか、といったところである。
ゼノンはアーロンの力任せの剣が苦手だった。これまでの対戦では、初撃で剣を弾き飛ばされてしまい、敗北することがほとんどだった。
実力にそれほどの差があるとは思っていない。ただ苦手な相手という意識はある。
ゼノンが小さく息を吐いたその瞬間、アーロンの巨体が一息に間合いを詰めてきた。同時に下段から暴風雨のような斬撃が襲ってくる。
これは正面から受けてはいけない一撃である。
ゼノンは右手で柄を握り、左の前腕で切っ先に近い位置を抑えて、両手の丁度中心の辺りの剣の腹でこの攻撃を受けた。
そのまま敢えて後方へと飛んで威力を殺す。これしかないという絶妙なタイミングである。
二メートルほど後方に飛ばされたゼノンは、空中で器用に足にたわみを作り、柔らかく着地した。転瞬、一足飛びにアーロンに肉薄する。
その動きにアーロンも即座に反応し、剣を切り返して振り下ろすが、ゼノンの方が早かった。
アーロンの腹部に木剣を当てながら、飛び抜けた。
「九十五連勝!」
文句のない一撃にゼノンの勝利がコールされた。
「ぬうう!もう一回だ!」
顔を真っ赤にしたアーロンへ
「順番ですぜ、ボス」
ガウェインが片手に斧のような形の二本の木剣を持って進み出た。




