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VS〜コノヨノコトワリ〜  作者: TERIS
FILE4:『約束』
32/33

FILE4.6:約束だ

※長いです

 本部の正面入り口をくぐり、建物の外に足を踏み出した。ここに来た時、まだ夕日が見えていた空も、今はすっかり夜の帳が下りた状態だ。まあ、当然か。既に時刻は二十一時を迎えようとしている。二時間半も本部にいた計算になるのだ。すぐ帰るつもりだったのに、説明聞いたりミーティングしたりしてたらすっかり遅くなってしまった。

 少し顔を上に向けると、真夏ほどではないものの、初夏特有の少しだけ熱気を孕んだ外気が頬を撫でた。それでも空気は澄んでいるようで、真っ暗な空には宝石を撒き散らしたような無数の星と、満月まであと少しの綺麗な月が見えていた。いい夜だ。銃を懐に吊ったこんな状態じゃなきゃ、みつきと夜の散歩にでも出かけていたかもしれない。いや、後でホントに誘ってもいいかもな。

 けど、こんな夜を素直に楽しめないのも、今の今まで直面していた問題のせい、なんだよな。

「メンドーな事になりやがったな……」

 手に持ったクリアファイルに目を落としながら、唸るように呟く。先ほど澤田さんから説明を受けた情報ファイルを印刷したものだ。件の紗理奈の情報が黒いインクで羅列されている。ただのペラい紙数枚なのに、まるでコレ自体が凶悪犯罪者であるかのような、異様な存在感を放っている。

「うん、珍しく友がまともな事言った。マジでメンドーだよね」

 同じ内容の紙を持ったツジが、一度大きくうなずく。それに従うように、やはり同じ紙を持った極と真田先輩も首を縦に振る。なんだかツジの発言にそこはかとない悪意を感じたが、きっと気のせいだろう。

 再びファイルに視線をやり、後頭部をガリガリと掻いた。今までも数々の任務に赴いてきたが、危険度、というか標的のレベルでいえば今回が一番手強いんじゃないだろうか。

 事態の重さに、全員がなんとなく沈黙していたが、やがて先輩が肩をすくめながら言葉を発した。

「まあ、今ここで悩んでいても仕方が無い。任務は任務だからな。とりあえず今日はもう帰って英気を養うべきだろう」

「まあ、そっすね。駄々こねたって仕事が無くなる訳じゃねーか」

「帰ろうかー」

 先輩の発言で、場の空気が弛緩する。どうにも所長の部屋に行った後は、余韻で空気が堅くなるようだ。無意識に小さくなっていた呼吸を元に戻すため、数回大きく深呼吸する。肺に満ちる新鮮な酸素が非常に心地よい。

 気分が多少楽になったところで、四人で駐輪場に向けて歩き出した。

「私はこのまま帰るが、お前達はどうだ」

「オレはみつき迎えに行ってから帰ります」

「友についてって美咲ん家行きます」

「僕は装備の不足分買ってから帰ります」

 問に各々が答えを返すと、先輩は「なるほど」とうなずいた。

「ならば、ここで解散だな。久々の合同任務だ。気合い入れていこうじゃないか。三人とも、よろしく頼むぞ」

「うっす」

「頑張りましょう」

「友がオレの分も頑張ります」

「自分で頑張れバカ野郎」

 オレ、ツジ、極の順に返答をし、極にツッコミを入れると、先輩は「うむ」と相槌を打ちながら自転車に跨った。

 って先輩チャリかよ!

「では、私は帰るぞ。お前達も気を付けて帰れよ」

 あんぐりと口を開けるオレ達三人を置いて、先輩はペダルを踏んだ。チリンチリンとベルを鳴らしながら、グリーンの自転車が走り去って行く。物々しい雰囲気の本部敷地内で、部活帰りの中学生のようにチャリを漕ぐ先輩の姿は、言っては悪いがとんでもなくシュールだった。

「良い感じに気合い入ってたのに、最後の最後で締まらねェなあの人……」

 任務の時の威圧感はどこ行ったんだ。

 だが先輩のおかげで、僅かに残っていた緊張感が完全にほぐれた。右腕を肩から回してみても、先ほどまで感じていた重さはどこにも無い。

「帰るか」

「そだね。じゃあ、僕はナオさんとこ行くから。また明日、極」

「おう」

「おいツジ、オレは?」

「あ、そうだった友もまあまた明日」

「なんだそのテキトーさ」

 ひっでぇ、と笑いながら手を振ると、ニヤリと笑い返したツジはヘルメットを被り、愛車のPCXに乗ってエンジンをスタートさせた。瞬間、周囲に排気音と、機関部から吐き出される熱が放出される。元々125CCのスクーターだが、ツジのは250CCのエンジンに換装し、内部もかなりいじっているため、辺りに響く排気音はノーマル車両のそれよりも大きく、重厚だ。

 最後に一度、オレと極にひらりと手を振ると、ツジのバイクは発車した。小さな背中があっと言う間に遠くなっていき、すぐに見えなくなった。

 満天の星空の下、残ったのは、オレと極だけ。その星を掴もうとするくらいの勢いで大きく腕を上に突き出し、体を伸ばす。

 さてと……、

「行くか」

「だな」

 アイツが待ってる。

 メットインスペースからヘルメットを取り出し、手早く装着する。駐輪スペースから車体を引っ張り出して、跨ってエンジンをかける。インストルメントパネルが点灯するのと同時に、車体がオレの携帯を自動認識した事を示す表示がパネルに光の文字で現れた。

 安全確認の後、バイクをスタートさせる。初夏の夜とはいえ、正面からぶつかってくる風は少し冷たい。チラリとミラーを見やると、一緒に美咲の家に向かう極が後ろをついて来ているのが見えた。

 走り出して一分と経たないうちに、インストルメントパネル表面に『着信』の文字が表示された。発信元は、すぐ後ろを走ってるヤツらしい。

 まあ、かけてくるとは思ってた。左ハンドルの操作用ミニディスプレイに表示された『通話』の文字をタッチする。

「おう」

「うむ」

 無線機内蔵のヘルメット、その耳の部分から、極の声が聞こえた。なんでわざわざ走行中に電話なんかかけてきたか。そんなことは決まってる。目の前の厄介事についてだろう。

「気分はどうだ。ハッピーか?」

「んな訳あるかクソったれ。胃に穴が開いたらどうしてくれんだ」

 疲れたようにジョークを投げてきた極に、愚痴を含んだ悪態をつく。ヤツも珍しく「全くだ」と全面同意してきた。この案件が死ぬほどメンドくさいって事は、オレ達の間で完全な共通認識らしい。

 今回、所長から告げられた任務はこうだ。大人の手が空くまでの一週間、オレ達若手で紗理奈への警戒態勢を敷く。諜報部の調査によって紗理奈の居場所が発見されたら、そこに強襲をかけるのだ。ただ、一週間ずっと出撃を待つのは先輩だけで、オレとツジは一日交代で待機、という事らしい。今日から数えると、月、水、金、日はツジ、火、木、土はオレが先輩とバディを組む事になる。極はその間、調査を続行し、出撃があればそのバックアップをするよう言い渡されていた。

 強襲した場合の最良結果は紗理奈の鎮圧。とはいっても、特警としても逃げに特化した紗理奈を殺害するのは困難と判断しており、最近のヤツへの対処は専ら出現地域から追い払うことがほとんどだ。オレ達が出撃した場合も、最低でもこの近辺における紗理奈の脅威を排除し、出来れば有効なダメージを与えるなり、有益な情報を持ち帰るなりといった、内容としてはごく控えめな対応をとることになる。

 目前にある交差点の信号が赤だった為、ブレーキを操作して走行を止めた。前を向くと、大型のトラックやバイクが、夜の闇をヘッドライトで切り裂きながら横切っていくのが見える。やけに透明感のあるデザインの歩道橋の柵に張られたガラスのようなディスプレイに、現在の気温や交通情報、簡単なニュース等が映し出されていた。

 ヘルメット内に空気を入れる為、シールドを押し上げた。

「にしても紗理奈の情報って少な過ぎじゃね? あんだけ長い間逃げ回ってりゃ、もうちょい量あってもいいだろ」

 生温い空気を肺に吸い込んで話しかけると、極は小さくため息をついた。

「情報管理部としては耳が痛いが、実際仕方ないと思うぞ。むしろ逃げ回っているからこそ、情報も入って来にくいんだろう。住処もちょくちょく変えているようだしな。生き延びる事に長ける、というのは、相手が有利になるような情報を与えない事でもあるんだろうよ」

「あー、それもそっか。そういうとこまで徹底してるってのはさすがSランクってとこだな」

 納得したところで信号が青に変わった。メットのシールドを元に戻し、アクセルを捻る。走行再開からほどなくして、今度は極が通信を入れてくる。

「友、」

「あん?」

 スピードメーターをチラリと見ながら短く応えると、極は呟くように言葉を漏らした。

「相棒としてお前を侮ってる訳じゃないし、お前の力を疑う訳でもない。けど一つ、お前の一幼馴染として問わせろ」

 そこまでで一度言葉を切った極が続きを紡ぐのを、黙って待つ。いつになく真剣なその問に、こちらも真剣に答えなければならない。

 馬鹿に明るいネオンサインで描かれたパチンコ屋の看板が視界から消えていったのと同時に、極は続ける。

「不安は無いのか」

 変わらず呟くように発せられたその言葉は、バイクの排気音や周囲の喧騒に掻き消される事無く、確かにオレの鼓膜を震わせた。

 何も難しい質問じゃない。YESかNOで答えられる単純なものだ。しかも相棒としてではなく、幼馴染としての問なら、合理的な思考や力量の計算は必要ない。単純にオレの考えを吐き出してやればいい。

「あるよ」

 即答した。率直な感想だ。

 返答の早さが予想外だったのか、それとも答えた内容が予想外だったのか。極は「ほう」と驚いたような声を漏らした。

「意外だったな。『んなもんあるかアホたれ』とでも言うかと思ったぞ」

「いくらオレでもそこまで身の程知らずじゃねーよ。所長とか澤田さんじゃねーんだから、怖いものくらいあるさ」

 交差点を左折しながらそう答えた後、紗理奈についての情報を頭に浮かべてみる。

 本当なら、不安など無い、と言ってしまいたい。しかしそれを口にするには、さっき本部で聞いた、四年前の紗理奈の逃走劇という事実はあまりに重過ぎる。

 オレの答えを聞いた極は、「そうか……」と呟いたっきり黙ってしまったが、それを気にせず続けた。

「まあ、そうは言っても相手は基本逃げるらしいし、狙ってきてもこっちの戦闘不能だ。そもそも任務がオレとツジのどっちに回ってくるかもランダムだしな。仮に回って来ても先輩いるし。死ぬ可能性は普通の任務より低いかもしれねーぞ」

 一番いいのは一週間ヤツが大人しくオネンネしててくれることだけどよ、とまとめると、極は数秒の間沈黙を続けた。しかしすぐに小さく首を横に振るのが、ミラー越しに見える。ヘルメットのせいで表情まではわからないが、堅苦しい動作ではなさそうだ。

「ミスターネガティブ思考にしては前向きじゃないか。あんな話聞いて怖気づいてるかと思ったが、取り越し苦労だったようだな」

「一言多いんだよオメーは。喋る回数をもう一回減らしてみろ。お前の関節が悲鳴を上げる確率もぐっと下がるってもんだ」

 鼻で笑いながら皮肉ってきた極に、軽い口調で応戦する。だが、その皮肉の裏に隠れた真意は確かに伝わってきた。みつきだけじゃない。コイツもなんだかんだでオレの身を案じてくれてるんだよな。

 それにオレが応える唯一の方法。それは、勝つ事だけだ。

 バイクでの走行は続けながら、サムズアップした左手を横に突き出す。

「勝つさ。絶対にな」

 強く言い切ったオレの言葉に、

「ああ」

 極は短く返した。

 それから数分後、二台のバイクは天谷家の豪邸前に到着した。風を切っている最中は若干の寒さを感じていたが、降車するとすぐに体の周囲に熱気が纏わり付く。メットを脱いでシート下にしまい、インナーのシャツを小刻みに引っ張って服の中に風を送り込んだ。極もメガネを拭いた後に、同じ動作で涼んでいる。

 ひとしきり服の中の熱気を追い払って視線を美咲ん家に向けたが、門は当然閉まっている。こっちからは開けられないから、向こうから出てきてもらわなければならない。

 洒落たデザインの呼び鈴のボタンを押すと、来客を示す電子音が鳴った。数秒としないうちに、インターホンのスピーカーから声が返ってくる。

「はーい?」

 鈴を鳴らしたような、耳に心地よいが若干幼い声だ。美咲、じゃないな。妹の方か。

「美華か? オレ、日向」

「あ、はーい。お姉ちゃーん、友兄(ゆうにい)来たよー!」

 インターホンの向こう側で二、三ほど何事か喋った後、美華は再びこちらに声をかけてくる。

「入って来ていいって。すぐ門開けるね」

 その言葉を聞いた数秒後、観音開きになっている立派な金属製の門が、少し軋むような音を立てながら開いていく。自動で門が開くとか、まさに豪邸って作りしてるよなこの家。

 門から玄関に向かって伸びている石畳の通路を、バイクを押しながら極と歩く。アホみたいに広い庭は綺麗に整備されており、大小様々な植物が、微かに吹く初夏の風に揺れている。もう暗いから色までは判別できないが、太陽の下では美しい緑がよく映えそうだ。風景の中に、白い円筒状の掃除用ロボットがいくつか見えるが、夜だからか全部動きを止めていた。

 バイクを駐輪スペースに置いた後、十数秒してでかい玄関の扉の前にたどり着いた。所長室の扉よりもはるかに大きいが、そこにあの部屋のような威圧感は無い。オレンジの照明に照らされた木製の扉は、素材そのままの温かみを放っている。

 取っ手に手をかけようとしたが、手を動かすより早く扉は勝手に開いた。夜の暗さに慣れた目に、室内の灯りが飛び込んでくる。一瞬、その光を眩しく感じて目を細めた。

 扉の向こうでは、一人の少女がこちらを見上げていた。

「いらっしゃい、友兄。あ、きわ兄もいたんだ」

 美咲の妹、天谷美華だ。オレ達より一つ年下で、高校の後輩でもある。

 美咲よりあどけなさの残る彼女は、黒のセミロングヘアを指でくるくるといじりながらオレと極の顔を交互に見た。

「遅かったね?」

「ああ、悪いなこんな時間に。みつきは?」

 すぐ出てくるかと思ったが、みつきの姿は見当たらない。美華に問うと、彼女は少し困ったように眉を曲げた。

「うーん……。それがね……、ちょっとこっち来て」

 こちらに手招きして奥に向けて歩き出した美華について行く。広過ぎるエントランスを抜け、明るい廊下を歩いて行くと、美華は『リビング』とプレートのかかった戸を開けた。

「うわ広れぇ相変わらず」

 思わず声が出る。ウチのリビングの倍はあるんじゃなかろうか。とにかく広くて綺麗な空間としか言いようがない。テーブルやソファ等、置かれている家具も一個一個が高そうででかい。

 あんまり派手な装飾は無いが、天谷家の家族写真はたくさん飾ってある。絵に描いたような幸せ家族って感じだな。室内も暖色系を基調にしていて、なんとなく心に染み入るような温かみがある。

「おねーちゃん、連れて来たよー」

 美華の呼びかけに、クリーム色のソファに座った美咲が反応してこちらを向いた。その視線はオレを見た後、後ろにいる極に移ったが、その瞬間、美咲は目を丸くする。

「極!? なんで……」

「いや、電話するようにってのは友から聞いたんだがな。友がここ来るって話だったから、ついでについてきた」

 極が親指でオレを差しながらそう答えると、美咲は「へー、そうなんだ」と呟くように言って、両手を体の前でごそごそし始めた。

(出たな照れ隠し)

 ガラにもなく軽くテンパっている美咲は、「ま、まあ聞きたい事もあったしちょうど良かった」と何故か説明するように言いながら視線をうろうろさせている。どうした無敵超人。

 まあとりあえず、オレは邪魔者にならないうちにさっさと帰った方がよさそうだ。

「えっとよ美咲、みつきは?」

 美咲が違う世界に行ってしまう前に問うと、彼女はハッと我に返ったように視線の動きを止めた。

「ご、ごめん。みつきならここ」

 そう言った美咲の人差し指は、自分のすぐ傍を向いている。

 なんだ、いるんじゃん。

 ソファの背もたれ側から正面に回ってみる。すると、なぜみつきがすぐ出てこなかったかが理解できた。

「ごめんね、ちょっとはしゃぎ過ぎちゃったみたいで」

 ようやく落ち着きを取り戻したらしい美咲の言葉に、軽く首を振った。

 みつきは寝ていた。美咲の膝枕に小さな頭を預けて、安心しきった顔で微かに寝息を立てている。

(ホント、子供みたいな寝顔だよな……)

 膝を折ってしゃがみ、軽くその頭を撫でてみるが、起きない。今度は美咲に視線を移す。

「来てすぐ寝た?」

「ううん。三十分前くらいにね。最初ウチのお母さんいたんだけど、急な仕事でまた出かけちゃって。その後家の中で三人で鬼ごっことかしてたら疲れちゃったみたい」

「鬼ごっこて」

 高校生が三人で鬼ごっこて。

 さすがに呆れた顔をしていると、美咲は一つ咳払いをして、少し表情を引き締めた。

「でも、精神的な疲れもあったはずよ。何回かケータイ見て心配そうな顔してたし、なんか上の空ー、って感じだった」

「そっか」

 任務じゃないから心配すんなとは言ったけど、みつきの性格からしてやっぱ無理だったか。おまけに土産話は厄介事ときてる。それも、これまでに無いくらい特大のだ。心配して待ってたみつきからすればたまったもんじゃないだろうな。

 さて、その土産話も聞かせてやらなきゃならないし、その為にはまず家に帰らなければならない。

 みつきの肩に手を添えて、体を軽く揺らしてみる。

「みつき、起きな」

 小さな体が揺れる度、絹糸みたいに柔らかい栗色の髪がさらさらと下に流れる。手にすくった砂が、指の間からこぼれるように、静かにだ。

 十回ほど揺らしたところで、小さな唇から声が漏れた。

「んー……、メロンパンー……」

 何言ってんのこの子。

「あーゆうー、それわたしのだよー……」

 なんかオレに盗られとるし。おいなんで盗られたのにちょっとニヤつくんだよ。

「ふふふー、ざんねーん。中身は牛丼でしたー」

「……、」

 もはや何も言うまい。

「オイコラみつき、起きろっての」

 さっきより少し強めにみつきの体を揺らす。数秒そうしていると、やっとまぶたがぴくりと動いた。

 起きた。多分。

「んー……、」

 またメロンパンとか言い出したらどうしよう、と少し不安な気持ちがあったが、幸いにもみつきの目は開いた。

「あれー? ゆう?」

 寝ぼけ眼のみつきが、舌足らずな口調でオレの名前を読んだ。まだ若干寝ぼけてるな。

「はいよ、ゆうです。迎えに来たぞ」

 なんとなく、敬礼しながらそう言ってみると、ぼけーっとしていたみつきの目が、だんだん焦点を合わせてくる。その覚醒の動作に比例するように、彼女は頬を膨らませた。

「んだよ」

「おそい!」

 やっと目覚めたみつきの第一声は、それだった。

 仮にも急いで帰ってきたのになんて言い草だ。自分も起きるの遅かったくせに。

 しかしオレのそんな考えは知る由もなく。みつきはぷんぷん怒っている。

「まったくもう! すぐ帰って来るって言ってたから三十分くらいかと思ってたのに」

「お前そりゃ無茶過ぎるだろ」

 コンビニに晩飯買いに行ったんじゃねーぞオレは。

 呆れからため息が勝手に漏れた。しかしそれでも、オレの胸中には言いようの無い安心感が満ちていた。

 任務じゃないから、って言って出かけた甲斐はあったみたいだな。いつもなら、本部から帰ってきたオレを迎えるのは、死ぬほど心配そうな顔をしたみつきだ。でも、今は違う。美咲の話を聞くに、まったく心配してなかった訳じゃ無さそうだけど、少なくとも不安な状態を緩和する事は出来たんだよな。普段のわがまま状態でいるってことは。

 そう考えると、目の前でぷんぷんしているみつきを、ひどく穏やかな気持ちで見る事ができた。

「私のメロンパンも盗っちゃうし!」

「落ち着けそれは夢だ」

 超冷静にツッコミを入れると、みつきの口撃がぱたりと止んだ。カチカチと時計の秒針が動く音の中、彼女は小首をかしげる。

「メロンパンは夢?」

「うん」

「あれ? じゃあゆうも夢?」

「いや、オレは現実」

「ゆうがでっかいカニと闘ってたのは?」

「なんか知らんが多分夢」

「あれー? 私まだ寝てるの?」

「違うからとりあえずお前は美咲の膝枕から起き上がりなさい」

 オレの口から発せられたその言葉を聞いた瞬間、寝転がった状態のみつきはハッとして首を横に捻った。結果、みつきの視線と、さっきからオレとみつきのやりとりを見てクスクス笑っていた美咲の視線がぶつかる。

 ようやく自分の現状を把握したらしいみつきは、一瞬で起き上がり、ソファに正座した。

「ごごごごごごごごめん美咲! 私いつから寝てた!?」

 テンパったみつきが、手を無意味にわたわたと動かしながら問うと、美咲は笑みを崩さないままでその頭を軽く撫でる。

「んー? 三十分くらい前よ。お母さんが出かけた後に鬼ごっこしたのは覚えてる?」

「あ、あれ? あれは夢じゃないの? どっから夢でどっから夢じゃないの?」

 ハテナを浮かべたみつきは、「わかんないー……」と唸っている。現実と区別がつかないとか、どんだけリアルな夢を見てたんだ。オレとでかいカニが戦っている時点で区別出来そうなもんだが。

 などと思っていると、今度は美華が、ソファの背もたれを挟んで、みつきに後ろから覆いかぶさるように抱き付いた。

「光月ちゃんは夢の中でも友兄の事ばっかだねー。いいなーらぶらぶだなー」

「もー、美華までやめてよー」

 どう見てもやめてよーって顔じゃねーぞ。それじゃもっと言ってよーって顔じゃねーかマゾか。

 いやいかん。女三人寄れば姦しいとか言う通り、こいつらを放置しておくとあっと言う間に異次元空間が出来てしまう。

「おいみつき、極も来てるんだし、オレらは帰ろうぜ」

 照れまくっているみつきの頭に手を置きながら声をかけると、彼女は凄い勢いでこっちを向いた。あんだけテレテレしてたくせに、オレを見る目は若干鋭い。遅くなったのまだ怒ってんのか。

「んだよ、いい加減機嫌直……、」

「おんぶ!」

 怨武? 恨みつらみを力に変える新しい武術かなんかか?

「打撃? 柔術系?」

「? 何言ってるの?」

「お前ボケ下手だな」

 黙れ極。

「んで、なんでおんぶだよ」

「遅くなったんだから当然でしょ!」

 え、そんな常識オレの中に無い。

 しかしみつきは、そう言ったっきり美咲にしがみついてしまった。小さな背中が、「絶対譲らないから」と激しく自己主張している。美咲も美咲で「諦めたら?」とでも言いたげな視線をよこしてくるばかりだ。

 このパターン、光夜さんとこに行って帰る時と同じだ。

 仮にも特警の戦闘員であるオレを降参に追い込むとは、このお子さん、やりおる。

「しゃーない。ほら」

 みつきに背中を向けてしゃがむ。レアもんだぞ、この動作。普通なら背中見せるとか死に等しい行為だかんな。

 そのみつきは、おんぶ待ちの体勢になったオレを、美咲にしがみついたまま数秒見つめていた。視線もじとーっとした不機嫌そうなもののままだ。しかしすぐに、にへーっと笑みをこぼしてオレの背中に覆いかぶさった。

 しっかり首に手が回ったのを確かめて膝を伸ばす。相変わらず軽い。食ったお菓子の行方が気になる。

 オレが立つのと同時にソファから立ち上がった美咲に視線を向ける。

「んじゃ、帰るわ。悪かったな長居して」

「ううん。久々に光月と遊べたんだし、むしろありがとうってくらい」

 首を振りながら穏やかな口調で話す美咲は、相変わらず同い年とは思えないほど落ち着いている。

「ごめんね美咲、せっかく来たのに寝ちゃって」

 みつきがしょんぼりした声で謝るのにも、美咲は変わらず首を振る。

「いいのよ。光月の寝顔可愛かったし」

「ねー。私もそう思うー」

 姉の言葉に、美華も楽しそうに同意した。相変わらず姉ちゃんっ子だな美華は。

 またも照れ始めたみつきを背中に乗せたまま、最後に極に向き直る。相棒は、オレの視線を真っ向から受け止めて佇んでいる。

 少し乾いた口を、開いた。

「じゃあ、また任務でな」

「ああ。一週間何も起きない事を祈ってるさ」

 オレ達のそのやりとりを聞いて、背中のみつきが少し体を強張らせたのがわかった。

 ――心配すんなって。後で話すから。

 そう胸中で呟いてから、再び極に視線を戻した。幼馴染は、さっきと変わらずその視線をまっすぐ受け止めている。

「んじゃな。またガッコで」

「おう。宿題やって来いよ」

 余計なお世話だよ、と笑いかけてから極の横を通り過ぎる。

「じゃ」

「ばいばーい」

「うむ」

「また明日ね」

「ばいばい光月ちゃん、友兄」

 それぞれの言葉と思いに見送られながら、オレと光月は天谷家を後にした。







「ゆう、おんぶ」

「またかよ」

 家の鍵を閉めるなり、みつきは悪戯っぽい上目遣いでオレに注文をつけた。

 女子にとって上目遣いは必殺の武器というが、オレはみつきともう何年もいっしょにいる。この動作はもう見慣れたものだ。やれやれ、耐性というものは恐ろしいもので、未だにオレに身についてくれない。

 結構な破壊力でオレの鋼の意志をバターのように切り裂いてくるのだ。今回も、気付けばオレはみつきをおぶっていた。

「えへへー」

「えへへじゃねーよ」

 オレの鋼の意志(時々バター)返せ。

 美咲ん家からバイクで帰宅してすぐ、みつきを散歩に誘った。もう夜中も間近というこの時間に誘ったのは、もちろん件の紗理奈の話をする為だ。

 正直、どこまで話していいのかはわからないが、最低でもオレの身に何かあった時の事は言っておかなくてはならない。

 みつきを背中に乗せたまま、一歩ずつ歩き始めた。初夏の夜空は、数時間前に本部で見たものと何も変わらない。空気が澄んで、無数の星が綺麗で。もう少しで満月の月が明るく輝く最高にいい夜だ。

「綺麗だねー、空」

 背中のお姫さんが、本当に感動したような声を漏らす。偽りなく素直な感情を声に出来るのは、みつきの良い所だ。

「そうかい」

「でも、今日は珍しいよね。ゆうが一日に二回もどこか行こうって誘ってくるなんて」

「たまにはいいだろ。で、もう怒ってねーの遅くなったの」

「んー、怒ってるけど背中あったかいから許してあげるー」

 再びえへへーと笑うとみつきは更に強くしがみついてきた。理由は意味不明だが許してはもらえたらしい。

 それから五分ほどは、他愛もない話をして散歩を続けた。美咲ん家で何して遊んだとか、鬼ごっこが楽しかったとか。その程度の話だ。あんまり楽しそうにみつきが話すもんだから、危うくこっちも本題を忘れそうになった。

 しかしそれでも、だんだんとみつきの口数は減ってくる。オレが何か言おうとしているのを、雰囲気で察知したからだろう。さっきの極とのやりとりも、みつきの意識に影を落としているのかもしれない。その証拠に、とうとう彼女は無言になってしまった。

(さてと……、)

 気乗りはしねぇが、土産話のお披露目といこうか。

 一度深く深呼吸してから、気を引き締めた。出来あがった覚悟を音源に、声を発する。

「みつき、」

「なに……?」

 ぽつりと呟くような反応が返ってきた。毎度のことながら、その不安げな声色を聞くと心が揺らぐ。気合いを入れて固めた拳を、つい緩めてしまいそうになる。

 けど、駄目だ。逃げんな。信じろ。

 唇を噛んでから、閉じてしまいそうになった口をこじ開けた。

「今日、本部に行ってきただろ?」

「……うん」

「その話なんだけどな、やっぱりというかなんというか、この辺に出て来た敵の情報だったんだ。それで、今は大人の手が空いてないからって、オレ達が対応する事になった」

「そう、なんだ……」

 掠れたような呟きとともに、しがみついてくる力が少し強くなった。今すぐ任務に出かけて行く訳でもないのに、必死でオレを放すまいとするみつきの動作は、あまりにもいじらしい。

 だが、固めた覚悟を手放す気は無かった。歩きながらそのまま続きを紡ぐ。

「たださ、普通の相手なら良かったんだけど、これが超ド級の厄介者らしいんだよな。正直、所長と澤田さんから話聞いてるだけでも気が遠くなったし、それをみつきに話すのも気が引けるってのが本音なんだ」

 嘘じゃない。オレの根っこの部分では、みつきをなるべく裏社会から遠ざけたいという思いに変わりは無いのだから。

(けど……、)

 まっすぐな視線から目を逸らす気も、毛頭無い。

「けど、話すよ。美咲に聞いたぜ。心配して待っててくれたんだもんな。ちょっと長くなるけど、聞いてくれるか?」

 自分でも驚くほど穏やかな口調で、その言葉を言う事ができた。対して背中に返ってきたのは、うなずく感触。肯定の動作だった。

 ゆっくりと、一つずつ話した。紗理奈のこと、先輩と合同任務になったこと。ツジと交互に待機だから、もしかしたら出撃が無いかもしれないこと。そして最後に、例の紗理奈の逃走劇。

 その話をみつきは、時々小さく相槌を打ちながら聞いていてくれた。出撃しないかもしれない、のところでは安堵したように息を漏らし、逃走劇を話すところでは、緊張して息を呑む。おぶっているから表情は見えないが、彼女の胸中は呼吸の様子で簡単に窺えた。

「……そんくらい、かな」

 三十分くらいで、全て話し終えた。手元のカードを出しきって、口を閉じる。頭の中を整理しているのか、みつきも黙ったままだ。夜の散歩は、しばしの静寂に包まれた。

 ――まあ、当然だよな。

 即座に理解するのは無理な話だ。今オレ達がいるのは二千二十年の日本で、オレもみつきもただの高校生。どんなに技術が進歩しても、不老だの吸血鬼だのいう言葉とは縁が無い。

 数分、耳に入って来るのは、小さな風の音と、遠くから聞こえる車の走行音だけという状態が続いた。眠りに付き始めた街並みからは、ほとんど音が聞こえてこない。

 しかし、そんな時にも終わりが訪れた。

「ゆう、」

 みつきが、オレの名前を呼んだからだ。声にはまだ困惑が残っているように感じた。

「ん?」

「降りる」

「ああ、うん」

 足を止めてしゃがむと、日向号から降車したみつきは、オレの隣に立ってこちらを見上げてくる。思った通り、その瞳には困惑の色が見えた。

「ごめんな。オレでも訳わかんなかったんだから、みつきは意味不明だったろ」

 小さな頭を軽く撫でると、みつきは猫みたいに目を閉じた。そのまま喉でも鳴らしそうな動作だ。

 しかしみつきがとったのは、そんな本当の猫と同じ行動では無かった。すぐに目といっしょに、口も開いたのだ。

「うん、確かに急にいろんな言葉が出て来たから頭がパンクしそうだったけど。あのねゆう、私、それとは別に一個わかんない事があるの」

 小首をかしげながらそう宣言したみつきに、少し面食らった。さっきから彼女が見せている困惑の色は、どうやらオレが思っているのとは別の観点から発生したものらしい。

「わかんない事?」

「うん。ゆうはさっき、その紗理奈って子について教えてくれたでしょ?」

「ああ」

 みつきに完全に必要ない、紗理奈の戦闘時の特徴以外は全て話した。現在までにわかっている容姿と、義賊まがいの事をしているってのが主だ。

 確かにわかっている事は少ないが、どこかわかりにくかったか。話下手だからなオレは。

「すまん、どっか説明不足だったかな」

「ううん、違うよ。わかんないのは、その子自身のこと」

 紗理奈、自身ってことだよな。

「ヤツについては情報がほとんど上がって無いからな。多分、なんとも言えねぇぞ」

「わかってる。だから、ゆうの考えを聞かせて欲しいの」

「考察ってことか」

 オレの返答に、みつきはこくりとうなずいた。

(考察、オレの考え、か……)

 極や所長なんかの頭のいい人間ならともかく、一戦闘員に過ぎないオレの考察なんざ正直たかが知れてるとは思う。思考の深さも、視野の広さも段違いだ。

 しかしそれでも、

「お願い」

 みつきの目はやけに真剣だ。発せられる強い意志が、オレを捕らえて離さない。無論、ここまできて逃げる気も誤魔化す気も無いが、仮にそのような考えがあったとしても、この目はそれを許さないだろう。それほどまでに、彼女は純粋な気持ちで答えを欲している。

 それなら、いくらでも応えてやるさ。

「いいぜ。何が聞きたい?」

 強くうなずいたオレを見て、みつきはホッとしたように息を一つ吐いた。だが次の瞬間には、表情を引き締めてオレの目を見据えてくる。

「あのね、なんでその子は、裏社会にいなきゃいけないのかな?」

 普段口にしない裏社会という言葉をたどたどしく使いながらも、みつきはオレに問うた。なぜ、裏社会にいなければならないか。既にそこに身を置くのが当たり前になっているせいか、なぜか、という質問の意図を掴めなかった。

 質問に質問で答えるのは邪道だが、ここは仕方ない。

「なんで、ってのは?」

「その子、見た目は中学生くらいの女の子だって言ったよね?」

「まあ、不老とかなんとか言われると外見年齢はあんまアテにならねーけどな」

 実年齢も明らかになって無いし。

「でも、闘ったりするのに向いてる外見じゃないよね?」

「そらまあそうだな」

「だからね、わかんないの。ゆうは体もおっきいし、闘うためにいつも訓練とかしてるのに、よく私に言うでしょ? 『どんなに鍛えても、戦闘なんて起きないのが一番いい。戦場なんざ一秒たりともいたく無いよ』って」

「ああ」

 みつきの言った事は本当だ。オレが戦闘訓練をするのは生き残るためであって、生きるためならそもそも殺し合いなんてしないのが一番いい。

 眉を曲げて難しそうな顔をしたまま、みつきは続ける。

「その子だって、きっとそれは同じでしょ? 目標以外には手をかけてないってゆうも言ってたし。なんで体格的にも不利で、いたくもない危ない世界で生きてるのかな、って思ったの」

 ゆうからしたら、素人の考えなのかもしれないけど……、とみつきは小さく締めくくった。

 なるほど、みつきの聞きたい事は理解できた。たしかに、今ある情報から考えると、紗理奈の存在は裏社会ではかなりのイレギュラーだ。それはオレも感じていた。

 その事についての、オレの考察となると……。

 一分ほど、思考を巡らせた。みつきの欲している答えを出せるかはわからないが、なるべく納得いく回答をしてやりたい。

 夜の闇の中で不自然に明るい自販機の灯りが視界から消えていったのと同時に、前を向いたまま口を開いた。

「……ヤツがなんで裏社会に現れたのかはわかんねぇ。けど、今も闘い続けてる理由は多分、オレと同じなんじゃねぇかな」

 視界の端で、みつきが首をかしげたのが見える。

「ゆうと同じ?」

「ああ。つまり、何か命をかけてでもしなきゃならない事があるんじゃないかと思ってる」

 オレがみつきとの生活を護り、因果の連中を倒すという信念に基づいて特警にいるように、紗理奈にも強い信念があるのではないかというのがオレの推測だ。そうでもなければ、あんな物騒な世界で生き残れないだろう。

「さっき、説明したよな。ヤツはとにかく、生き残る事に異常なまでに執着してるって」

「うん」

「戦闘的な実力差をその執念だけで埋めてるってんなら、相当強固な意志なんだろうよ。みつきはよくわかんねーかもだけど、執念って場合によっては戦況を完全にひっくり返すほど重要だからな」

 少し視線を落として、自分の拳を閉じたり開いたりするのを眺める。オレだって、生きるという執念で何度もこの拳を振るってきた。そうして相手を殺してきたからこそ、今こうしてみつきと歩いているのだ。

 いつも戦場で見る、紅く染まった拳が一瞬フラッシュバックする。その残像を頭を振って追い払い、視線を前に戻した。

「情報が少な過ぎてなんとも言えねェけど、ヤツが何かの目的を持ってるってのは間違いないと思う。それなら目標以外を殺ってないてのも筋が通るしな」

 すまん、あんま考察になってなかったな、と苦笑いしながらみつきの方を向いてみると、彼女はひどく悲しそうな、寂しそうな目をしていた。まるで誰かと今生の別れでもするかのような、見ているこっちまで心が痛むような、悲哀の表情。

 オレが任務に赴く前に見せるのと、同じ顔だ。

「みつき? どうした?」

 今にも泣きだしてしまいそうな彼女の、ガラスのように透き通った瞳を覗き込む。するとみつきは、オレから目を逸らすように顔を伏せ、絞り出すような声で呟いた。

「仕事が入ったらゆうは、その子と殺し合いをしに行くんでしょ?」

「ああ」

 短いオレの返答を聞いて、みつきは一瞬怯んだように喋るのをやめた。しかしすぐに、先ほど同様に言葉を絞り出してくる。

「心の底ではゆうと同じ気持ちで闘ってるのに、わかり合って、殺し合いなんかしないで済む方向には持っていけないの?」

 あまりにも純白な言い分だった。本来なら、物事の解決はそうあるべきなのだろう。さっきも言った通り、本当は殺し合いなんかしないのが一番いいのだから。

 けど……、

「みつき、聞いてくれ」

 それはあくまで、表の世界でしか通用しないルールだ。オレは特警、紗理奈はそれに追われる犯罪者。その関係が発生した時点で、そこには血で書かれた裏のルールが出来上がる。

 足を止めた。街灯によって出来るオレの影が動きを止め、それに気付いたみつきがオレの数歩先で立ち止まり、こちらを振り返る。

「お前の言いたい事は最もだ。お互い理解し合えれば、そこに血は流れないよ。けどな、それをやるにはオレ達はもう汚れ過ぎてる。血に濡れ過ぎて、目の前が真っ赤で、相手の姿なんかまともに見えちゃいない。ただ自分の正しさを証明して、生きる為に相手を殺す事しか出来ないんだよ」

 なぜなら、オレ達はただの人間だから。ルールを書換えられないなら、そのルールの中で生き残るしかない。

 みつきがそれをわからないのは仕方ない事だ。彼女は表の世界しか見た事が無い。だが彼女の言う通りにする事は、どうやっても不可能だ。

「みつき、忘れるな。いくら目標以外を殺していないって裏社会での筋を通しても、人を殺してる時点で表社会の筋は通せてない。表で道を踏み外したら、裏で追われるってのはしょうがない事なんだ。その為に特警は存在してる」

 そしてその為に、オレは生きて闘い続けている。オレの表での生活を、裏に脅かされないために。特警なんていう、立場以外やっている事は犯罪者と変わらない組織で人を殺し続けている。

 そして、もう一つ。

「みつき、言うまでもないけど、オレはお前を失うのが何より怖い。お前はどうだ? オレが死んで、いなくなったら」

 少し緊迫した口調で発したオレの問を聞いたみつきの顔に、はっきりと怯えの色が見える。小さな体を縮こまらせて目をぎゅっと閉じ、何かを振り払うように、みつきは首を振った。

「私だって嫌だよ……。ゆうがいなくなっちゃうなんて、考えるのも怖いくらいなのに……」

「悪い。怖がらす気は無かった。けどな、その可能性も零じゃない。さっきも話したろ。紗理奈はな、やろうと思えば特警隊員を殺すのも訳ないほどの力を持ってるんだ」

 ひとたびヤツが本気になれば、たとえ先輩がいても、オレ一人殺す事など造作もないだろう。最悪、オレと先輩の両方がやられる事だって十分あり得る。だからこそのSランクだ。一週間後、オレがこの世にいるかの保障は全く無い。

 重い沈黙が降りた。死と隣り合わせだという実感が、オレとみつきに重圧となってのしかかる。目を閉じれば、リアルに想像できる。心臓を貫かれ、体のどこかをフッ飛ばされ、毒で体内を蝕まれ、死んでゆくオレの姿が。

 生温い風が、オレ達の間に吹いた。

(さて、もう一個話さなきゃな……)

 いくら敵が危険とはいえ、オレもあっさり死ぬ気は毛頭無い。だがそれでも、相手が相手だ。やれるだけの準備はしておかなくては。

 重い空気を蹴散らすようにして、みつきに向かって歩き出した。とはいっても、たった数歩ほ距離だ。三秒ほどで足は止まった。

「みつき、」

 視線を下げて名前を呼ぶと、みつきもオレを見上げた。互いの視線がぶつかる。

「いろいろ言ったけど、今回の敵が今まで以上に危険だってのが結論だ。それはわかってくれたか?」

 こくり、と、小さな頭が縦に動く。その肯定の動作にこちらもうなずきを返して、続けた。

「当然、任務になりゃ全力で闘うし、どうにかして生きて帰って来るつもりだ。ただそれでも、お陀仏になる可能性は捨てきれねぇ。だから、」

 伝えるはずだった。オレの死後、彼女がどうすべきかを。誰を頼り、どこに行くべきかを。今までに何度か言ってはあるが、これが最後になるかもしれない以上、確認しておかなくてはならない。

 だというのに、

「もし……、」

 みつきは、羽のように柔らかい動きで、言葉を発しかけたオレに抱き付いた。背中に手を回し、オレの胸部に顔を埋めて、全てを預けてきたのだ。

 あまりに無防備なその動作に、戸惑いを隠せなかった。

「ちょ、みつ……、」

「『もしオレが帰って来なかったら』って言うつもりだったでしょ?」

 顔をうずめたままのみつきが、くぐもった声で、オレが言おうとしていた事を一言一句違わずに言い当てた。

「わかってんなら……、」

「ゆうが言いたい事、わかってるつもりだよ。それに、相手の子とわかり合えないのかっていうのもまだ納得した訳じゃない。けど、さっき私言ったよね。私は、ゆうがいなくなるのが一番怖いの。それを、考えるだけでも」

 オレの言葉を遮ってみつきは続けた。いつになくはっきりとした口調に、思わず出かけた言葉が引っ込む。

 みつきの言葉は、なんのフィルターも通さずに、心の中からそのまま出てくる。つまり今聞いている言葉は、彼女の本心そのもの。聞き逃す事など、出来はしない。

 みつきの顔が上がり、再びオレと彼女の視線が交差した。先ほど悲しみ、怯えていた目は、いつもの優しく、温かい眼差しを取り戻している。

「大丈夫だよ。ゆうはとっても強いって、私は知ってる。生きたいって思ってるゆうと、生きて欲しいって思ってる私がいる。力だって、生きるって執念だって、両方負けてない。だから、大丈夫。ゆうは絶対、私のところに帰って来てくれる」

 抱きしめる腕が、少し強くなった。体温とともに、彼女の鼓動が小さく伝わってくる。まるで、みつきの心臓が、オレの心臓に直接語りかけているような。そんな錯覚を覚えた。

 半ばあっけにとられているオレに向かって、みつきはニコリと微笑む。

「信じてるから」

 その一言をオレの耳に届けると、再び彼女は胸に顔をうずめてきた。

 ここまで手放しに、無邪気に、人は誰かに思いを預けることができるのか。みつきといっしょにいると、たびたびその事に驚かされる。

 今だってそうだ。ひとたび任務が入れば、オレは戦地に赴くことになる。わかり合う事は出来ないのかと、彼女が救いを求めた相手と命のやり取りをしに行くのだ。おまけに、敵はこれまで闘った中でも最強。死と隣り合わせという表現は温かった。死に半身を突っ込んだ状態で拳を振るわなければならない。そんなオレを全部ひっくるめて、みつきは信じて待っていると言った。

 まるで、天使のような笑みを浮かべながら。

(流石だよ、お前は……)

 こういう時、実感する。タイプは全く違うけど、お前はあの光夜さんの娘なんだよな。どんな相手だって優しく包み込める、広くて深い心を持ってる。今まで何度それに救われてきたか、数え切れない。

 小さな頭を右手で軽く抱き寄せた。きょとんとしたみつきは、少し上を向いてオレの顔を見上げてくる。

「わかった」

 行くのはオレのエゴだ。拳を、銃を振るうのもオレのエゴだ。だが、最愛の人物に信じられているのなら、オレはそれに応えよう。約束しよう。


 必ず、みつきの元に生きて帰ると。


 見上げてくる視線を、まっすぐに捉える。

「絶対、生きて帰ってくるよ。帰ってきて、いつもみたいにただいまって言う」

 特警隊員として生きる道を選んだオレが彼女に出来るのは、たったそれだけだ。

 はっきりと、強い口調で言い切ったオレの言葉を飲み込むように、再びニコリと笑ったみつきは、大きくうなずいた。

「絶対だよ?」

「ああ」

 うなずきを返して、さっきより少し強くみつきの頭を胸に抱く。

「約束だ」

 深まるばかりの夜の闇の中で抱き合ったオレ達を、街灯がスポットライトのように照らしている。周りには誰もいない。音も聞こえない。この小さな舞台の観客は、海のように深い夜空で瞬く無数の星だけだ。

 まるで映画のワンシーンのように、オレとみつきは約束を交わした。








 思えば、ヤツとの奇妙な関係は、あの土曜の夜には既に始まっていたんだ。見えない鎖に繋がれてでもいるかのように、交わることの無い平行線となって、何度も戦い、傷つけあう運命。

 それを人は、なんと呼ぶのか。


 サタデーナイトスペシャルでカーチェイスに巻き込まれた日から、ちょうど一週間後。満月の土曜日。

 オレの仕事用携帯電話が鳴った。

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