FILE4.7:再会
「そろそろ到着だ。準備いいか二人とも?」
コックピットで複雑な計器類に囲まれた小窪さんの声が、緊迫した空間に響いた。時間の経過とともに、その緊迫はどんどん強くなっていく。まるで、薄い風船に空気を絶え間なく送り込み続けているかのようだ。いつ破裂してしまってもおかしくないほど、大気が張り詰めている。
その問に、強くうなずきを返した。
「大丈夫です」
「私も、問題ありません」
オレの答えに、先輩も続く。それを聞いて、前を向いたままの小窪さんはこちらにサムズアップした左手を見せた。
オレ達は今、特警の空中輸送機械で廃都に向かっている。機体のイメージとしては、一昔前に話題になった、アメリカのオスプレイが一番近いか。ヘリと違って内部も広く、マイクロバスくらいのスペースはある。コックピット後ろのそのただっ広いスペースには、壁に沿うように電車の座席のようなシートが置かれている。
パイロットの小窪さんは外部の人間ではあるが、今回は本部の人員節約のため、運び屋としての腕を見込まれて所長に雇われたらしい。その小窪さんの操縦で、先輩とオレは今回の戦場に出動中なのだ。標的はもちろん、この街に現れたビッグトラブル、紗理奈。
一週間何も無いかと思ったら、最終日になってオレに任務が回ってきやがった。ついてねぇよな、ホント。
装備の確認を終え、戦闘準備を完了したところで、機内の壁によりかかった。窓の外に視線をやり、上を見れば、インクを溶かしたような深い色の夜空に、美しい満月が浮かんでいる。大きな月だ。時刻はもう二十時を回っているのに、外が暗いとは全く感じない。
今度は、視線を下に動かしてみる。満月の神秘的な光で照らされているのは、破壊と荒廃の渦巻く、混沌とした灰色の町並み。大部分の建物が崩壊している中、時折ポツリと残っている破壊を免れた建物は、こちらに向かって助けを求め、手を伸ばしているように見えた。
「何か面白いものでも見えたか、日向」
ぼーっとしているオレの、反対側に座った真田先輩が声をかけてきた。愛刀の手入れをしていた先輩がその刀を捻ると、白銀の刀身が機内灯の光を鋭く反射する。
「いや、月、綺麗だなと思って」
そちらに向き直ってそう返答すると、先輩は小さくうなずいた。
「そうだな。最近見た中では一番美しい。こんな素晴らしい夜に出撃とは、紗理奈も無粋なことをする」
やれやれ、というように先輩は首を振った。軽い動作だが、既に戦闘モードの先輩には一分の隙も無い。例え今後ろから何者かに襲われても、次の瞬間にはそいつを両断しているだろう。
ホントですよね、と苦笑いを返す。短い会話が終わり、再び沈黙が流れようとしたが、
「日向、」
それを先輩が断ち切った。刀に反射しているのと同じ光を宿した目で、先輩はこちらを見据えてくる。元が端整な顔立ちだからか、その表情には言葉では表しがたい迫力があった。
「な、なんすか」
ちょっとビビりながら反応すると、先輩は鋭い眼光そのままで、口を開く。
「紗理奈が強い、ということは重々承知だと思う。まともに殺り合えば無事で済まない可能性が高い。事実、一度私も敗れているわけだしな」
情けない話だが、と付け加えた先輩の話を、黙って聞くことにした。雰囲気でわかった。負けていようがなんだろうが、先輩が一度紗理奈と闘っていることに変わりは無い。どんなに情報を集め、準備をしても、直接命を晒し合った人間にしかわからない感覚、覚悟がある。先輩は、紗理奈と殺し合うのがどういうことか、オレに伝えようとしてくれているのだ。
「少しでも心に弱みを見せれば、奴はそこを巧妙に利用してくる。紗理奈が秀でているのは、戦闘的な技能だけではない。肉体と精神、両方を殺すことができるのが、本当に恐ろしいところだ」
なるほど。そういえば本部でもらった情報に、心理戦にも長けるという記述があった。体、心ともに隙を作ることは出来ないという訳か。
「いいか日向。奴を殺す為に最も必要なもの、それは強い心だ。いくら肉体に傷を負おうとも、心にだけは侵入させてはいけない。お前がそれを可能にする強さを持っている事を、私はよく知っているからな」
厳かな、深い声で、先輩はオレにそう言い聞かせる。オレ達若手の精神的主柱である真田先輩の言葉は、脳に直接訴えかけられるような、確かな説得力を孕んでいた。
こくりと小さくうなずいたオレにうなずきを返すと、先輩は右手を動かした。握られた日本刀、その刃が、銀色を纏って空中を滑る。
刀の切っ先が、二メートルほどの空間を隔ててオレの顔面にまっすぐ向けられる。
「最後に聞くぞ」
今日一番の強い口調で、先輩が声を発する。先輩の視線とオレの視線が、ちょうど切っ先の位置でぶつかった。
先輩の口が、動く。
「闘う覚悟は出来てるな?」
その問に対して、思考を巡らせる必要は無かった。数秒も経たないうちに、右拳を、左手のひらに打ち付けた。乾いた音が、先輩の強い言葉の余韻に続く。
「当然す。それに、オレがみつきを残して死ねると思いますか?」
ニヤリと笑みを返しながら言うと、先輩は一瞬、面食らったように目を丸くした。基本ネガティブ思考なオレの自身たっぷりな言葉は意外だったようだ。自分でも、自然とそう言えた事に驚いた。
しかし、すぐに先輩は肩をすくめ、小さく息を吐いた。ふっ、と力を抜くと、こちらに向けていた刀を鞘に納める。
「なるほど。いい覚悟だ」
納刀の瞬間、鞘と鍔のぶつかる音が、機内に小さく響いた。
それから数分後、オレ達を乗せた輸送ヘリは目的地に到着した。場所は、廃都のちょうど中心部。眼下にそびえ立っているのは、巨大なビルだ。
「ここか……」
ヘブンズ・ウェブ。廃都の中心で、天に向けて伸びる超高層ビルだ。瓦礫が集まって出来たような廃都の中でも、唯一大きな破壊が見られない建物。地上八十階、地下四階のこのビルは、かつて「日本で最も栄える複合施設になるだろう」と言われていたこともある。廃都がまだ立派な都市であった時には、ホテルやショッピングモール、オフィスに遊戯場等、数え切れないほどの店舗や施設が入っていた。皮肉なものだ。この街の繁栄の中心地だったこの場所も、今やすっかり街に不釣り合いな建物になってしまっている。
ちなみにヘブンズ・ウェブという名前は、このビルの外観に由来する。半径の違う四つの円筒状ビルが、上から見ると四重丸になるように建てられており、それらがいくつかの通路で繋がれているため、蜘蛛の巣のように見えるのだ。
真上からその蜘蛛の巣を見下ろす先輩が、フン、と鼻を鳴らした。
「蜘蛛の巣状の現場に絡新婦とは。示し合わせたような偶然だな」
「あー言われてみれば」
確かに、不思議な偶然だ。さしずめ蜘蛛退治ってとこか。そういや、ちょっと前にも蜘蛛型のマシンと殺り合ったな。オレはなんか蜘蛛に恨みでも買ってんのかよ。
さて、その巣に絡め取られるか、蜘蛛退治に成功するか。既に振られたそのサイコロの結果は、誰にもわからない。
四重丸の中心、一番半径が小さいビル屋上のヘリポートに向かって、輸送ヘリはゆっくりと下降していく。さすが小窪さんだ。滅多に操縦しないこんな特殊な乗り物でも、無難に操っている。
運び屋としての腕に感心していると、ついにヘリは地上に降り立った。接地の瞬間、僅かな振動だけを残して、機体は動きを停止する
いよいよだ。このビルに足をつけた瞬間から、戦場での命の奪い合いは始まる。
ヘリから降りる前に、コックピットに声をかけた。
「あざっす小窪さん。助かりました」
「私からも、ありがとうございました」
先輩と二人で頭を下げると、操縦席から立ち上がった小窪さんは首を横に振った。
「よせやい。オレは運び屋の仕事をしただけだ。ホントに大変なのは、こっからのお前らだろ。聞いてるぜ。今回の敵、相当やべぇんだってな。紗理奈の名前くらいはオレも聞いたことがある」
小窪さんは、自分の右腰に下げているリボルバーに触れた。しかしすぐに、再び首を振りながらその手を放す。
「オレが出来るのはここまでだ。お前らといっしょに戦えるわけでもないし、ピンチを救ってやれるわけでもない。だから、次のオレの仕事は、無事に帰ってきたお前らを迎えにくることだよ。ちゃんと帰って、それから日向、この前のポーカーの続きでもやろうや」
銃から放した右手で、小窪さんはピストルを作った。快活な笑みを浮かべながらそれをオレ達に向けると、「バン」と発砲音を口から発しつつ、撃つ動作を見せる。
弾丸が飛んでくるはずはない。だがその代わりのように、オレと先輩の間を熱い風が走った。その風が、強大な敵を意識し過ぎて生じていた余分な緊張を、取り払ってくれた気がした。
小窪さんに向けて、拳を突き出す。
「わかった。今度はストレート揃えて勝つ」
「まずはペアから揃えろよ。それともイカサマ覚えるか?」
はははは、と小窪さんは腹を抱えて笑った。つられて先輩も、声を殺して笑っている。二人とも失礼だな。イカサマなんかしねーよ。
ムスっとしたオレを見て、「悪い悪い」と謝りながら笑うのをやめた小窪さんは、右手の親指でヘリの外を差す。
「行きな」
それだけ言って、小窪さんは踵を返した。こちらに背中を見せたまま、それ以降彼は何も言わず、動くこともしない。
その大きな背中に向かって、先輩と一緒にもう一度、深く頭を下げた。見えてはいないだろう。だが、危険とわかっていながらオレ達をここまで連れて来てくれた彼に対する敬意が、自然とこの動作を生んだ。
数秒経って、頭を上げる。再び視界に入る小窪さんは、やはりこちらに背を向けたままだった。
オレと先輩も、後ろを振り返った。扉が開いた状態のヘリの出口は、額縁のように外の風景を切り取っている。風景画というにはあまりに殺風景なその光景に向かって、足を踏み出した。一歩目に続いて、二歩、三歩。機内に舞い込む熱い風が、正面からぶつかってくるが、それを裂いて進む。
そしてついに、出口から外へ飛び出した。僅かな間だけ自由落下し、足がビルの屋上を捉える。着地の衝撃を膝のクッションで緩和する。空調の効いていたヘリ内とは打って変わって、すぐに機体から発せられた熱がまとわりついてくる。不快なその熱気を振り払うように手足を軽く振った。
一瞬遅れて、先輩もヘリから降りてきた。着地の衝撃で、腰に下げた刀が僅かに音を立てるのが聞こえる。
それと同時に、背後で小さな機械音が響き始めた。振り返ってヘリを見ると、オレ達が今しがた出てきた出口の扉が閉じていくところだった。滑らかな動きで扉は出口に収まり、すぐにプロペラが回転し始める。その回転が強くなるにつれて下方向に吹き付ける風も勢いを増し、オレ達の髪やジャケットの裾を躍らせる。数秒後、その場でゆっくりとヘリは浮き上がり、ホバリングしたまま向きを変えた。そのまま特警本部がある方角を向くと、機体は勢いよく発進した。
一昔前に比べるとずいぶん静かなプロペラの回転音を残して、輸送ヘリは飛び去っていく。少しの間、それを先輩と見送った。どんどん遠ざかっていくヘリはやがて闇にまぎれて見えなくなっていく。見えるのが機体に取り付けられているライトの光だけになった時、ようやく踵を返した。
ビルにぶつかって流れていく風が、唸るような音を残していく。以前も任務でこの建物に来たことがあるが、相変わらず凄い高さだ。天国の蜘蛛の巣という名前は伊達じゃない。ただでさえ大きな月が更に大きく見える。その月の光のおかげで、夜だというのに視界の確保には全く困らなかった。
(ホント、でかいな今日の月は……)
これから命のやりとりをするとは思えないほど呑気なことを考えていると、ポン、と肩を叩かれた。横を見ると、オレ同様に空を見上げた先輩が、こちらに視線を動かした。
「さて、行くか」
先輩の声には、既に静かな殺気が篭もっている。それでいて普段通りの冷静さを保っていられるのは、先輩の凄いところだ。オレ達のような裏社会の人間なら察することができるが、一般人ならその殺気に気付かないだろう。
こんなにも、鋭く尖った殺意だというのに。
小さくうなずく。
「うっす。行きましょう」
バックサイドホルスターからデザートイーグルを抜き、一歩踏み出す。銃口を小刻みに動かし、周囲の警戒を行いながらだ。後ろからは、刀に手をかけた先輩がやはり周囲を警戒しながらついて来る。
今オレ達がいるのは、上からビルを見た時の四重丸の中心、センターサークルと呼ばれる建物だ。ヘブンズ・ウェブの中心点であるこの建物、その更に中央には、この屋上への出入り口である大きなペントハウスが設置されている。そこに向かって先輩と歩を進めた。
諜報部の調査によると、紗理奈がいるのはビルの一番外側であるアウトサイドサークル、その75階らしい。ここの正常稼動時には、ホテルとして使われていたエリアになる。今回わざわざヘリ来たのも、屋上から侵入した方が近いからという理由だ。
屋根と床以外全体がガラス張りになっている洒落たデザインの四角いペントハウス。自動ドアの前に立つと、センサーが反応して音も無く開いた。特警が訓練用の場所として使う事があるから、こんな街の建物でも一部の電力供給はライブなのだ。
自動ドアをくぐり、屋内に侵入する。ひっくり返ったベンチや、機能を停止して鉄の箱となった自動販売機が目に入るが、一番目立つのは、室内の中心に位置する大きなエレベーターだ。
このビルでは、地上七十階から屋上まで、センターサークルの中心点にエレベーターが設置されている。そこから下の階は普通の箱型エレベーターが動いているが、こっちのエレベーターは特別製だ。透明なチューブの中を足場だけが上下する作りになっており、視界は三百六十度。上昇下降しながらビル内の眺めを一望できる作りになっている。そのエレベーターチューブには、巻き付くように螺旋状のエスカレーターも備えられている。
巨大なチューブの前に立ち、表面が接触感知型ディスプレイを兼ねている透明なそれにタッチした。触った箇所に、『しばらくお待ちください』という光の文字が流れ、数秒後、下から円形の足場が音も無く上昇してくる。足場が静止するのと同時にその文字は消え、透明な壁が上にスライドした。
足場だけのエレベーターに先輩と乗り込んだ。今度はチューブを内側からタッチすると、タッチ式の階数表示が現れる。その中の『75』に触れると、その数字だけを残して他の数字は消えた。
足場がゆっくりと下がり始める。屋上のエリアを過ぎると、すぐ見えるのはビルの内部だ。
「暗れぇ……」
電力が生きてるのは一部の移動用設備だけで、屋内の照明はほぼ点いていない。屋上から射し込んでくる僅かな月明かりで、ぼんやりと景色が見える程度だ。ひっそりと静まり返った繁栄のなれの果ては、想像以上に不気味に感じる。そんな暗闇の中を、エレベーターは下って行く。
「暗いな」
「ホントっすよ。よかったライト付けて来て」
先輩が呟くように発した言葉に同意し、握っているイーグルのアンダーマウントレイルに取り付けたライトのスイッチを入れた。発せられた白い光が、床を小さなスポットライトのように照らす。
その時、ちょうどエレベーターが動きを止めた。ぼんやりと光を放っていた『75』が『open』の文字に変わり、先ほど同様、目の前のエレベータチューブが扉のように上にスライドする。オレと先輩が外に出るとその扉は閉まり、乗っていた足場は下りていった。
腹の中が軽く締まる感覚があった。頭では覚悟を決めていても、体が無意識に緊張しているようだ。
いよいよ、敵のいる場所にたどり着いた。もう間も無く、潜伏している部屋を見つけ次第激突だろう。
握った銃を構え、ライトで前を照らす。
「オレが先導します。なんかあったら言って下さい」
「わかった」
声をかけると、先輩の冷静な答えが返ってきた。なんの迷いも無い即答。切り込み隊長として信頼はされてるようだ。
地面を蹴った。ライト装着の銃で、視界の確保と警戒を同時に行いながら、闇の中を駆けていく。先輩は刀に手をかけながら、オレに見えない後ろを警戒してくれている。向かう先はアウトサイドサークル。そこに、ヤツがいる。
無人で暗いビル内部は、なんの物音も聞こえない。異常が無い事を証明するはずのその事実だが、それがどうにも不気味だ。まともに見えるのは、フラッシュライトが照らすごく狭い範囲のみ。限られた視界は、それ以外の場所への不安を増大させる。今にも暗闇から何か飛び出してきそうな感覚に襲われるのだ。
その不安を振り払うように、足を前に動かす。セカンドサークル、サードサークルを通り過ぎ、とうとう四重丸の一番外側、アウトサイドサークルに到達した。
「ここか……」
素早く左右にライトの光を走らせるが、見えるのはホコリの溜まった長椅子や、機能を停止したインフォメーション・ディスプレイだけだ。動くものは何も無い。
「7516だったか」
「そっす」
短い問に、短く返答する。7516号室。そこが今回のボス部屋だ。
「行きます」
「うむ」
再び駆け出す。すぐに視界に入ってきた最初の部屋番号は、7501。その次には7502、7503と、扉に書かれた数字がインクリメントされていく。決戦へのカウントアップだ。
警戒を緩めないまま一分間、走り続けた。そうしてオレと先輩は、一つの扉の前にたどり着く。
イタリアかどこかのデザイナーが考案したらしい、細かい装飾が施された木製の扉。掛かっている四角いプレートに書かれた数字は7516だ。
扉の前で拳銃のスライドを軽く引き、プレス・チェックを行う。装填された薬莢が僅かな月明かりを反射しているのを確認して、スライドを元に戻した。
うなずいて見せると、先輩は軽くうなずきを返してから、扉に耳を寄せた。内部の様子を探るためだ。僅かな音でも聞こえればビンゴ。互いに動きを止め、聴覚に意識を集中する。
(来るか……?)
十秒ほど、オレと先輩の呼吸音しか聞こえない状態が続く。意識を完全に集中しているせいか、たった十秒だというのに、恐ろしく長い時間に感じた。思わずハズレではないかと錯覚してしまうほどに。
しかしほんの一瞬、
(……!)
空気の流れる音に、微かな衣擦れの音が混ざった。
瞬間、先輩が扉の前から跳びのいた。それと同時に、扉の鍵の部分に三発発砲。あっと言う間にボロボロになったその部分に、素早く前蹴りをブチ込む。
派手な音を響かせながら、内開きの扉が蹴破られる。一瞬でオレ、先輩の順に室内に駆け込んだ。
灯りはついていないようだ。やはり僅かに射し込む月明かりだけが、かろうじて視界を保たせてくれている。そんな薄暗い部屋からは、それだけで鮮烈な紅をイメージしてしまうような、はっきりとした血の臭いが漂ってくる。
(こいつぁ……)
即座に視線を走らせた。どうやら、このビルの中でもかなり高級な部屋だったらしい。室内はかなりの広さだった。メインルームは一般家庭のリビングくらいあり、テレビやテーブル、大きなベッド等が鎮座している。
そしてそのベッドの上に。
ヤツはいた。
「っ!」
反射的に銃を動かし、フラッシュライトの光を向けた。照らし出されたダブルベッドの上には、こちらに背を向けて座っている小さな女と、しわくちゃになったスーツ姿で仰向けに横たわる男、そして、その男の腹部から大量に流れ出た血で染まった、紅いシーツ。どうやら既に、一人殺った後らしい。
相当やかましく侵入してきたというのに、ベッドの上の女は微動だにしない。とても殺しなどやりそうにないほど華奢な肩を、呼吸に合わせて上下させているだけだ。
気に入らねェな、その落ち着きよう。
「紗理奈、だな」
イライラしていると、先輩が後ろから問いかけた。おそらくその右手は、既に腰の刀にかかっているだろう。
そのまま数秒待ったが、反応は無かった。オレのイライラは更に募る。
「質問に答えろよ。頭にトンネル開けたく無かったらな」
指に力を込めながらそう言うと、ようやく反応があった。ヤツの右手が動いたのだ。
こちらに向かって小さく動いた右手から、何かが放られる。円筒状で、小型の物体。
――しまった……!
「フラッシュ!」
叫ぶのと同時に左腕で目を覆う。視界が暗くなる寸前、空中で円筒が爆ぜるのが見えた。
フラッシュグレネードが起動し、一瞬、真っ黒な視界に白っぽいものが混ざる。同時に、「くっ!」という先輩の声が後ろから聞こえた。対応が遅れたんだろうか。
五秒ほど経ってから腕の覆いを外すと、紗理奈の姿は無かった。
「あんの野郎……」
逃げたか。残っているのはベッドの上の男性のみ。ぴくりとも動いてないから、この人は死亡で間違い無さそうだ。
後ろを振り返ると、先輩が少し俯いた状態で立っていた。しきりにまばたきを繰り返している。やっぱり、フラッシュを喰らったのか。
「先輩、大丈夫すか?」
「大丈夫だ。わざと喰らった。日向、ヤツは窓から出ていったぞ」
オレの問いかけに、先輩は部屋の窓を指さしながら答えた。そっちを見てみると、確かに窓が開いており、吹き込む風でカーテンが揺れている。なるほど、先輩はあえてフラッシュを喰らいながら、相手の動きを最後まで追っていたらしい。流石だ。
しかし、窓からっつっても……。
「ここ七十五階っすよ……」
「下じゃない。上だ。おそらく、ヤツは屋上に向かった。予めワイヤーでも垂らしてあったんだろう」
先輩はそう言うと、今度は扉の方を指した。
「日向、先にヤツを追え。私も被害者の状態を本部に連絡してから行く」
「了解」
指示にうなずきを返して、すぐさま踵を返した。血生臭い部屋を飛び出し、来た道を走って戻る。暗い廊下をあっと言う間に走り抜けて、センターサークルに戻ってきた。
(エレベーター、は待ってる時間がもったいねーな)
そう判断し、エレベーターチューブに巻き付いている螺旋エスカレーターに向かった。とは言っても、止まっているから実質ただの螺旋階段だ。銃をホルスターにしまい、全速力で駆け上がる。
わざわざ屋上に向かったってことは、こっちとやり合う気らしいな。テキトーに痛めつけてからゆっくり逃げようって魂胆か。
「くっ、そっ! っはぁ! 舐めんなよ、んのヤロォ!」
全身フル装備、全速力での階段ダッシュは、かなりの勢いで体力を消費していく。二階層ほど駆け上がったところでもう息が上がってきた。それでも気合いで足を動かし、上へ、上へと進んでいく。
「っしゃぁ! 着いた!」
荒い息を乱暴に吐き出しながら、ついに屋上の床を踏んだ。床と天井以外、四方向がガラス張りのペントハウス内は、大きな月から降り注ぐ光で明るく、ビルの中よりも視界は断然いい。背面から銃を抜き、ライトを銃から外してしまいながら鋭く全方向に視線を走らせたが、紗理奈の姿は見当たらなかった。
(どこだ……)
銃口をあらゆる方向に向けながら歩を進める。視界には映らないが、なぜか確信があった。既にヤツは、この屋上に来ているという、そんな確信が。
自動ドアをくぐって外に出た。瞬間、強い風が、ごう、っと吹きつけて前髪を躍らせた。ここは八十階建てのビルの屋上。たかだか数十分で随分と気温が下がったらしい。到着した時とは打って変わって、初夏とは思えないほどの冷たい風が吹いてくる。死んだ街にふさわしい、心を凍りつかせるような、冷たい風だ。
そのまま数歩進んだ、その時。
「はじめまして、こんばんは、さよなら。どれを言ったらいいかな?」
後ろから、いや、後方の高い位置から声が聞こえた。高い音で、どこか幼い印象を受ける女の声。
「っ!」
反応と同時に、声の方に顔と銃口を向け、引き金を引いた。唸るようなビル風の中に、破裂するような銃声が一瞬紛れる。
顔と銃口に遅れて、体もペントハウスの方を向いた。ようやく、敵とのご対面と言う訳だ。月明かりで、その姿は昼のようによく見えた。
オレが撃った弾丸は敵を捉えてはいた。ただし、ほんの数ミリだけだ。頬に傷を付けただけのようで、二センチほどの傷から紅い血が垂れているのが見える。
オレは確かに射撃が下手だが、それでも今のタイミングは珍しく完璧だった。確実に脳天を撃ち抜いたかと思ったら、頭を動かすだけでかわされたらしい。相当な反射神経だな。
だが、そんなことはどうでもいい。
「ああ、やっぱり……、」
今はっきりと視認した敵の姿。それは、曲芸じみた回避や、常人離れした反射神経よりももっと驚かされるものだったからだ。
「はじめまして、は違ったかな?」
ペントハウスの屋上で足を組んで座っていたのは……、
「お前は……!」
「とりあえず、こんばんはだね。特警のお兄さん?」
一週間前、サタデーナイトスペシャルに向かう途中に廃都で助けた、あのみつき似の女の子だったのだ。
勘弁してくれ。さすがに脳の処理が追いつかねェ。容量の少ないメインメモリに、いきなりでかいタスクをブチ込むなよ。
幻覚でも見てんのか? 確かに、バカにでかい月の下の廃都で、頬から血を流しながら淫靡に笑う少女と遭遇するなんてのは現実離れしてる。
そうだ、きっとこいつは夢だな。多分、オレはみつきの夢の中にでもいるんだろう。
「悪りぃ。すっこんでてくれねーか。オレの敵はアンタじゃねぇ。でかい蟹だったと思うんだ」
自分でもつまんねぇと思いながらも、軽く笑って見せる。夢ならさっさと覚めろよ。今すぐにだ。
しかしそいつは、
「? どこか頭でも打ったの?」
小首をかしげて不思議そうにそう言ってくるだけだった。ここは現実だと再確認させてくるだけだった。
逃げられない。
「はは、は……」
あまりの事態に、出ていた乾いた笑いも引っ込んだ。こんなおかしな状態が、現実だってのかよ。誰かがかました、笑えねぇジョークじゃないのかよ。
うつむいたオレと、少女との間を、空間を裂くような鋭い風が駆け抜ける。その音、冷たさ。紛れも無く現実のそれだ。
「アンタは本当に、アンタなのか……」
少し顔を上げて呟いた言葉は、おかしな日本語になった。しかしその真意は伝わったらしく、少女は頬の傷から指一本で血を拭い取りながら、口を開いた。
「そう。私は一週間前、アナタに助けてもらった女の子で、たった今、特警に追われる犯罪者でもある。正真正銘、紗理奈は紗理奈だよ」
無邪気に言いながらも、指についた血を舌で舐め取って笑う姿は、ひどく妖艶だった。この前チンピラに襲われて怯えていた女の子と同一人物とは、とても思えない。
「まさか、こんなに早く出会うとは思ってなかったけどね……」
その少女、いや、紗理奈は、言い終わると同時に立ち上がった。ペントハウスの屋根を蹴って、綺麗な弧を描きながらオレの頭上を飛び越え、すとん、と着地する。その一連の動作は、まるで羽のように、異常に軽やかだった。
着地で膝を折った状態から立ち上がった彼女と、目が合う。
(ああ、間違い無い)
一週間前の記憶とも、特警の情報とも一致する。若干赤みがかった黒いショートヘア、アメジスト色の瞳、身長百五十センチ弱。確かに、コイツは紗理奈なんだ。着ているレオタードの改造服みたいなのは、ヤツの戦闘スタイルに起因するものだろう。
その時、背後で自動ドアが開く音が聞こえた。チラリとそちらを見やると、先輩の姿があった。被害者の報告は終わったらしい。
のんびりお喋りすんのも、これが最後だな。
「一つ聞かせろ」
頭の中を戦闘状態に切り替えながら発した言葉に、彼女は小首をかしげて反応した。
「なんであそこにいた。テメーほどのヤツが、たかがチンピラにやられる訳ねェよな」
言い終わるのとほぼ同時に、先輩がオレの隣で足を止めた。鋭く前を睨むオレを、刀に手をかけたまま、怪訝な顔で見ている。
質問を聞いたソイツは、黙っていた。しかし数秒後、ぺろりと唇を軽く舐めて、答えを発する。
「今日と同じ。実は、ディナーの時間だった。そう言ったら、どうする?」
愉悦を含んだ声色が、オレ達の間に落ちた。
堅く噛んだ奥歯がずれる音が、頭の中に響く。
「……そうかよ」
それがお前の答えなんだな。オレは特警として、一人の女の子の命を救った事を小さく誇った。だが結局は、ヤツの紅い食事を邪魔しただけだったらしい。助けられたのは、あのチンピラ達の方だったという訳か。
そしてコイツは……!
「上等だ……!」
殺す事への躊躇いなんか、小指の先ほども持っていない。遊園地に行く前の子供のように、愉快さを含んだ声でその話をしやがる……!
許しちゃいけねぇ。逃がしちゃいけねぇ。今はっきりと理解した。
紗理奈ってのは、そういうヤツなんだと。
「日向、知り合いか?」
「ええ、一週間前にちょっと。冗談だと思いたいですけど」
先輩が小声で問うてくるのに、前を向いたまま答える。そのやりとりを見た紗理奈が、ぱっと先輩の方を向いた。
「あ、アナタは知ってる。ちゃんと顔を合わせるのは初めてだけど、前にも会った事あるよね? 真田さんだっけ?」
邪悪とすら感じる表情からころりと一転し、子供のような無邪気さで紗理奈はそう言った。凄い落差だ。まるでコインの裏表だな。
なるほど、裏社会で娼婦まがいに男を誘って餌にしてるだけある。良く出来た営業スマイルって訳だ。
「似てるな」
「みつきにですか」
ぽつりと呟かれた言葉に問を返してみると、先輩は小さくうなずいた。やっぱり、そう思うよな。オレで見間違えたくらいだ。先輩からしたら、ヤツの表の顔はみつきと区別がつかないだろう。
「やりにくいか、愛本そっくりだと」
「変わりゃしません。それに、みつきをこんな顔で睨んだ事なんか無いっすよ」
そう返して、構えを取る。今日は既に被害者を出しちまってる。その事実だけでも許せねぇからな。
「行きます」
「うむ!」
地面を蹴った。オレは正面から、先輩は半円を描くように迂回しながら、紗理奈に接近する。
「ふーん……、やっぱりやる気なんだ……」
何事かヤツが呟いているが、関係ねぇ。まずは主導権を取る……!
走りながら、イーグルで一発撃った。乾いた発砲音と、夜の闇に咲く発射炎を残して、弾丸が紗理奈に向かう。
「よっ」
しかしその標的は、オレが引き金を引くのとほぼ同時に半身を引いていた。射殺すラインは無意味に展開し、消える。
――OK。それが目的だからな……!
銃を背面にしまい、ナイフを左手で抜く。敵が回避した一瞬で、至近距離までの接近に成功した。
火薬の臭いが、僅かに鼻を刺激した。予想よりもオレの動きが早かったのか、紗理奈が目を少し見開いているのが見えた。
「っら!」
右ミドルキックを、半身を引いている紗理奈の背中側に繰り出す。こんだけ体格差があれば、そこまで威力を込めなくても十分なダメージを与えられる。そう考えて、力よりも速度を重視した蹴りを出した。
「ほっ」
だが、これもかわされた。その場で走り高跳びの背面跳びのように、オレの蹴り足を跳び越えて、両手で地面に着地する。駄目だ。かすりもしてない。
「チィッ!」
蹴りの勢いのまま、体を回転させる。繋ぎの二撃目、左のバックブロー。しかもナイフを握った状態だ。当たれば致命傷を与えられる。
回避後の着地で、紗理奈はほぼ逆立ちの状態だった。ここからの連続回避は難しいだろうと思ったが、甘かったようだ。
「たぁっ」
足首を狙ったナイフでの一撃は、空振りに終わる。紗理奈が逆立ちのまま、前後に開脚したからだ。
「うおっ!?」
マジかコイツ!?
足がバラついた。マズイ。二連続で攻撃を空振ったんだ。体のバランスが崩れかけている。ここですっ転びでもしたら完全に形勢逆転される。
「んなろォッ!」
体が傾く前に左足で地面を蹴り、その足を力任せに振り上げる。当てる為じゃなく、牽制するための一撃。こうでもしないと、倒れた瞬間を狙われる。
「っとと」
苦し紛れの蹴り足を、逆立ちの紗理奈はハンドスプリングで飛びながら避けた。詰まっていた間合いが開く。
一方オレは、地面に落ちた。堅いコンクリートが背中を打つ。
「痛って!」
普通に痛いが、反撃は免れた。さっさと起き上がって体勢を立て直さねーと……。
そう考えて、即座に上半身を起こしたオレの目に飛び込んできたのは、
「スキアリ?」
こちらに向かって地面を蹴る紗理奈だった。かなり間合いが開いていたはずなのに、もう詰めて来やがった……! 予想の倍は速えぇぞ……!?
「くっ!」
慌ててホルスターに手を伸ばすが、駄目だ。ヤツの方が早い。いきなり絶体絶命じゃねーかよ!
あまり意味は無いだろうとは思いつつ、ナイフを投げつけようとした、その時。
「隙有りだな」
オレに向かってくる紗理奈の左側で、先輩がぐっと地面を踏み込むのが見えた。その右手は、鞘に収まった刀にかかっている。
「ふっ!」
そして抜刀。速い。刃を刃と認識出来なかった。刃が反射した月明かりが、銀色の軌跡を描くのが見えただけだ。遅れて、空気を切り裂いた音が、小さく響いて来た。
「わわっ」
だが紗理奈はこれもかわした。急停止して百八十度開脚し、その場で身を沈めたのだ。追うように先輩がローキックを繰り出したが、それも飛び退いてかわす。そのまま更に数回の跳躍で、紗理奈は大きく間合いを取った。
「っはぁっ!」
無意識のうちに止まっていた呼吸を、思い出したように再開する。危なかった。先輩がいなかったら、早々にやられていたかもしれない。
「無事か、日向」
「すんません。ミスりました」
「得意パターンに持ち込むのはいいが、相手によっては連撃を止める事も重要だぞ」
先輩の忠告にうなずきながら立ち上がる。確かに、しょっぱなから大振りになり過ぎた。
「しかし、掴み所が無いというか独特というか。やりにくい動きだな」
「情報に間違いはねェっすね」
「ああ……」
先輩は、オレに相槌を打った後、紗理奈の方を見て、ぽつりと呟いた。
「新体操、か……」
本部で与えられた紗理奈の情報の一つに、動きが非常に独特であるというものがあった。先輩が今呟いたように、新体操が動きの軸になっているのではないかと推測されている。オレもテレビで少し見た事ある程度だが、確かに紗理奈の動きは、体操競技特有の、柔軟さを存分に活かしたものだ。
おまけに、ヤツはまだ曲芸じみた回避を見せただけで、本気で闘ってはいない。腰に下げている、武器であるワイヤー製の鞭を、まだ一度も抜いていないからな。
「舐めやがって……」
「いや、むしろ好機だ。アレを抜かれたら接近戦は難しくなる」
オレ達が小声で話している間にも、紗理奈は不思議そうに首をかしげているだけで、攻撃を仕掛けてくる気配はない。確かに、警戒が緩い内に叩くのが最善手だ。
「日向、作戦は変えずにいく。お前は攻めろ。私はヤツの動きを見つつ、隙を見て斬り込む」
「うっす」
作戦を再確認してからナイフをしまい、構えをとる。威力は無くていい。今は速い攻撃が必要だ。
「お話は終わりー?」
紗理奈が楽しげに声をかけてくるが、無視だ。聞き終わる前に地面を蹴った。二歩目、三歩目と加速を続け、間合いを詰める。
「ふっ」
初撃は左フック。いつもより力を抜いて、速度を上げて繰り出す。が、これは上体を逸らす事でかわされた。
止まらずもう一歩踏み込んで、フックを繰り出した左拳を引き戻し、バックブロー。しかしこれも、バック宙で空振りにされる。
「チィッ!」
くそっ。オレが出せる中でも最高速度の連撃なのに、かすりもしねぇ!
足を止めて、レッグホルスターからリボルバーを抜いた。照準を一瞬で合わせ、引き金に指を……、
「とりゃっ」
かけたところで、着地寸前の紗理奈が右手を振った。その手から、何かが放たれてこっちに飛来してくる。
「っく……!」
小型のナイフだ。首に向かってまっすぐ飛んでくるそれを、一歩動いてかわす。直撃は避けたが、そのせいで、引き金を引く瞬間に照準がずれた。
轟音とともに右腕が跳ね上がる。巨大な発射炎を残して撃ち出された.454カスール弾は、何も無い空間を切り裂いた。
「クソッタレ……!」
狙いをつけてもう二発撃つが、その場で半身を引き、更にしゃがむ事で、二発とも避けられた。駄目だ。パイソンじゃ反動がでか過ぎる。連射出来ないから当たらねぇ。
「あはは! へたっぴね!」
「るっせぇ!」
リボルバーをしまい、再び接近する。踏み込んで、右フック、左ボディ、右ミドルアッパーと素早くコンビネーションを繰り出すが、全て最低限の動きで回避された。
アッパーで振り切った右腕越しに、紗理奈の顔が視界に入る。その顔には、薄く笑みが浮かんでいた。まるで、『この程度か』とでも言いたげな、余裕に溢れた笑みが……!
屈辱が、熱となって脳内に満ちるのを感じた。
「ざけんじゃ……、」
後ろに跳んで間合いを開けつつ、背面のホルスターからイーグルを抜く。アイアンサイトと紗理奈が重なった瞬間、
「ねェぞヤロォ!」
トリガーを引き切った。発砲音が響き、弾丸が撃ち出され、スライドの前後に伴って空薬莢が排出される。それら発砲の動作より僅かに速く、紗理奈は動いていた。その場で上半身を大きく逸らし、弾丸をかわしたかと思えば、そのままブリッジ、更に足を振り上げて弧を描くように振り、再び立ち上がる。その場から移動する事無く攻撃をかわす、いかにも体操競技といった感じの、体の柔らかさを最大限用いた動きを見せた。
「こんの……!」
追うように連射するが、全く意味をなさない。全て余裕たっぷりの動きで回避され、手首に走る反動と、落ちた空薬莢が響かせる軽い音に、焦燥感が募るだけだった。
四発撃ったところで、スライドが後退したままになる。弾切れだ。
「チッ!」
「下がれ日向!」
先輩の声が鋭く響いた。弾倉を入れ替えつつ、反射的に大きく後ろに跳ぶと、視界の右側から現れた先輩が、紗理奈に向けて大きく踏み込んだ。
さすが先輩。踏み込みが速い上に、深い。あの間合いなら回避は難しいはずだ。
突如現れた先輩を見る紗理奈の目が、大きく見開かれている。その表情に、オレに対している時のような余裕は無い。
先輩の右手が動く。しかしそれより速く、紗理奈の右手も動いていた。
「はっ!」
気合いと共に先輩の刀が走る。相変わらず、抜刀の瞬間を目で追えないほどの速さ。しかしそのスピードをもってしても、鞘から溢れるようにして迸った銀色の光は、紗理奈を捉えることはなかった。
まるで手品かイリュージョンのように、紗理奈は一瞬で姿を消したのだ。
「嘘だろ……」
あんなに詰まった間合いから先輩の居合いをかわした人間を、オレは知らない。左右か後ろに跳んだとしても、刀の攻撃範囲からは逃げられないはずだ。
どこへ行ったのかと、慌てて視線を左右に振る。だが、そんなオレの狼狽に反して、攻撃をかわされた張本人の先輩は冷静だった。
すっ、と先輩の右手が滑らかに動く。握られた日本刀、その切っ先は、まっすぐに先輩の前方斜め四十五度を差した。
「ふん、ようやく抜いたか」
サークル間を繋ぐ各通路には、アーケード、つまりアーチ状の屋根がある。高さ五メートルほどの高い屋根だ。
そこに、紗理奈がぶら下がっていた。屋根の骨組み部分にワイヤー製の鞭を巻き付け、空中で左右に小さく揺れている。先ほどまで余裕でオレの攻撃をかわし続けた人間と同一人物とは思えないほど、その姿は小さく見えた。
だがそれにしても、あの一瞬でワイヤーを抜き、高所に巻き付けて跳び、唯一刀の攻撃範囲外である上への回避をやってのけた実力は本物だ。並の犯罪者なら頭と胴体がサヨナラして終了だからな。
「今のは惜しかったっす、ね……、」
声をかけつつ、視線を先輩に移すが、軽い口調で発していた言葉を最後まで紡ぐことができなかった。紗理奈を見据えるその目が、射殺すような鋭い光を宿していたからだ。
既に先輩は、カマイタチのように、触れれば切り刻まれそうな殺気を纏っている。まるで、刃に反射する銀色に吸い寄せられるかのごとく、空気に殺意が満ちていく。
その空気を、先輩の声が震わせた。
「後輩の手前、得物を抜かずして勝つのが得策、とは言ったがな。私にも意地というものがある。以前の借りは返させてもらうぞ」
ゆっくりと、体内に空気中の殺気を取りこむように呼吸をし、体の前で、両手で日本刀を構えると、先輩は静かに口を開く。
「来い紗理奈。本気で私を殺すつもりのお前を、私が殺してやる」