序章 ヴォロディアのこと
黒い神獣が空を飛んでいる。
この辺りでは、あまり見かけることがない種類の神獣である。
体は馬に似ており、頭部は狼のそれのようでもあるが、額のあたりから伸びた一本の角が明確にそれらとの違いを表している。それは全身、奇麗な漆黒の毛並みで、四本の足先に黒い炎をまとった神獣であった。その足下の炎が雲を生み、それを足場に大空を駆けているのである。
それは東方の大陸に生息するという角端という神獣である。角端とは麒麟の中でも毛並みの黒いものをいう。
「やあ、これは、すごい力だな、シュロ」
角端の背中から声がした。シュロというのは、その角端の名であるらしい。
その背には、男が一人、腕を枕に寝そべっていた。二十代前半に見える長い黒髪の男である。
「ゼンよ。ここに仇がいるのだろうか?」
シュロが問いかけた声は、その背にのせた男の脳に直接響いた。神獣の声帯は人族のそれとは異なるため会話はテレパシーによってなされることが多い。
「どうだろうなあ」
ゼンは軽い調子で答えた。
「でも俺はここに興味がわいたよ。とにかくすごい力だ。誰が何のために、こんなことをしてるのかねえ。気になるよ、シュロ」
それはヴォロディア大陸と呼ばれる広大な陸地。ただし、その呼称が認知されるまで、まだ数百年は待たねばならない。西方にヴォロディアという国が誕生し、大陸の統一を成し遂げた後、大航海時代を経てその王国の名を冠することになるが、今はまだ名もなき大陸。
この大陸には、この時、七つの国があった。
北に広大な領土を持つインガル帝国は、南東を切り立った山脈に南西を広大な砂漠に守られている。
インガルと九竜山脈で領土を隔てる東の大国はトルキア王国。その南西を深く暗い森に守られている。
魔獣が跋扈する魔の森をはさんで大陸の南には、アイゼニア王国。その北西には巨大な湖があり、アイゼニア側からそれを渡ると高さ25メートルほどの切り立った崖に行き着く。
その崖の上に位置するのが西の大国ツォーグ連邦である。その領土は、ほかの国々よりも高台を維持したままインガル砂漠に突き当たるまで広がる。砂漠の砂は二百メートルほども高低差のある崖に阻まれツォーグには届かない。
この大陸は北にインガル、東にトルキア、南にアイゼニア、西にツォーグという大国があり、それぞれを軍隊では容易に踏破できない天険の地形が隔てているのである。
それら大国の中心に位置するのがボヘロア、リサート、マルタイスという三国であり、通常、大国からは大国へ行くには、これらの国々を通る必要がある。危険で容易には踏破できない地形に阻まれてしまうため、この中央の三国が交通の要となっているのだ。
過去には大陸に覇を唱えんとした幾人かの王が、この中央地をわがものにしようと攻め込んだことがあった。その度に大国を含む他の国々が協力しこれを退けてきたという歴史がある。
中心に位置していたのが一つの大国であったなら、とうに滅んでいたかもしれない。他の四大国が、自らの利権のために少しでも多くの土地を奪い取ろうと同時に攻め入るような事態になっていただろうと、容易に想像できる。
小国であるがゆえに隣の大国が脅威を感じることもなく、大国同士の緩衝地として便利だったのだ。だからこそ生き残ってこれたといえる。
ただ、そうして約三百六十年以上もの間、絶妙なバランスを保っていたこれらの国々の関係も、今終わりを迎えようとしている。
十年ほど前に北のインガル帝国がトルキア王国に侵攻し、これを制圧してしまったからである。ただしトルキアの戦士たちは身を潜め、今もなお抵抗を続けている。
青年ゼンと神獣シュロがその大陸に降り立ったのは、そんな時代の転換期だったのである。